家では仕方ないが、学校では極力保健室付近に近付かないようにしている。
職員室にも呼ばれることがない限り行かない。
別に、先生を避けてるわけじゃない。避けてるわけじゃないけど、自分の気持ちを更に深めてしまうのが怖かった。
同棲、四十三日目。
帰りのショートホームルーム。銀八の全くやる気が無いとわかる進行で連絡事項などが伝えられて行く中、Z組一番の常識者である苗字名前ことあたしは、気分が晴れなかった。
窓の外を見ると既に冬に近づいているのに空は秋空で、雲の位置が春や夏よりも低くなっている。セーラー服の上にカーディガンやセーターを着る季節だ。この間の体育では、神楽がセーラー服の下にばばシャツを着ていた事もあったっけ。それくらい寒い。
「おーい、名前、生きてるかー?」
呼ばれていた事に気がつかなかった。教卓に寝そべりつつ顔を上げて右手であたしに渡すはずなんだろうプリントをひらひらと揺らしている銀八は、実に欝陶しいと思った。むしろ、銀八のせいでここ数ヶ月、面倒な出来事しか起きていない気がしてしまって、それも相まって鬱陶しく思ってしまっているのかもしれない。
椅子から立ってプリントを取りに行けば、お前放課後ちょっと残れ、と小声であたしにだけ聞こえるように言ってくる。何かをした記憶なんて全くないし思い当たらない。プリントを貰ったあたしは自分の席に戻るなり、また考える事案が増えたと気に病んでしまった。
「名前、ホームルーム終わったわよ?」
「え、あ、…うん」
「今日は馬鹿兄貴のとこアルか?」
「違うけど、なんか委員会の仕事があるみたいで……」
あながち嘘をついているわけではない。さっき銀八から貰ったプリントは保健委員に向けたもので、今日の放課後集まる事が書かれていた。
そして、多分あたしの貰ったプリントだけにしてあったボールペンの手書きで書かれた文字。お前はいつでも良いから来い――見間違うことのなくなった、高杉先生の文字だった。
「じゃあ仕方ないわね。今日の買い物はまた今度にしましょう」
「ホントにごめん…! ハーゲンダッツと酢昆布奢る!」
「よっしゃ! 期待してるヨ名前っ」
「それじゃあ、また明日」
「うん、ばいばい」
なんとか妙と神楽を言いくるめて他のクラスメートが帰るのを待つために机に突っ伏した。
頭の中を廻るのはやっぱり先生……高杉先生の事だ。日が増す事にはっきりしていくこの感情。それが露見してしまいそうで、怖い。
教室からはどんどん人がいなくなっていく。静かになったので顔を上げればあたしをじっと見ている銀八と目が合った。あたしの席は窓側の真ん中辺り。教卓からは微妙な距離だった。
「お前さー…」
やる気ない声があたしと銀八しかいない、オレンジ色の光が差し込んできた教室に響いた。
何を言われるのかわからないあたしはそれを聞いているしかない。銀八はあたしから視線をそらさずに続けた。
「お前さ、高杉の事好きなの?」
「…は?」
心臓が跳ね上がった。ドクン、ドクン。その音が気持ち悪いほどあたしを占領していく。
平静を保とうとすればするほど、何かが狂っていくのがわかった。
「……話ってそれだけ?」
少しの間の後に出た自分の声は震えておらず、むしろ挑発的だったのかもしれない。驚いた。あたし、こんな声出せたんだ。
「それだけっつーかなんつーか…最近、愚痴とか言わねェし、プリントにも意味深な事書いてあるし…銀さんが気になっただけですー」
「…そう」
「で、どうなんだよ。まさかのまさかで、あの高杉に惚れちまったのか?」
「そんなわけないでしょ。銀八さ、いい加減病院行きなよ。あたしは委員会行くからさ」
無理矢理にでも会話を終わらせて教室を出ようと、いつものノリで話し鞄を肩に掛けた刹那、カメラのシャッター音が聞こえた。すぐに銀八を見れば、既に扉を開けて廊下を見ていた。カメラのシャッター音――確か、文化祭に河上先生と歩いてた時もシャッター音がとか言っていた覚えがある。
