同棲、八十日目。
「あ゙ー……」
表示された数字は38と0の三文字。鼻をすすりながら、あたしはその数字を見なかった事にして部屋から出た。
先に行く。と表示されたメールを見たのは10分前で、リビングのダイニングテーブルにはラップ掛けされた目玉焼きと白ご飯が置かれており、台所には粗熱を取るために、目玉焼き同様にラップ掛けされたお弁当箱まであった。
まさか、先生が作ったのか。そんな、まさか、いやいや、本当に?――と、疑心暗鬼になってお弁当の中身を見る。冷凍庫にストックしてあったお弁当用の冷凍食品が詰められていて、彩りなんて関係ない。
一応カップ別に入れられているけれど、……まぁ、今までお弁当なんて作った事無いのだろうし、これ以上の勘繰りはよそう。先生のプライドが傷つく、多分。
椅子に腰掛け、少し焦げ目のついた目玉焼きを食べる。固かった。
一人で食べる朝食は虚しいものだ。
言葉数が少ない時期で何も話さないけれど先生と一緒に食事はしていたので、目の前の空席があたしを不安にさせる。
食欲はあまり無かったが、食べれるだけ食べて時計を見れば、もう家を出ないと間に合わない時間。
急いで部屋に戻り、パジャマから制服に着替える。洗面所で歯磨きと洗顔を済まし、髪型を整え終われば少し足がふらついた。が、気にしない。部屋に置いてある鞄と携帯を持ってすぐに家を出た。うん、走れば間に合う。
怠い体を無理矢理動かしながら学校へ向かう。遠すぎるんだよ畜生…誰だよあんな辺鄙な所に校舎なんか建てやがったの。
あー、久しぶりに晴れたと思ったらなんなんですかこれ。行きたくないなぁ……なのに律儀に学校へ向かうあたしって偉くないか、これ。超偉いじゃん。誰か褒めろ、マジで。
「……あ、」
一限目、体育だ。 最悪。
灼熱……とは表現しがたいけど、鋭い陽射しが身体をぶっ刺す。
しんどい、つらい、もう限界。梅雨はどこに行ったんだ。昨日の雨はなんだったんだ。
「名前大丈夫?」
「……あー、……うん、…大丈夫、大丈夫」
「ちょっと、私達こっちに居るんですけど。新手の嫌がらせなのそれ」
あ、やばい、暑さのせいで視界が朦朧としてた。
木陰で休んでいたら、心配してくれた妙達が休憩だと言って近付いて来てくれた。こんな暑さの中でマラソンとかやってらんないよね、とか世間話を繰り出せば、阿音は頭にハテナマークを浮かべる。
「確かに雨の降った翌日だから湿気が凄いけど…そんなに暑くはないわよ?」
「ピーッ」
「ちょっと名前、よく見ると顔赤いじゃない。本当に大丈夫なのっ?」
「…何を言ってるんださっちゃん。その眼鏡、度が間違って入ってるんじゃないの?」
「そんなわけないでしょ!」
「だが、顔が赤いのは事実だし…」
「大丈夫だって九ちゃん。朝から走って来たのと、授業でも走ってるからだって」
「せやけど、それだけでずっと顔って赤くなってるもんなん?」
「あたしはそういう体質なんだよ花子。そして久しぶりの登場だね、おめでとう。あ、おりょうも居たんだ。久しぶりだね」
「いや、久しぶりとかそういうのいらないから。それより、大人しく保健室に――」
「それだけは嫌」
「名前…?」
明らかな拒絶だった。そんなつもりで言ったわけではない。でも、皆が固まったのがわかる。やばい、やばい。何とか取り繕わないと…。
視界の端に、元気に走る神楽の姿を見つけた。あれこそ天の助け、だ!
