拙者が、万斉兄ちゃん、と呼ばれていたほど昔は、拙者も晋助も若かった。
若かったからこそ、こんな感情を妹だと思っていた子に抱くなんて思ってもいなかった。
同棲、三十五日目。番外編
苗字さん、 いや、名前殿は昔の面影が少しあるだけで、大分可愛らしくなった。
女らしく、の方が合っているのだろうが、とにかく、久しぶりに会った瞬間、胸が高鳴ったのは事実だ。
昔のこと過ぎて、拙者のことを忘れてしまっているからか、河上先生と呼ばれることがむず痒い。晋助の事も高杉先生と呼んでいるほどだ、小さな記憶の断片に拙者が少し登場しているだけだと思う。
小さかった頃の記憶は薄れ行くものだとも知っている。だから昔話を何度もしようとした。その度に晋助に止められた。
「河上先生ー、海外のこと教えてよーっ」
「今は見回り中だから、また今度話してあげるでござるよ」
「絶対だよーっ!」
何故か周りに居る女生徒が、とても欝陶しく感じた。こういう時、たいてい名前殿の敬語や声と無意識的に拙者は比べてしまっているらしい。
彼女はあまり敬語を崩した話し方はしないし、媚びてくるような女生徒のように猫撫で声なんて絶対出さない。
そんな彼女のことを、晋助や坂田先生は気に入ったのだろう、拙者もその中の一人だからか理由は何となくわかった。
「ほら、君達も早くクラスに戻った方が良いでござるよ」
「えー! もっと先生と話したいのに…」
「クラスなら大丈夫だよ、ちゃんと当番制になってるから」
当番制やシフト制でも、丸一日働いている生徒の居るクラスだってある。現に、ピーク時のZ組の出店は人気過ぎて、見回った時にも行列が出来ていた。きっと、名前殿も含め、Z組生徒総出で頑張っているはずだ。
クラス事情なんて知りたくもないし組を担当しているわけでもないので知る必要もないのだが、成績は悪いが行事を頑張っている生徒と成績は良いが行事をサボる生徒では全く印象が違う。普段の授業態度を考えれば、ほとんどの教師は後者の方がいいと言うだろう。だが、人間性を重視して考えれば、拙者は前者の方がいい。
「じゃあ拙者は見回りに戻るから、皆も頑張るでござるよ」
半ば無理矢理女生徒を振り切り、拙者は本来の仕事である校内の見回りに戻った。
やはり一人の方が何かと楽で良い。ふと視線を窓の外に向けると、中庭では軽音部がライブの準備に取り掛かっていた。
吹奏楽部顧問の拙者から見ても、良いアンプや良い楽器を使ってるな、と思う。趣味でギター系の弦楽器も弾くので興味深く眺めていれば、向かいの校舎を走る名前殿の姿が目に入った。
なぜあの廊下を走っているのかと疑問に思ったが、すぐに休憩中なのだろうと勝手に解釈をすることにして視線を外そうと、
「あれは……」
サングラスのレンズのせいであまりよくわからないが、名前殿の走る反対側から二人組の男が歩いて来ていた。
あっちの校舎の三階四階は関係者以外立入禁止のはず。
――考える前に、身体が先に動いた。助けたい。その一心で名前殿の元へ走る。あまり全速力で走るのは得意ではなかったが、今はそんな事も言ってはられない。
「間に合え……!」
キャラ設定であるござる言葉も忘れて、拙者は走った。
手摺りを掴んで階段を一気に飛び、一段一段下りる手間を省けば、すぐに名前殿のいる廊下に着いた。
「ここは関係者以外立入禁止の場所だったような気がするのだが?」
二人組の一人の肩にぽん、と手を置いた。ちょうど軽音部の演奏が始まる。
二人組の言い分を聞けば、家庭科室に用があるらしく迷っていた結果名前殿とぶつかったので行き方を聞こうとしたんだそうだ。
顔は少々いかついが、性格は温厚らしい。全速力で走ってきたのが恥ずかしくなった。
行き方を教えると、笑顔でお礼を言われて二人組は去って行く。怖がっていた名前殿に声をかければ、心底安心した表情に、なぜか、胸が高鳴る。
「先生とは、どういう関係なんですか?」
