同棲、七十九日目。



まさか、自分がここまで弱くなるなんて思ってもなかった。当初はツッコミ冴え渡るクールビューティーキャラだったのに、どうしたあたし。
温かいお湯の出てくるシャワーに打たれながら、最近の事を思い返してみる。――先生が、特別悪いわけじゃあない。
先生の言動に一喜一憂して、冷たくされたら泣いて、無理矢理先生を悪者にして、ほんと、ただのわがままな子供だ、あたし。

「……暖まった?」
「あ、はい、…ありがとうございます」

神威さんの言う新作ケーキはあっさりとしていて、同じく温まるようにと作ってくれた濃厚なココアと相性が良かった。
カウンター越しに座る神威さんは、何を聞くでも無く、ただ頬杖をついてあたしがケーキを食べ終わるのを待っていてくれたようだ。
沈黙が怖くて、姿の無い阿伏兎さんの事を聞けば、軽い口調で帰ったことを告げられた。

「この雨だからね。お客さんも来なさそうだし」
「…そう、ですね……」
「あっ、名前ちゃんの鞄なんだけど、結構濡れててさ。一応財布とかは拭いたんだけど…」

神威さんが立ち上がり、カウンターの端に置いてあるタオルに包まれた物を持って来る。
神威さんに迷惑かけてしまっている現状に、泣きそうになった。泣いても解決しないのだけれど。

「あ、……」
「携帯、起動しない…? ごめんね、俺が早く拭いておけば良かったのに」
「いえ、神威さんのせいじゃないですし、あたしが、傘もささずに、居た…からっ…」

泣くな、泣くな。何度も自分自身に言い聞かせるが、意思とは逆に目からは涙が流れてきて止まらない。
嗚咽を何回かして、手で涙を拭き取ろうとすれば、自分の手よりも先に暖かいものがあたしの目元を拭った。

「手でごめんね。タオルも濡れちゃってるし、ハンカチとか気の利いた物が無くて」
「い、いえっ…! あたしこそ、泣いたりして、すみませんっ!」
「辛いときは泣いても良いんだよ」

神威さんは、整った綺麗な顔で優しく微笑んでいた。

「俺に話して楽になるなら話してくれても良いし、もし名前ちゃんが話したくないんだったら、別に話さなくても良いよ」

優しい口調だった。
あたしはそんなに優しくされる程、良い人間じゃないのに。
神威さんは大人だ。すごいな。というか、神威さんの笑顔は見慣れてるはずなのに、なんか照れる。恥ずかしい。
泣いてぐしゃぐしゃになった顔を見られるのが嫌なので、俯いて深呼吸。そして、あたしは洗いざらい話すことにした。

「……去年の12月から、あの、高杉先生とはお付き合いさせていただいてて」
「…うん」
「自分で言うのも恥ずかしいんですけど、結構、うまくいってたんです」
「うんうん」
「でも、新学期が始まって、新しい先生がやってきて、…その中に、高杉先生の、元カノみたいな人が居て」
「それで?」
「それだけだったら、あたしもあんまり気にしないんですけど、その人と高杉先生が、保健室で抱き合ってるのを、見ちゃって……」
「うん」
「あたし、頭が痛くなって、目の前が、真っ暗になって、そこから、高杉先生とギクシャクしちゃって、でも、先生は何も言わないし、気になってて…っ、」
「ゆっくりで良いよ。大丈夫だから」

テーブルの上に置いた手を握り締めれば、優しく指の長い綺麗な手が重なってくる。
顔を上げれば、神威さんの顔が近くて少しビックリした。

「…今日も、目も合わせてくれないし、先生が、わからないというかっ……でも、あたしが先生に甘えて、しまってるのも、確かでっ、!」
「そっか……。それはね、名前ちゃん」
「は、い…」
「高杉せんせとの恋愛にちょーっと疲れちゃってるんだよ」
「疲れて…る…?」
「うん、そう」

神威さんは笑顔のまま、あたしの手を手で包むのをやめて、頭を優しく撫でてくれた。

「高杉せんせの重荷になりたくない。迷惑かけたくない。心配かけたくない。…そういうのって、恋愛じゃないと思うんだ、俺」
「っ…」
「恋愛っていうのは…というか、恋人っていうのは、お互いがお互いの事を信頼して成り立つ関係じゃないのかな?」
「しん、らい…」
「名前ちゃんは、高杉せんせを信じようと頑張ってるけど、信じきれてないんだよ。だって高杉せんせが何も言ってくれないから。高杉せんせからの見返りが無いから。…だから、疲れちゃうんだ」

