だんだんと涼しくなってきた十月の半ば。
文化祭の興奮も冷めないけれど、音楽室のクーラーはあたしの汗ばんだ体を冷やしてくれた。


同棲、三十六日目。



月に三回あるかないかの音楽の授業は、今まで違う先生だったけど、今学期からは河上先生の授業に変わっていた。
クラスで移動して、2時間防音の施された壁に囲まれながらクーラーで体を冷やされるのは、中々なものだと思う。

「ピアニストであるリストの作曲したこの曲は――」

河上先生が作曲家の説明をする。音楽の歴史を知るのは嫌いじゃないけど、好きでもない。
クラシックは聴いたらわかるだけで、曲名を知らないものがほとんどだ。飽きてきた所でタイミング良くチャイムが鳴る。今日の日直は神楽だった。

「苗字さん、」
「はい?」
「……私達、先に行ってるわね」

河上先生に呼び止められて、返事をする。妙達は先に教室に戻った。
六時限目が終わったからか、疲れきったクラスメートが立ち去るのを待ってあたしは口を開いた。

「どうかしました?」
「いや、晋助にはもう言ってあるのでござるが…」

なんだか落ち着かない様子の河上先生は、頭をぽりぽり掻いた後、改まった表情をして口を開いた。

「今週中に、出て行こうと思ってるでござる」
「……はい?」
「いや、言い方が悪かったか。新居が見つかったでござるよ」

忘れてた。河上先生は、家が見つかるまでという期限付きで居候していたんだった。
一ヶ月と少し。それがあたしと高杉先生と河上先生で過ごした期間。短かったけど、濃い時間を過ごしたような気がする。

「それにしても、いきなりですね」
「そうでござるか?」
「はい。でも、なんだか寂しいですね」
「学校では会えるでござる」
「そうですけど、なんか、昔お世話になったらしいので…」
「でも記憶に無いのでござろう? 拙者は思い出してほしいわけではないでござる。ただ、」
「ただ…?」

ふわっ、と頭を撫でられた。優しい手。まるで壊れ物を扱うかのように撫でられて、少し戸惑ってしまう。
河上先生の目は相変わらずサングラスに隠れて見えないけど、悲しそうに見えた。
ふわり、ふわり。撫でられるのに抵抗が無くなった時、あたしは河上先生に抱きしめられる。
ぎゅう、ぎゅう。いきなりのことで頭が回らない。どうかしましたか? と問えば、すぐに体は解放された。

「河上、先生……?」
「あぁ、すまない。……昔が、懐かしくなったでござる」

文化祭が終わってからの河上先生は、少し変だ。何かある度に、昔が懐かしくなったとあたしに話してくる。
何が何やら。わからないあたしを、河上先生は微笑んで無かったことにしてくるから聞こうにも聞けない。
ほら、また微笑んだ。

「あと少しでござるが、よろしくお願いします」
「えっ、あ、…はい」

なんだかしっくりこなかった。わけが解らなさ過ぎて、教室に戻った後、銀八のくだらない話を聞かずにまた考えてもわけがわからないままだった。

「……名前ー、おい、名前ー」
「――えっ?……いてっ!」

名前を呼ばれて顔を上げれば頭を何かで叩かれる。
視線を上げると、出席簿を持った銀八と目が合った。

「もう全員帰ってんだけど」
「え! うそ!!」

周りを確認すれば、銀八が言ったように誰も居なかった。
教室には銀八とあたしの二人だけで、時計を確認するとホームルームが終わってから30分は経っている。
あ、やばい、今日はお肉の特売日だった。

「銀八ありがと!」
「ちょーっと待とうか、名前ちゃん」

荷物を詰めた鞄を持って立ち上がったが、銀八がにやにやした表情で目の前に立ちはだかってくる。
あたしには夕飯を作らなくてはならない使命があるんだから早く帰らせろ馬鹿天パ。

「何か、忘れてない?」
「何を」
「俺との約束」
「約束?」
「ほら、したじゃん、約束」
「ンなもんしたっけ?」
「ここまで言わないとわかんねーのかこの頭は! 弁当だよ! べ、ん、と、う!」
「弁当? 弁当…弁当……あ、」

そういえば、文化祭の準備に気を取られてたから銀八にお弁当作って渡すの忘れてた…と、思う。
やっと気づいたのか、とでも言うようにため息を吐く銀八が欝陶しく見えた。いや、銀八が欝陶しいのは変わり無いんだけれど。

「わかった、作ってくれば良いんでしょ? 今更、一人や二人増えても関係ないし」
「本当か!? いやー、先生は嬉しいぞ」

勝手に嬉しがっとけ。そう思いつつも口には出さない。
マーカーで、お弁当四つ、と手の甲に書いて鞄を持つ。銀八の機嫌は良かったが、それと反対に、あたしの機嫌はだだ下がりだった。



河上先生が居なくなったら、作るお弁当は一つ減る。

(2009/07/03)
(2019/09/01 再編集)