「ああ、まだ苗字さんには言ってなかったか……」
昔話を話すことは晋助に止められていた。止める理由を知るはずもない拙者は、とうとう話してしまった。
相当驚いたように名前殿の表情が一変する。だが、記憶をいくら探っても、拙者も晋助も登場してこないような表情をされて少し困った。
「赤ちゃんの頃、晋助とミルクをあげたこともあったでござるな」
「マジでか!」
身に覚えのないのは当然だ。嘘なのだから。
だが、記憶を探そうとする名前殿をからかいたくなり、また違う昔話をして、最終的に全て嘘だと告げれば、面白い百面相を楽しめた。
話しているうちに歩みは遅くなっていく。しかし百面相を繰り広げる彼女は全く気にしてないようで。本当の思い出を語ってあげれば、今度は怪しみながらも自分の記憶の断片をかき集めているようだ。
ふと、シャッター音が聞こえたので周りを見渡すが、誰もカメラを持っている人物はいなかった。前みたいに不安がらせてはいけない。そう思って、もう家庭科室に着いてしまったことを告げた。
「ありがとうございました、河上先生!」
一礼されて家庭科室へ名前殿を送り出しまた歩く。
高校の文化祭は懐かしいものだった。当時はやる気が無くクラスの女子から怒られたこともあったが、今はいい思い出だ。
「……晋助、何をしているのでござるか?」
いつの間にか、Z組の喫茶店の前に歩いて来ていたらしい。
中の様子をちらちらと伺う挙動不振の晋助の姿が見えて、少し距離を置いてしまう。
「万斉、か」
「名前殿なら休憩中でござるよ」
「みてェだな…」
咳ばらいをして何事も無くごまかそうとしている晋助に、これまた何故か腹が立った。
そのまま、名前殿の居ない教室へと晋助を誘い、メイドではなく執事役の生徒から接客を受ける。コーヒーを二つ頼み、それが来るのを待つ事とした。
「万斉、何のつもりだ?」
「特に何も? ただ、晋助と話がしたいだけでござるよ」
「お前から誘われるなんざ、気味悪ィな」
「ひどいでござるなー」
コーヒーを運んで来たのは、メイドでも執事でも無く、空気の薄い、志村君だった。
「河上先生、心の中で失礼な事を言わないで下さい。はい、コーヒー二つです」
「すまないでござるな、志村君」
「……騒がしいな」
「あ、すみません。皆…って言ってもメイド役の人だけなんですけど、指名率トップの名前さんを抜かそうと、躍起になってるんです」
「醜い争いアル。ご主人様ー、コーヒーと一緒にケーキなどいかがですかー?」
「指名されてないのに出て来ちゃダメでしょ、神楽ちゃん。姉上も何を考えてるんだか…」
「どうかしたのか?」
いつもは無関心な晋助がコーヒーを飲みながら聞く。それに驚いたのは拙者だけではないようで、志村君も神楽さんも驚いていた。
「怪我人が出たら俺ァ戻らなくちゃならねェからな」
「ああ、そっちでござるか」
「…ンだ? 文句あんのか?」
「特に、何も」
とりあえず志村君の話を聞くことにした。
なんでも、名前殿の指名率を越えようとメイド服を着た生徒全員が名前殿に少ない休憩時間をプレゼントしたそうだ。
全員と言っても、下手物メイド二人は自分の休憩時間が惜しくてプレゼントはしていないらしい。大して働いてもないのに、と志村君が愚痴を零した。
「では、ごゆっくり」
神楽さんを引っ張りながら志村君は席から離れて行く。晋助は静かに再度コーヒーを飲み、なんか話があんだろ? とそう言う晋助の目は、昔の目だった。
名前殿の事を好いていると白状した。晋助は喉を鳴らして笑っているだけだった。
(好きだ好きだ、好きだ。一度わかってしまえばその感情が心を占領していく。一度宣戦布告してしまえば、何も怖いことは無くなる。正々堂々勝負すれば良い。あの時、妹のようだと思っていた女の子を好きになってしまうなんて、自分を笑ってしまうほど拙者は、いや、俺は名前殿が好きだ)
(2009/07/03)
(2019/09/01 再編集)