――何も、言い返せなかった。
神威さんが言っていることは、全て的を射ていた。
目を見開いた状態で神威さんを見るが、にっこり笑顔のまま表情は変わらない。

「休んでも、良いと思うよ」
「えっ……?」
「高杉せんせと距離を置くってこと。その方が、名前ちゃんも自分の考えを整理出来ると思う。あ、別に別れろって言ってるんじゃないからね。ただ、少しだけ距離を置くんだ」
「距離を、置く…」
「友達の家に少しの間居候するのも良いかもしれないね。違う環境の方が整理もしやすいと思うし。なんなら、俺ん家とか、ね」
「えっ…!?」
「神楽も居るし、ハゲ散らかしたお節介なジジイも居るけどね」
「…あ、れ? でも、神楽が神威さんは一人暮らしって…聞いたような、聞いてないような…」
「今は実家暮らしだよ。神楽とも、毎日喧嘩しながら仲良くやってるんだ」
「それは、良かったです。嬉しい」
「ありがとう。……うん、やっぱり名前ちゃんは笑った方が可愛いよ」

へらっと笑えば、神威さんが何度も頷きながらそう言ってくれたので少し恥ずかしくなった。
さて、と。そう言って神威さんは立ち上がり、厨房の方へと歩いて行く。
手の平で目をごしごしと拭い、カップに残ったココアを一気に飲み干す。どれくらい話していたのかわからないけれど、ココアは既に冷たかった。
あたしが落ち着くのを待っていたのかはわからないけれど、しばらくして戻ってきた神威さんの両手にはお店の大きめの紙袋が提げられていた。
見る限り軽そうにも思える紙袋はカウンターに置かれる。

「こっちが乾燥機に入れてた服類と鞄。で、こっちが今日の売れ残りケーキ」
「あっ、大丈夫ですっ、着替えますから…! それにケーキまで…!!」
「良いよ、生乾きみたいだし。それは次のバイトの時に返してくれたら。あ、バイトは明日か。じゃあいつでも。ケーキはいつも売れ残りあげてるから、ね?」
「すいませんっ、ほんっと、何から何まで…!」
「俺が勝手にやってる事だから気にしないで。まぁ、これで少しでも名前ちゃんの中の好感度が上がったら嬉しいかな。それに、そろそろ、だから…ね」
「そろそろ…?」

神威さんの表情が、微笑みからゆっくりと真面目な表情に変わった。その視線は、お店の出入口に向けられている。
真面目な神威さんの表情、なはずなのに、少しだけ。本当に少しだけ、恐怖を抱いてしまった。何が、そろそろなんだろう。
ケーキの入っている紙袋に携帯やら財布を入れ、あたしもお店の出入口に視線を向ければ、けたたましいぐらいのブレーキ音が外から聞こえた。
勢い良く扉が開かれる。お客さんが来たことを知らせるベルが、激しく音を鳴らした。

「っ……先、せ…」
「遅かったね。もう少し早く来ると思ってたんだけど」

…驚いた。立ち上がれば、椅子がガタッと音を立てる。
家を出る前に見たままのラフな格好をしていた先生は、車から出た時に濡れたんだろう、髪から水滴が垂れているし、肌にシャツがくっついて、少しだけ体型が分かってしまうように透けていた。
神威さんには見向きもせずに、先生はあたしの元に来るなりあたしの手首を掴む。――先生の手は、冷たかった。

「……帰るぞ」

それだけ言い、先生はあたしを引っ張って歩くので、テーブルの上にある紙袋を持ち損ねてしまう。

「――気をつけてね…」

神威さんの声が耳元でした。と思ったら、掴まれていない方の手がいきなり重くなる。
見れば、テーブルの上にあった紙袋があたしの手に握られていた。
心底神威さんに感謝しながら、あたしは先生の車の後部座席に押し込められてしまうのだった。


激しい雨音をBGMに、車はゆっくりと発車した。

(2011/04/26)
(2019/09/05 再編集)