こちらを向いて首を左右に振る銀八の顔には、緊迫したものが含まれている。
「名前、今すぐ保健室に行け」
「え?」
「ついて行きたいのは山々なんだけどよ、銀さんこれから理事長んとこに行かなきゃいけねーんだわ」
「いや、なんで銀八がついて来る必要があんの?」
「……俺、名前がここまで鈍感だとは思わなかった…」
「いちいちムカつく言い方するよね、銀八って」
本当になんの事かわからないあたしは、銀八に充分な説明もされないまま教室から放り出される。
高杉には俺から言っとくからなー。と、さっきとは打って変わって、呑気な銀八の声が教室から聞こえてきた。
なんなんだ、一体。
保健室に向かいつつ携帯で時間を確認する。16時を少し過ぎていた。開始時間は15時30分とプリントに書かれていたので、もしかしたらもう委員会は終わってしまってるかもしれない。
「――……え?」
また、シャッター音がした。振り返るが誰も居ない。心臓が鼓動を速める。
それに呼応するかのようにあたしの歩くスピードも速くなった。恐怖に駆られた。
銀八は何を思ってあたしに早く保健室に行けって言ったんだろう。分かりきっていることだったけど、分かりたくなかった。
「先生…!!」
保健室の扉を勢いよく開ける。やっぱり委員会は終わっていて、保健医である高杉先生は帰り支度をしながら誰かと電話していた。
口調から察するに、多分、銀八だと思う。一瞬こちらを向いた先生の表情は、見間違いでなければ安堵した表情を浮かべてすぐにいつもの無表情に戻った。
保健室に入ろうと思ったが帰るなら入っても意味ないだろうし、あたしは扉を開けたまま先生の支度が終わるのをそのままの状態で待つことにする。
「ああ、今来た。わかってる。じゃあな」
電話が終わるなり携帯をズボンのポケットに入れた先生が、灰皿に放置していた吸い殻をごみ箱へ捨てた。
それが合図かのように今度はあたしの携帯がスカートのポケットの中で震える。メールだった。
帰り支度が中々終わらない先生が舌打ちをする。メール内容を確認するより早く支度を済ませた先生が歩いてくる。鍵を閉める作業は普段より素早かった。
「銀八のヤローから話は聞いた。今日は寄り道せずに帰んぞ」
「あ、はい」
寄り道、というのはスーパーの事だと思われる。今日は別に欲しい特売品が無かったから良いけれど、銀八から何の話を聞いたのか、そこが気になった。
多分きっと、さっきも聞こえたシャッター音の事だと思う。でも、銀八のことだ。わけのわからない作り話なども織り交ぜているような気がした。
「車の前で待っとけ。危なくなったら逃げろ。わかったな?」
「…わかりました」
一旦職員室の前で先生と別れ、職員用の駐車場へと向かう事になる。靴を履き変えていれば、下級生の子が部活動で移動している最中だったのか、昇降口ですれ違った。
上靴の色が違うから、うん、下級生だ。綺麗な黄色の長い髪、それからぼんっきゅっぼんっの綺麗なスタイル。自分の胸元を見て、少ししょんぼり。
「……どうやったら胸が大きくなるんだろう…」
職員用駐車場を目指しながらも自分の胸元を見ながら歩く。胸の成長も、身長も、高校に入ってから止まった。
ふと、さっちゃんのプロポーションが羨ましく思えた。
「先生の車はー…っと……――ん?」
気にしても仕方がないので、なるべく気にしないようにして赤い車を探す。
意外とすぐに見つかった。見つかったのは良いのだけれど。
「……名前先輩、…ですね?」
先生の車の前には、あたしが来るのを待っていたかのように首に一眼レフカメラを提げた、夕日に照らされた明るい髪にセーラー服の女生徒が立っていた。どちら様かと聞く前に、黄色い髪とスタイルを見てさっきすれ違った子だと気付く。
その子は、あたしが人違いでないことを再確認すると、不敵に、にやり、と笑みを浮かべるのだった。
黄色い髪がオレンジ色の夕日を浴びてキラキラと光っていた。
(2009/10/16)
(2019/09/01 再編集)