同棲、七十七日目。
雨が降ってきた。降りそうな天気だなぁとは思っていたけど、案外早く降るもんだな。
電話してからしばらく経っているし、客の捌けた店を阿伏兎に任せ、事務所に置いている傘を二本持って外に出る。
最近元気が無かったから、俺が出来る最善策で彼女――名前ちゃんの笑顔を見たいと思って呼び出したのだけれど、無事に来れているだろうか、と不安になっていた。電話越しでは元気そうで、いつもの調子だったんだけれど。色々と悩んでいるようだったし、俺が出来ることなら彼女に何でもしてあげたい。
土砂降りの雨の中、彼女に会える喜びもあってか、いつもなら苛立つだけの雨に対して感謝しか無かったのだが――、
「名前ちゃん…!?」
その気持ちはすぐに心配へと変わり、土砂降りの雨に打たれながら歩いて来る彼女を見た瞬間、持って来た手元の傘を落としてしまった。
「……あ、…神威、さん…?」
「何してるんだよ! 遅いからまさかとは思ったけど傘は!? 降り出した時間から考えたらまだ取りに帰れたんじゃ…っ」
「か、むいさ…! っ、あたし、どうしよう、…うぅっ」
雨なのか涙なのかわからないものが、名前ちゃんの頬を伝って落ちていく。
それは止まらない。止まらない。
「……大丈夫だよ」
雨に濡れた身体をぎゅっと抱きしめた。
嗚咽を繰り返す彼女は戸惑いながらも、俺の背中に手を回してくれる。細い、女の子の腕だった。
「ビックリしたさ」
「全く驚いたようには見えないけど。というか俺の方が驚いたんだけど」
「いや、本当にビックリしたよ」
店にある、備え付けのシャワー室に名前ちゃんを案内し、彼女が冷えた体を温めている間に着替えを準備しようとロッカーから自分の寝泊まり用のジャージを出した時だった。阿伏兎が水浸しになったホールの掃除を終え、俺の元へ顔を出す。
手慣れてるねぇ、なんて言うもんだから正直な感想を述べれば、阿伏兎は肩を竦めた。
「まぁ、修羅場にだけは巻き込まないで欲しいね」
「阿伏兎巻き込んでもメリット無いじゃないか」
「そうはっきり言われると傷付くんだけど」
「あはは、本当の事だろ」
話している間に着替え終えた阿伏兎は、丁寧に自分のロッカーを整理し、扉を閉める。
手には、彼がバイクを購入した数年前から愛用しているヘルメットが握られていた。
「この雨じゃ、客はもう来ないだろ」
「今日は赤字だなぁ。売れ残ったケーキ全部買って帰るなら、早退許すよ」
「ンな金無いの知ってるくせに。店長はそんな冗談を」
「え、冗談じゃないよ。何言ってるのさ」
「尚更タチが悪い」
「まぁでも、ある程度は持って帰ってよ。阿伏兎のお母さん、甘いもの好きでしょ?」
「名前ちゃんにはやらないのか?」
「あげるに決まってるじゃん」
「だよなぁ。じゃ、お先ー」
「お疲れ」
バイクのキーをチャラチャラと鳴らしながら去っていく阿伏兎の背中に、無性に蹴りを入れたくなった。
どうかアイツが事故りますように。
店のドアが閉まる音が聞こえたので、そう思いながらシャワー室へとジャージを持って行くことにした。
「名前ちゃん、着替え、ここ置いとくから」
「…あっ、はいっ、すみませんっ…!」
「気にしなくて良いよ。呼び出したの俺だし。ゆっくり温まって。洋服は乾燥機に入れとくから」
「は、はいっ。すみませんっ…!!」
「だから気にしなくて良いってば」
きっと名前ちゃんは、シャワーの音がする扉の向こうで赤くなっているんだろうな。彼女の行動パターンはすぐに想像出来る。
今更ながら、妹と同じ年齢、というか妹の親友の事が好きになるなんて、昔の俺がこの光景を見たらなんて言うんだろうな。色々とけなされそうで怖いな。
