気が付いたら中間テスト直前だった。
寸前に勉強をしても間に合うはずもなく、あたしは答案を見た高杉先生にこっぴどく叱られたのだった。


同棲、三十九日目。



拍手喝采。芸術鑑賞会という行事で来た音楽ホールは、2階席3階席は当然、5階席まであるという豪華さ。
貸し切りらしい音楽ホールの中で聴くクラシックはとても心を安らげてくれた。曲の合間合間に偶然隣に座っていた河上先生が作曲者や曲の作られた時代などを小声で説明してくれているので、音楽の授業が出張でついてきているような感覚だ。不思議なことで睡魔は一切やって来ない。
また演奏が始まった。

「これはバッハでござるな」

例によって河上先生が説明してくれる。我々2年Z組は人に迷惑をかけないように、と5階席の後ろの方に座席を配置させられたので、監督の教師も担任である現在進行形で爆睡中の銀八と音楽の教師である河上先生だけだ。
注意される事もないので、あたし以外のクラスメイトは全員寝ているが、いつもなので気にしない事にした。でも担任まで寝るとかどうなんだろう、教師としての意識はあるんだろうか銀八には。あ、聞くだけ無駄か。

「動物の謝肉祭はやはりファンファーレが拙者は好きでござる」
「あたしは化石ですかね。あとは、水族館とか」

曲の合間合間に河上先生と話すのが楽しかったからか、3時間のクラシックコンサートはすぐに終わってしまった。
拍手の音で起きたのか、あくびをする声があたしの周り限定であちらこちらから聞こえてきた。

「よぉし、お前らー、学校に帰るぞー」

寝起きの銀八の声がする。のそのそと立ち上がったZ組の面々は、まだ眠たそうだった。
学校の近所にある音楽ホールから帰る道中、また河上先生とクラシックの話で盛り上がった。モーツァルトがどうとか、ベートーベンがどうとか。音楽の授業よりも濃い内容は、あたしの興味をどんどんくすぐる。

「……晋助は、音楽が嫌いでござろう?」
「嫌いかどうかはわかりませんけど、…聴いてる所は見たことないですね」

いきなり高杉先生の話に切り替わって、少し戸惑う。なんだか最近、事あるごとに河上先生は高杉先生の話をしだすから、それがどうしてかなんてわからないけれど、話を切り替えるのは河上先生なのに当の本人は複雑な表情をいつもしている。
嫌なら話さなかったら良いのに、なんて、あたしが言える義理じゃないけれど。

「……苗字さん、」
「はい?」
「実は昔の晋助の写ってる写真を見つけたんでござるが、放課後、音楽室にどうだろう?」
「その写真って……先生の弱み握れますかね?」
「嫌がらせは出来るとは思うが……」

なら良し! と心の中でガッツポーズを決めた。
学校に帰ったらちょっとしたホームルームがあるだけだし、終わったらすぐに音楽室に行くことを河上先生と約束する。
その最中、引率で前方を歩いていた銀八がムーンウォークでこちらにやって来た。なんだか格好つけすぎて気持ちが悪い。

「随分と仲が良いこって」
「少なくとも銀八より仲良いよ、河上先生とあたしは」
「銀ちゃんスネちゃうーっ」
「キモいから。久々だけどキモいからやめて銀八。さもなくば道路に突き出すから」

手を銀八の背中に這わして押せば、銀八はすぐに早歩きで前方に進んで行く。坂田先生も苦労人でござるな、と河上先生が言った。
あれは自ら苦労を呼び寄せてるんだ、と説明すれば、河上先生は曖昧に微笑む。




「じゃあ、また後で」
「待っているでござる」

学校に着き、職員室近くで河上先生と別れて教室へと向かう。もうほとんどの生徒は教室に入っているようで、廊下には誰も居なかった。
まぁ、Z組の教室自体、普通の教室から隔離されているので仕方ないんだと思うけど、少し早歩きになる。さっきまで河上先生と一緒に歩いていたけれど、学校にはあたししか居ないのだと錯覚しそうな感じ。
教室の扉を開ける。やっぱり、Z組らしく少し騒がしかった。

「だぁかぁらぁ、お前らちゃんと聞けってっ! 一大事件なんだって!!」
「何が一大事件なの?」
「だぁかぁらぁ! 名前とグラサンがくっついちゃうんじゃないかってハナ  名前…!?」

