補習も追試も無く、終業式を無事に終えたあたしは、始業式までの春休みを特にすることも無いのでバイトに精を出していた。
同棲、五十七日目。
「名前ちゃん、そろそろ休憩しても良いよ。お客さん減ってきたから」
「はい、じゃあお言葉に甘えて休憩行ってきます」
お昼のピークとおやつ時のピークを終えた店内は、少し閑散としている。
客入りもまばらなので神威さんに休憩を頂き事務所兼休憩室へ入ると、やはり煙草を吹かしている阿伏兎さんが椅子に鎮座していた。先生も吸う人だからというものあって煙草の煙は気にしない方だが、むわっと一気に視界がもやもやした白い煙に奪われ、それと同時に煙を吸ってしまったようで少し噎せてしまう。
悪い、と阿伏兎さんは吸いかけの煙草を灰皿に押し付け火を消し換気扇をつけた。
「っ、ごほっ、……換気扇つけてなかったんですか?」
「あー…忘れてた」
「厨房を任せられてるのに、そんなに吸ってたらケーキとかに臭いがつくんじゃ…」
「その辺は大丈夫、大丈夫。ちゃんと手ェ洗ってるから」
そういう問題なんだろうか。意外と常識人と思っていた阿伏兎さんのイメージがどんどんあたしの中で変わってきた気がする。
あたしの交友関係の中に常識人を捜してみたが、誰ひとりとして出てこなかったので捜すのは諦めることにして、店内に設置されている防犯カメラの映像を映し出しているテレビからは、神威さんの会計をする声が聞こえてきた。
あ、あの事を阿伏兎さんに聞くには、今がチャンスなんじゃないだろうか。下げられるであろう食器を洗うために厨房へ戻ろうとしていた阿伏兎さんを引き止める。いつもの調子で、なに? と聞き返された。
「あの、神楽の事なんですけど」
「店長の妹が、どうかした?」
「神威さんを嫌う理由というか、何と言うか、…知ってます?」
「…知ってるっちゃあ知ってんだけど、それは直接店長に聞いた方が」
「なに? 俺がどうかした?」
「ぎゃあ!」
いきなり笑顔の神威さんが現れ、軽い悲鳴を上げてしまった。
にこにこスマイルを崩さない神威さんは、今の空気にマッチしてなくて怖い。視線はあたしではなく阿伏兎さんを捉えていた。
「俺抜きで名前ちゃんと内緒話するとは良い度胸だね阿伏兎。殺しちゃうぞ」
「いや、これには訳が」
「早く食器を洗わないと殺しちゃうぞ」
神威さんの有無を言わさぬ気迫に溜め息を吐いた阿伏兎さんは厨房に戻って行った。
名前ちゃんが店長に話があるらしい、と余分な一言を残して。
「え? なに? 告白?」
「違います」
「そんなはっきり言わなくても良いじゃんか」
一番気にしてるかもしれない神威さんに神楽のことを聞くのは少し不躾な気もしたが、何の話かとしつこく聞かれるので怖ず怖ずと切り出してみれば、そんな事か、と神威さんの反応は普通だった。
「なぁんだ。てっきり、阿伏兎に俺のタイプとか聞いてるのかと思った」
「いや、だから違いますってば」
「残念。俺はこんなに名前ちゃんの事、好きなのになぁ」
口説きながら近づいてくる神威さんには慣れた。というか、あたしの事をからかうのはもういい加減にしてほしいと思う。あたしにとって、神威さんの好きはそういう好きなのだ。
「……神楽はね、」
少し間があり、にこにこと笑っていた表情を元に戻し、神威さんが話を切り出す。
声のトーンも少し下がっているからか、事務所内の空気はシリアスなものへと変わっていった。
「神楽は、俺を恨んでるんだよね」
「恨む…?」
「ちょっと違うとは思うけど、うん、そう…恨んでるんだ」
そう言って微笑む神威さんは、ちら、と厨房の方を確認して阿伏兎さんが仕事をしてるのを確認してから、一度深呼吸をして話し始めた。
「俺と神楽の親父はさ、夜兎高校っていうガッコーで教師やってんの」
「えっと、その高校って…」
「そうそう、そのヤンキー校。俺も阿伏兎もそこ卒業したんだけどさ、お袋が病弱で入退院繰り返してたから進学する金も無いし、神楽は中学入ったばっかだし、親父はガッコーの事あるし、俺は俺で阿伏兎に何か店をやらないかって誘われてる訳だし、ってので、阿伏兎の誘いが面白そうだったから親父の反対押し切って、パティシエになるために海外留学したってわけ」
反対を押し切ってまで留学してパティシエになった、なんて、あたしにはとてもマネ出来ないと思った。
というか、本当に妙が言った通りに複雑な家庭環境をお持ちの家族で、びっくりである。想像していたよりも複雑すぎるだろう。
「あ、お袋は応援してくれたんだよな。でも出国する日に体調崩してさ、親父はガッコーで仕事だったから神楽に後を任せて空港に向かって出国したんだよねー」
「その事を、神楽は…」
「あー、理由はこれじゃなくて、この後なんだけど、阿伏兎のせいで留学が延びて、そうこうしてる間にお袋が死んで、あいつ一人になってさ。親父は相変わらず仕事三昧で一人ぼっちっつーわけ」
神楽の家庭事情を知らなかったあたしにとって、神威さんの話はかなり衝撃的だった。
俺がすぐに帰ってくる、って言ったことを馬鹿みたいに神楽は信じてたんだよ。そう言う神威さんはいつもの微笑みを浮かべていたが、その表情には陰りがかっていた。
「それはそうと名前ちゃん」
「は、い?」
「休憩、もう終わってるよ」
「えっ…? あ…あーっ!!」
「可哀相に阿伏兎。あの顔だから、客に怖がられて泣かれてるんだろうなぁ」
阿伏兎さんの顔がそこまで怖いとかそんな事は無いだろうと思ってるが、休憩時間が終わってるってことは過ぎた分がお給料に影響するからあたしは素早く事務所から出ることにした。
今日聞いたことは、胸の内にしまっておこう。
(2010/03/16)
(2019/09/03 再編集)