同棲、七十日目。
「…うを! なっ、おい、どうしたんだ名前…!?」
「え、何、が…?」
「何って、泣いてンじゃねーか!」
3Zのテントに戻って、銀八に指摘されて初めて自分が泣いていることに気がついた。
目元を手で擦ると濡れた。拭っても拭っても溢れてくる涙に見かねた妙がタオルを渡してくれる。それでも涙はしばらくの間流れ続けていた。
「……で、何があったんだ?」
「えっ、…と……」
やっと止まってくれた涙の後処理を終えたあたしを取り囲むように、銀八、河上先生、トシが座っていた。
妙や他のメンバーは気を遣ったようで皆席を外している。空気読まなくても良い時に空気を読むクラスメイトがあたしは好きです。以上。
「なんで河上先生が、?」
「坂田先生に呼ばれたでござる」
「は?」
「本当は神威さんも呼ぶつもりだったらしいが…」
「は!?」
「俺が止めた」
「グッジョブ、トシ」
「……で、名前はなんで泣いてたんだ?」
「晋助絡みというのは既にわかってる事でござるが、苗字さんの口から聞きたいのでござる」
「観念しろ。言った方がハーゲンダッツを大量に奢らされた後、コンクリートの入ったドラム缶に入れられて、固められて、海に沈められるのは無くなる」
「それ言ったのトシじゃなくて妙だよね。絶対そうだよね」
なんか去年もそんな感じの事を言われたような気がする。そうでなくとも、妙は有言実行タイプだ。言わないと、間違いなく殺される。
仕方なく、ややオブラートに包んでさっきの出来事を話せば、トシは目が点になり、河上先生は何かを考えるそぶりをし、銀八は盛大な溜め息を吐いた。
「……名前…じゃなかった、野邊は中々手強いタイプだな」
「銀八も、野邊先生の事、名前で呼ぶんだ」
「…まーな。大学一緒だったんだ。クセは抜けねーんだよ、多分」
「野邊先生と拙者は全く関係が無い故、詳しい話は坂田先生に聞いたらどうでござろう?」
「確かに、俺も詳しいこと知らないし。今のままじゃあ名前を助けようにも無理がある」
「……トシ、ありがと…」
「名前、手っ取り早く解決する方法が一つあるぞ」
「何?」
「この中の一人と付き合 」
「ありがとう銀八、さようなら銀八」
冗談はさておき、あたしに殴られた銀八は頬を濡れタオルで冷やしながら宙を見た。
何かを思い出すようにしばらく唸った後、話すことが決まったらしく口を開いた。
「あいつらが付き合いだしたのは、会って半年後くらい…だったっけな。友達関係の延長みたいなもんだったし、それほど周りにも影響無かったんだけどな…」
「なんでそこで言葉を濁すんだよ」
「駄目でござるよ、土方くん。話には間と言うものが大事で…」
「わかったから早く話せって」
競技に出る生徒の呼び掛けをするアナウンスが一通り済み、銀八は再度口を開いた。
「あいつがものすごく慕ってた講師がいきなり大学を辞めて、連絡先を誰にも教えず失踪したんだよ。表向きは転勤ってな。研究室は、先生が居たっつー証みたいなもんも、私物も跡形も無くなってな。…唯一残したのが、自分を慕ってた生徒数人に残した手紙だけ。後は生きてんのか死んでんのかわかんねー状態になって、……んで、それがキッカケで高杉は荒れて野邊と別れた。高杉が一方的に別れを切り出したらしいから、野邊がまだ好きだってのはあながち嘘じゃあないだろうな」
慕っていた先生、と聞いて頭に浮かんだのは、高杉先生と野邊先生の写る写真に一緒に写っていた銀髪の先生の事だろうと思った。
先生が笑っている唯一の写真。あの頃の先生は今と同じで滅多に笑う性格じゃなかったんだとしたら、あの写真は、本当に先生が心を許した瞬間の写真なんだ。
…勝ち負けの問題じゃないけど、野邊先生に敵うかわからなくなってきた。
「…どうすりゃあいいんだよ」
トシがあたしの代わりに呟いた、気がした。銀八は先生と野邊先生の過去を語ったに過ぎない。それはつまり、何の解決にもなってないということであり、あたしに何をしても無駄という現実を突き付けているということにもなる。