教室の騒がしさに負けじと教卓に手を置き演説する銀八が、教室を開けたらすぐに目に入った。
あたしが何を話しているかを問えばあからさまに動揺する銀八。何を話していたのかわからず席に戻り、この間席替えをしてから左隣りの席になったトシに今度は何を話していたのかを聞いた。
苦笑されて、銀八のいつものつまんねー話だと言われただけだった。ごまかさないで。と言おうとすれば、銀八の咳ばらいが聞こえてくる。

「……ま、とりあえず、だ。明日は通常授業だからな。ちゃんと学校来いよ」
「せんせー、誕生日おめでとうございました」
「先生の誕生日は文化祭前ですー。祝われなくて悲しかったぞ! 特に名前!」
「なんでだよ」
「先生はな、名前からのプレゼントが貰えるだけで嬉しかったのに……嬉しかったのにィィ!!」
「あげたじゃん、一週間分のお弁当」
「銀ちゃん名前からのちゃんとした誕生日プレゼントが欲しーいーっ」

来年ね、来年。と、適当にあしらった。銀八はまだブツブツと言っているようだけど無視だ、無視。きりーつ、れーい。日直でもないけど強制的に終わらせるために言えば、みんなは従ってくれる。従順なクラスメイトで良かった。
急いで鞄に荷物を詰める。あたしの脳内は、高杉先生に一泡吹かすことでいっぱいだった。

「名前、帰りましょう」
「商店街に冬物の服を見に行こうヨ」
「ごめん、パス。あたし行くとこがあってさ」
「まさか、馬鹿兄貴のとこじゃ…」
「神威さんのお店にはこの間行ったから違うよ。河上先生のとこ」

瞬間、ガンッ、ゴンッ、という二つの音が聞こえた。気になって教室を見渡す。ほうきを持ったトシが机にすねをぶつけてうずくまっている姿と、銀八が扉にぶつかったらしく頭を抑えてトシと同じようにうずくまっていた。
銀八はともかく、トシはどうしたんだろう。普段が結構クールだから、ぶつかったりしないイメージがあたしの中にはあったから少し意外だ。

「河上先生の?」
「何しに行くアル?」
「なんかね、変態保健医高杉先生に一泡吹かす事が出来る写真をあたしにくれるんだって」
「……本当に、行くのか…?」

ぶつけた右足を庇いながら、ひょこひょことトシは歩いてきた。本当に大丈夫なのだろうか。後で保健室に――って、変態保健医のいる部屋にはトシも行かなさそうだしなぁ…。

「トシ、大丈夫?」
「…後で冷やす。それより、なんで河上…先生のとこなんか……」
「だって、高杉先生の弱み握りたいし。つかトシさ、普段先生達の事呼び捨てにしてるのは良いけど、慣れなきゃダメだと思うよ」
「よし、土方。俺の事を坂田大先生様と呼んでみろ」
「先生? 少し黙っててくれないかしら」

妙の黒い微笑みが、頭を抑えながら近づいてきた銀八に抑制をかけたが、改めてあたしに向き直ってくる。

「高杉のあんな写真やこんな写真は俺も持ってる。持ってるから俺のアパートに来」
「黙れって、…良いましたよね?」
「すみませんごめんなさいだから手に持ってるポイズン卵焼きはしまってくださいお願いします」

妙に平謝りする銀八。生徒に頭を下げる教師ってどうなんだろう。これ以上教室に居たら、河上先生を待たせることになってしまう。そう判断したあたしは周りを放置しようと決め、鞄を肩に掛けて教室を出た。
銀八の止める声が聞こえるが、無視して音楽室へ向かう。何人かの生徒とすれ違ったが、チラチラと視線を感じるのは、あたしがZ組というだけで無駄に目立つ。ぶっちゃけ慣れたとは思ったのだけれど、正直言って嫌だ。こんな事を思うなんて、今更だなぁ、うん。

「河上先生いるかなぁ…?」

音楽室は防音となってるし、扉のガラスは曇りガラスになっているから中の様子は伺えない。
ノックを数回しても反応が無いのでゆっくりと扉を開けてみれば、心地良いピアノの音色が聞こえてきた。

