同棲、百十八日目。
更なる試練が待ち受けていようとは、あの時のあたしは何も知らなかったのである。
むしろ、知らなくて当たり前だったのだ。先生のあの言葉の意味がどういった意味なのか、深く考えていなかったあたしが悪いのかもしれないけれど……いや、違う、あたしは悪くないはずだ。
詳しく話さなかった先生が悪いのだ。だから、この今の状態は自分のせいではない。断じて、違う。
「こちらの物件はこのクローゼットが――」
説明をしてくれる不動産店員の話は全く耳に入らないし、目の前に広げられている図面も意味が分からないし、こんなの今まで授業で習っても無ければ勉強する機会なんて普通に生活していればあるわけが無いのだからもうどうしたらいいのかわからない。
とりあえず、テーブルに並べられている、複数枚のA4用紙に印刷された図面と写真は置いておいて、右端記載されている金額の桁がおかしいことはわかった。
「こちらの物件はパントリーがついておりまして――」
パントリーって何? カントリー的な? 台所に街があるの? もしくはカントリー真亜夢なの? カントリー真亜夢を収納するスペースってこと? そんなに広いスペースにカントリー真亜夢を収納するとかもうそれ業者じゃねぇか。
先生は黙って話を聞いているけれど、真亜夢業者にでもなるの? 転職なの? 転職してどうするの?
「――っ!?」
「……仕様もない事考えてンだろ」
「いやだって、今の状況に理解が追い付かないんですって」
担当してくれている営業さんが席を外した瞬間、左手の甲を軽く抓られた。
先生はなんだか楽しそうに口端を上げているけれど、あたしからしたら本当に意味が分からないのだ。
どうして今、不動産の店舗に足を運んでいるのかなんて、まだまだ社会経験が少ない高校生に理解しろなんて酷だと思った。
いや、薄々勘付いてますけどね! 気付いていないふりをしていますけどね!!
「……先生、カントリー真亜夢の業者にでもなるんですか? それとも転売ですか? 転売ヤーは絶許ですよ…?」
「やっぱりくだらねェ事考えてたんだな」
「だって、パントリー? とか、普通に生活していて聞きます? わけわかんないですよ」
「おめーが無知なだけだろ」
「そうじゃないですって。銀八に聞いてみて下さいよ。絶対カントリー真亜夢って言いますから」
「知るかよ」
営業さんにはこれが仲良い会話に見えたのだろう、戻ってくるなりにこやかに、これから楽しくなりますね、なんて言ったものだから、先生も口端を上げたまま同意してしまった。
いやいや、まてまて。確かに一緒に住むとかどうとか言っていたけれども、こんなすぐ家とか決める必要ありますかね。あたしにはまだ早いような……というか、そうじゃなくて、入学してからでもいいのではなかろうかね。
「この時期は一人暮らしする学生さんや転勤される方、言ってしまえば新生活の引っ越しシーズンですので、人気なお部屋はすぐに決まっていくんですよ」
あたしの頭の中の疑問を、空気を読んだのかもしれない営業さんが解消してくれた。
そういえば、神楽も一人暮らしするとか言っていたような気がする。まぁ家族は許さないと思うけど……特に、神威さん。本人は否定してるけどシスコンだもんなぁ。
なんて事を考えていたら先生と営業さんが話し込んでいたので、そっと聞き耳を立ててみた。――よくわからない単語が多い中、聞き取れるのは具体的なお金の金額だけだ。四桁万の金額なんて、なんの金額なんだとか思っていたけれど、本当に何の金額なんだ?
部屋を借りる賃貸ならそんな金額するのだろうか。
「それでは、こちらの分を次回内覧という形でよろしいでしょうか?」
「頼みます。日程が決まり次第こちらも都合付けます」
「えっ!?」
「……帰ったら説明してやるから、おめーは少し黙っとけ」
「……はーい」
勝手に話がどんどん進んでいくのは、当事者なのに蚊帳の外にされているようで居心地が悪い。というのも、あたし自身が会話に参加していない事と理解していない事と、あと他に理由を挙げるのならどうして折角の日曜日に不動産に来ているのか意味わからない事だろう。うん、結局全部だ。
内覧日が決定し次第ご連絡いたします、なんて丁寧に頭を下げてくれる営業さんにつられて頭を下げて挨拶をし、腕を引っ張られるように不動産屋を後にした。
コインパーキングに駐車されている真っ赤な車の助手席に慣れたように乗り込めるのは、最近いろいろなところに連行されているからだと思った。
大手の家具屋さんを何店舗も連行された先週は、夕飯をもうちょっと奮発してほしかった。いや、普段から連れて行ってもらえる外食はそれなりに良い所なのだけれど、そうじゃなくて、庶民的な奮発をしてほしい。焼肉とか、食べ盛りの高校生にとっては最高なのだ。
「……先生」
「なんだ」
「先週から思っていたんですけど、あの、そういう事ですよね?」
「なにが」
「だから、その、この状況です」
車のエンジン音に掻き消えそうなくらいの、自分でも思っていた以上に細い声が出てしまった。
先生はそれを聞いて、いつも通りに喉で笑う。こういうところが悪い大人なのだ。
「言ったろ。一緒に住むかってな」
「……今の家で、そのまま同居って、思ってました……」
「ンなもん、おめーの親が帰ってくる中で、どうやって住むんだ」
「で、ですよねー」
いやでもまてまて。うちの親が、特に父さんが許してくれたのだろうか。だってあたしをお見合いさせようとかしてきてたわけだし、母さんは応援してくれている節はあるけど今の同居だって遠い親戚で教師でもあるから面倒を見てほしいっていう名目で同居しているわけで、まぁ実際は男女関係に発展してしまったわけだけど親が戻ってくるから名目上一緒に住むなんて出来ないわけで、あたしが大学に入学したら尚更一緒に住むなんて事は――、
「……親、説得しました?」
「まだだな」
この教師本当に何考えてんだ???
「先生の頭の中に、計画表ってあります?」
「あ? 何言ってんだテメー」
「いや、だって、親の説得もまだなんですよね? じゃああたし、まだ未成年ですよ? 親の承諾がないと――」
「成人は18歳からだろ。つまり大学入学時点でお前は大人の仲間入りしてンだよ」
「お、おう……結構な暴論ですよ……?」
マンションの駐車場へと入庫していく、目立つ車はいつの間にか薄暗い駐車場に馴染んでいた。
ピーッピーッと機械音が辺りに響き、慣れたハンドル捌きで駐車していく先生はなんかやっぱりカッコいい。伸ばされた前髪で顔の左側が見えないけれど、好きな人との瞬間々々が好きの更新だとかなんとか最近読んだ少女漫画に描いていた通りなのかもしれない。
腕を組み、うーん、と改めてなんで自分はこの変態保険医を好きになってしまったのか考えてみる。駐車中は比較的暇なので、先生にとってはどうでもいい事を考える時間に向いているのだ。
出会いとか思い出していると、後ろを見る為に先生の顔が近付いてきた。伏し目になっていたので焦点を合わせれば、先生の切れ長の目が目の前にあった。
思わず、ひっ……と掠れた声を出してしまった。
鼻先に柔らかい感触。……なんで鼻っ?……と思うと同時に、珍しく楽しそうな先生の目元に心臓が飛び跳ねる。
「……攫ってやるから、覚悟しとけ」
「は、…はひ……っ」
圧に負けたあたしの返事は、鳴り続ける機械音と愉しそうな笑い声に搔き消された。
(2022/11/10)