起き上がれば多少なりとふらついたが、多分、大丈夫だ。
「ほら、神楽ぐらいしか走ってないじゃん。あたし達も走っ――」
刹那、視界がおもいっきり揺れた。
足が絡まる。顔面強打。
「名前…!?」
誰かの声を皮切りにあたしの思考はフェードアウトしていく。黒い世界よこんにちは。いや、時間的におはよう、なのかな。まぁ、そんな事は結局どうでもいい。
意識が覚醒したあたしの視界に映ったのは、真っ白い天井、真っ白い布団、真っ白いカーテン……全てが真っ白に統一された、地獄だった。
「……最悪だ…」
「何が最悪だ、阿呆」
横に並ぶベットを仕切るカーテンを開け、あたしの目の前に現れたのは、かったるいと言ってもないのに服装と表情でそう思っている事が分かる高杉先生だった。
ちなみに、会ったのは昨日の夜、家の玄関で、声を聞いたのもその時の、早く寝ろ、という言葉だ。
上体を起こして先生を軽く睨む。先生はそんなあたしを気にとめず、古風な液体の体温計を差し出してきた。
「熱計れ」
「嫌です」
「連れて来た奴らに聞いたら、お前朝から顔が赤かったらしいじゃねェか」
「それは朝から走って学校に来たのと、初っ端の授業が体育で…」
「四の五の言わずに計れ」
「……はい…」
体温計を腋に挟む。こっちを見てくる先生の視線が辛い……というか、腕時計とあたしを交互に見ないで下さい。不正とかしないんでほんと。
先生が自分の事務机に移動した時を見計らって体温計を振ったりとかしませんからほんと。
「…時間だ」
「……」
「どうした」
「…いや、別に先生に渡したくないわけじゃなく……ちょっとこの体温計古すぎですよ壊れてるんじゃないですか?…って、あ!」
「……39度」
無理矢理奪われた体温計の示した温度を、先生は淡々とした口調で読み上げた。
…言えない、朝より1度高くなったなんて言えない。
「ちょっと待ってろ」
そう言って先生は保健室を出て行った。あたしを早退させるからとか銀八に言ったりしてるんだろうな、きっと。つか帰るなら制服に着替えたい。体操服は何かと問題がある気がする…だってブルマだし。
発熱したと認めてしまえば、疲労感とかしんどさが一気に押し寄せてきてしまった。もう一度ベットに背中を押し付ければ眠気が襲って来る。うつらうつらと何度か意識が飛びかけて、瞼をが下りようとした瞬間、保健室の扉の開く音がした。
カツン、と足音がする。多分、ヒールの音だ。
女性教師から連想して思い当たるのがあの人しか居なくて、すぐに布団を頭まで被ってたぬき寝入りを決め込む。
「……高杉せんせぇ?」
うわ、なんだろう、複雑。普通のビンゴ大会だったら嬉しいのに、こんなビンゴになっても嬉しくないなんて、ほんと最悪だ。
「居ないなら外出中の札にしとけば良いのに。何を急いでたのかしら……まぁ、晋助らしいけど」
頼むからこっちに来るなと願ったにも関わらず、誰か居るの? の一言の後、足音がこっちに近付いてくる。
いや、布団被ってるし、こっちに来てもただ生徒が寝てるだけで終わると思うんだけど、今、あの先生の嗅ぐ度に吐き気がする香水の香りを嗅ぎたくはない。
――ガララ、とまた扉の音が聞こえる。
「何やってんだ」
「あら、晋助。不用心よ? 留守にするなら鍵をかけなきゃ」
「高杉先生、だ。…で、何の用だ?」
「あ、そうそう。服部先生から預かったの。今日の職員会議の資料に一通り目を通してくれないか、だそうよ」
「悪ィな。会議は出られそうにねェ」
「どうかしたの?」
「生徒が一人倒れてな。両親に連絡が取れねェから俺が付き添いで病院に行く。服部にそう伝えておけ」
「妬けるわねぇ…」
「あ? 妬くも何も、俺ァ養護教諭としての責務を全うするだけだ」
「ふふっ、そうだったわね。じゃあ、服部先生に書類を突き返しておくわ」
「…おう」
「……晋助、」
「高杉先生だ。まだ何かあンのか?」
「いえ、大した事じゃないの。じゃあね」
ヒールの足音が段々遠くなり、保健室の扉の音がまたしてから、足音はほとんど聞こえなくなった。
安心した。会話の内容にもだが、一難去った安堵感というか何というか、とりあえず良かった。
「……名前」
「――は、……はいっ、」
ちょっと喉がかすれながらも返事をすれば、いつの間にか近くまで歩いて来たらしい高杉先生が仕切りのカーテンを開け、あたしの目の前に姿を現した。
あれ、なんだろう、先生の表情に少し違和感。
「…て事だ。わかったな」
「え、…えっと……え?」
「俺と野邊の間には何も無ェって事だ」
「……あ、……あぁ、なるほど」
「会話、聞いてたんだろ」
「全部じゃないですけ、ど……」
近い。先生の、顔が、近い。いつの間に。いや、そうじゃなくて。なに、この雰囲気。
「だから、余計な事気にすんな」
額に、柔らかい感触がした。 えっと、えっと、えっ……?
「後は治ってからな」
得意げに微笑み立ち去る先生。どんどん額が熱を帯びていく。多分、風邪のせいなんかじゃなく、高杉先生のせい、だ。
「後でお前のクラスの女子が荷物と着替えを持って来る。着替えたらすぐに病院に行く。わかったな?」
閉めきったカーテン越しに聞こえる先生の明るめの声。
心臓が速く速く鼓動して、離れている先生にも音が聞こえそうなくらいに大きくなっている気がする。
あぁ、やっぱりあたしは先生が好きなんだ。
思い直しただけで、身体が楽になったような錯覚を起こす。人を好きになるって、こんなに凄いことなんだ。
野邊先生の事なんてどうでも良い。今すぐ先生に抱き着きたい。そう思った。
あれ、何か忘れてない?
(2011/05/15)
(2019/09/05 再編集)