「……っ、」

思わず息を呑んだ。音楽室に置いてあるグランドピアノを優雅に弾いてるのは河上先生本人で、圧倒されてしまった。確か、リストの曲だ。なんだっけ、この間習ったはずなのに忘れてしまっている。
グランドピアノと、少しオレンジに染まった音楽室と、河上先生という人物しか空間に無いような、そんな感じだ。
動く絵画を見ているような気分になった。曲が終わる。思わず拍手をしてしまっていた。

「なんだ、来ていたでござるか」
 
河上先生が照れたように微笑んで、演奏を聴かれた恥ずかしさからか頭を掻きつつグランドピアノの蓋を閉める。

「リストの曲、ですよね?」
「孤独の中の神の祝福……この間、教えた曲でござる」
「すごく難しいんですよね、確か」
「暗譜して、間違えずに弾けるようになるまで半年はかかったでござるよ」

たった半年、なのか、半年も、なのかはわからないけど、ピアノを弾いたことがあっても娯楽程度にしか弾かないあたしにとって、演奏できるだけ凄いと思った。せいぜい猫踏んじゃった、とか、蛙の歌ぐらいしかあたしは弾けない。さすが、音楽の先生だ。
グランドピアノを見る。頭の中にさっきの演奏が流れてきた気がした。

「また、弾いてください」
「また?」
「授業中はCDじゃなくて、河上先生のピアノが聴きたいって思っちゃって。駄目ですか?」
「嬉しいことを言ってくれるでござるな、苗字さんは。そんなところに、拙者は――」
「え……?」

なんか、今、聞き慣れない……あんまり聞き慣れたくもなさそうな言葉が聞こえた気がして、思わず聞き返してしまった。
視線をもう一度河上先生に戻す。サングラスを取った、切れ長の目が、あたしを射止めていた。

「すまない。晋助の写真の件は、ただここに来てもらうための嘘でござる。苗字さんに伝えたい事がある」

視線を河上先生から、河上先生の瞳から離せなくて困った。夕陽で少し染まった河上先生の顔は、やっぱり大人の男の人だな、と感じてしまう。
鼻筋が通っているから色んな人にモテるんだろうな、とか、考えてしまって、頭が思考を拒否しているようだ。視界に入ってくる情報を脳で処理できない。
いきなり、河上先生があたしの視界から居なくなった。背中に手が回されている感覚。ああ、あたしは河上先生に抱きしめられてるんだ。実感した瞬間に、体の体温が急上昇した。

「かっ、河上先生…! 冗談は…っ、」
「冗談なんて言ってもないでござるよ。拙者は、苗字さんの、…いや、名前ちゃんのことが前から好きだった」
「前、から……?」

頭が酔いそうな程ぐるぐるした。河上先生と昔に会ったことがあるのは知ってるが、あたしにはその記憶が無い。
記憶を探る。一瞬だけフラッシュバックした光景は、あたしが誰かわからない男の子の手を握って、その男の子はあたしを見て微笑んでいる光景だった。

「か、わかみせんせ…」
「……いきなり、抱きしめてしまってすまないでござる…」

抱擁が解かれて、あたしは河上先生の顔を見れなかった。
自分の赤くなった顔を見られるのが恥ずかしかった。戸惑った顔を見られるのが恥ずかしかった。
しーんとした音楽室は、いつもより居心地が悪かった。

「……返事は、出来れば今聞きたいが、……いつでも良いでござるよ」

頭を撫でられた。高杉先生みたいにくしゃくしゃにではなく、そっと優しく撫でられる。
そのまま河上先生はサングラスを掛けて、職員会議に行ってくるでござると、音楽室を出て行った。
残されたあたしはというと、どうすることも出来ずに立ち尽くすしかない。
脳裏に浮かぶよく知らない男の子との記憶。あれは河上先生なのだろうか。わからない、わからない。

「……あ、…」

携帯のバイブの振動で正気に戻れた。まだ心臓は少しバクバクしてるけれど、メールを見た後、あたしは鞄を持って一目散に音楽室を出る。
たった数分の出来事を誤魔化してくれる差出人に少し感謝した。本人を目の前にしては、絶対に感謝をする事なんて無いけれど。


メールには、早く来い、の一言。

(2009/09/07)
(2019/09/01 再編集)