頭をがしがしと掻いた銀八は申し訳なさそうな表情をした。
「結局、野邊の事は俺もよく分かってないって事だ。でも高杉も馬鹿じゃねェし」
「じゃあなんで名前を放置して、あの教師とよろしくやってんだよ」
「拙者も詳しいことはわからんが、晋助が苗字さんを大切に思っている事には変わりないと思う。…が、野邊先生との睦まじさは、な…」
うーん、と唸る男三人の会話に、何故かあたしは当事者の一人であるのに入れないで居た。会話は理解できているし参加もしているつもりなのだが、何故か、自分だけが榧の外に居るような、そんな錯覚。
それを現実に引き戻してくれたのは、午前の競技終了を知らせるアナウンスだった。
話すことに集中しすぎて他の競技を見ていなかった。頑張っている皆の応援も全く出来ていない。自分の事ばっかりだ。あぁ、もう、やだ。
ふと、テーピングの巻かれた足首に触れる。なんだか泣きそうになった。今日は涙腺が緩みっぱなしらしい。なんとかそれを堪えて立ち上がる。トシが一番驚いたようにいきなり立ち上がったあたしを見上げた。
「どうした……?」
「えっ、と…」
しまった。立ち上がったのは良いものの言い訳が思い付かない。泣きそうだから顔を洗ってきます、だなんて、心配してくれているのに言えないし、いや、ほんとにどうしよう。
口をぱくぱくと金魚のように軽く開閉する。視線が段々痛くなって、顔を見ないように踵を返してあたしは走り出した。
「あっ、おい…!」
「お願いだから捜さないでええええええええええ!!」
足が走れないと悲鳴を上げてるのにも関わらず、あたしは校舎裏近くの水道へと移動した。
着いて早々泣きそうな顔を水で洗う。冷たくて気持ちいい。
「……あ、」
冷静になってふと思った。さっきの言い訳、トイレとかそれっぽい理由を言っとけば良かったんじゃあ……うわ、あたし恥ずかしっ!
「い、っ…! 自業自得、すぎる…」
右足首が痛む。無理矢理走るからだあたしの馬鹿野郎。ばかやろう、って茶化して言うより漢字変換の方がぐっと来るのね。なるほど。今度から使うことにしよう。
「予想、以上に痛い…な、これ……」
腫れている足首に触れるだけで痛みが神経を伝って全身を駆けた。去年はタイミング良く先生が居たから良かったものの、野邊先生が居るから都合良く現れるわけも無い事はわかっている。分かっているのに来てほしいと願ってしまうのはいけない事、なのだろうか。
立ち上がれば、激痛に奥歯を強く噛み締めた。なるべく右足首に負担がかからないようにひょこひょこと歩く。人目が増えたら我慢して普通に歩く。…大丈夫。大丈夫。ばれない。
しばらく歩いて、あたしを捜してるであろう妙の姿が見えた。笑顔。笑顔。あたし、笑えてる、よね。妙を呼べば、驚いたような、怒ったような、安心したような、そんな表情で近づいてきた。
「もう、どこに行ってたの…!」
「ごめん。ちょっとトイレに行ってて…」
「捜さないで、なんて言って走ったって聞いたから、心配してたのよっ?」
「ごめんってば…。いや、でも異性にトイレだなんて言いにくいものが…」
「まぁ、それもそうね。足、大丈夫?」
「ちょっと走ったくらいだから全然痛くないよ。大丈夫、大丈夫」
嘘です。かなりの激痛で少し膝が曲がってます。ついでに言うと笑ってもいます。
「でも、土方君や高杉先生に診てもらったほうが」
「大丈夫だって! 妙は心配性だなぁ、もう」
「そう…? なら、良いんだけど…」
「ほら、皆の所に戻ろっ。お腹減っちゃってさ」
笑えてる。うん、大丈夫。妙は、多分、気づいてない。ばれたら今まで以上に怒られるんだろうな、とか考えるけど、仕方がない、自業自得だし。
テントに戻ると、皆お昼ご飯を食べ終わった頃だった。
(2010/09/11)
(2019/09/04 再編集)