同棲、六十七日目。
あれから、一度も先生と話してもなければ目を合わしてもなかった。
お互いがお互いを居ないと思い込んで生活していたのかもしれない。いや、それはあたしだけだったのかもしれない。
気まずいまま過ごしたゴールデンウイークは過ぎ去り、気付けば体育祭まで日にちが迫っていた。
「名前危ない…!」
「!… ッ!」
背中が地面に打ち付けられる。鈍い痛みが激痛となって全身を駆け巡った。衝撃が強すぎて呼吸が上手く出来ない。
後頭部も打ったらしく激痛が思考を遮る。脳が揺れている感じもする。妙や神楽達が心配そうにあたしの顔を覗き込んできている。銀八の声も聞こえた。
「おいっ、名前っ、意識あるか!?」
「……いた、い…」
「志村、高杉に連絡しに行ってくれ。名前は運んで行く」
「わ、わかりました!」
体育館の冷たいはずの床が熱く感じてしまう。
銀八に横抱きされた際にまた痛みが全身を駆け巡って顔が歪んだ気がした。銀八がかっこよく見えるのは気のせいだろうか。死んでる魚のような目が輝いて見える。これは、揺れてる脳が見せる幻想か何かだろうか。
「名前の事は気にすんな。お前らは練習しとけよ」
銀八があたしが落ちない程度に速度を出して走り出した。すれ違う生徒はどうしたのだろうと振り向いてくるが、何も聞く間など無く、銀八は走っていた。
なんだ、頼りになる所もあるんじゃん。頭の片隅でそんな事を考えた。着いたぞ、と銀八が言うのと同時に、扉が開く音がした。
「名前…!」
久々に先生の声を聞いた。切羽詰まったような声色だった。銀八に抱かれたまま保健室に入りベッドに寝かされる。頭には準備していたらしい氷袋が当てられ、どうなっているか見れない腕や背中には湿布が貼られていく。
されるがままだった。他に痛むところはあるか? そう聞いてくる先生の声が懐かしく思えた。
「大、丈夫…です。少し、頭がぐらぐらするだけ、だと、思います」
「そうか。……吐きそうになったら言えよ」
「…はい」
久しぶりの会話だった。でもそれは教師と生徒の、言ってしまえば事務的な会話で、恋人同士がするはずの会話ではない事は明白だ。
トシとの一件はあたしが悪かったと認めているけど、それを口に出してしまえば、先生だけではなくトシも傷つけてしまいそうな気がしたから、あの件の真相は話せなかった。
白いベッドを囲む白いカーテンが閉められる。もっと話していたかったと思うのはあたしのわがままなんだろうか。もっと正直になりたい、 そう思って、あたしは痛みから逃れるために瞳を閉じた。
目が覚めると、傍らには銀八が座って寝ていた。上半身を起こそうとすればまだ痛かったので声を出して銀八を呼ぶ。垂れ下がっていた頭が上がり、死んだ魚のような瞳と目が合った。
大欠伸をしてから微笑む銀八の表情は、何故か大人の男性を彷彿させた。大人な男性のイメージ像は、銀八と掛け離れているはずなのに、なんだか残念だ。
「まだ痛むか?」
「まぁ、…ちょっとだけ、だけど」
「お前がリフトから落ちるとき、上手く下敷きになれたら良かったんだけどな」
「それはそれで銀八が危ないでしょうが…!」
「…そうそう、それだ。やっとお前特有の気の強さが戻ってきたな」
いきなり真面目な表情になる銀八に意表を突かれた気がした。
なんだ、これ。いつもの銀八じゃない。おかしい、トシも銀八も、なんだか皆おかしいよ。
「あんま思い詰めんなよ? どうせ、高杉の事を考えてて落ちたんだろ?」
「違、う」
「今あいつは野邊せんせーに呼ばれてっから、お前が何を言おうと聞こえねェよ」
「野邊、先生と……」
「高杉に満足できなかったら、俺が居るからな。なんでもチョコパで解決してやるぜ!」
「ん、ありがと…。でも、まだ大丈夫、だから」
「そうか。まぁ無理すんなよ」
「…ありがと」
立ち上がった銀八は、今日は俺が送ってやる、と言ってあたしの荷物を体育館に取りに行くために保健室を出て行った。
なんやかんや生徒に弄られても、銀八は先生で、あたしの担任なんだ。今日だけは感謝…しようと思う。銀八に感謝することなんて、滅多にないけれど。
荷物を持って戻った後も、銀八の目は輝いたままだった。
(2010/06/17)
(2019/09/04 再編集)