濡れに濡れた名前ちゃんの服を乾燥機にぶち込み、スタートボタンを押す。下着は見ていない。いや、一応紳士だからね、俺。見なくてもスリーサイズは目利きで分かるし。
ふと、服と一緒で濡れたままになっている、布製のミニバックが目に入った。形は崩れなさそうだし、これも乾燥機にぶち込んだ方がいいかな。
「……ん?」
いきなり震え出す鞄。中身を確認してみれば、財布と鍵と震え続ける携帯が入っていた。
ディスプレイには、高杉先生の文字。思わず、通話ボタンを押してみた。
「……おい、何処ほっつき歩いてんだ。傘忘れて行っただろ。迎えに行くから今何処か教え、」
「迎えは大丈夫だよ、高杉せんせ」
「……お前…」
「今ね、名前ちゃん俺の店に居るんだよね」
「なんでテメーが出やがるんだ」
「それはね、今、名前ちゃんがシャワーを浴びてるから」
「てめっ…!」
「あ、勘違いしないでよ。雨で濡れたからシャワーを貸してるだけだから。それに、まだ手は出さないよ。まだ、ね」
舌打ちの音が聞こえる。
会話をしながら一時停止ボタンを押して止まった乾燥機の中に名前ちゃんのミニバッグを入れて、もう一度スタートボタン。
「……ねぇ、何やってるのかな」
「あ゙?」
「名前ちゃん、泣いてたんだ。どうしよう、どうしよう、って言ってさ。心当たりあるんだろ?」
「……おめーに言う義理は無ェだろォが」
「うん、そうだね。…でもさ、隙を見せたら駄目だよ」
「どういう意味だ」
「俺が、奪っちゃうから」
何か反論がある前に通話を切り、厨房へ向かって掃除用のゴム手袋を右手に装着すれば、自然と鼻歌が漏れて来る。
ボウルに水を溜め、ゴム手袋をした右手に持つ携帯を、そのままボウルにポチャン、と沈めた。
「…悪いと、一応、思ってるんだよ。一応、だけどね」
携帯のディスプレイ画面が暗くなってからもしばらく水に浸しておく。そういえば、前もこんな事をしたなぁ。……なんて、過去を思い出すなんて俺らしくもないか。
携帯を取り出しタオルで丁寧に拭く。そして、使用した道具の証拠隠滅。っと言っても、元々の場所にしまうだけなんだけど。
後は、同じように拭いて水気の無くなった財布と鍵を揃えてホールのカウンターに並べれば、これで終了だ。
我ながら、俺って犯罪者気質だなぁ。
あとは待つだけ、と思っていたが、案外早く、名前ちゃんはホールへとやって来た。
「……あ、の、…シャワー、ありがとうございました」
「――いや、良いよ。気にしないで?」
先程とは違う意味で濡れた髪。それから落ちる雫を受け止める為に肩に掛けたタオル。そして、大きめの俺のジャージ。
…ソソられる。
感情を表に出す事はしない。今すぐにでも目の前の女の子を組み敷いて、自分のモノにしたい欲望は、彼女を怖がらせてしまうから。
いつもの笑顔で、大人の男として話をしよう。
「あー、そっか。ドライヤー置いてなかったんだった。ごめんね」
「いえっ、そんな悪いです」
「ここに座ってて。今、食べさせたかったケーキ持って来るから」
「あ、はい。ありがとうございます…」
「そう何度もお礼言わなくても良いってば。ちょっと座って待っててね」
一生懸命笑顔を作る名前ちゃんに笑顔を見せた俺は、厨房に入り用意していたケーキを皿に盛りつけた。それからホットココアも簡易で作る。
牛乳を温める用に買った鍋を取り出した時に、さっき使ったボウルが見えたが、俺はそれに見向きもせずに、牛乳を沸かしはじめたるのであった。
あぁ、俺ってホント、犯罪者気質。
(2011/03/30)
(2019/09/05 再編集)