同棲、八十一日目。



風邪をひいた。熱が出た。知恵熱みたいだな、と待ち合い室で呟けば、お前はガキか、と隣に座る先生につっこまれた。この場合のガキとは、多分、赤ちゃんの事だろうと思う。
受付の看護師さんに名前を呼ばれる。あたしの代わりに先生が行ってくれるのはとても有難いが、何と言うか、看護師さんまでも虜にして来るのはどうなのだろうか。もやもやして、嫌だ。
そして、嫉妬深いあたしも嫌だ。

「帰るぞ」
「…はい」

マスクのお陰もあってか、顔の大半が隠れていて今の表情が先生にバレないのが嬉しい。先生曰く、あたしはすぐに表情に出るらしい。気をつけなければ。
病院の駐車場に停めていた車まで歩くのさえもしんどいが、先生の片手に持ってもらっている薬の入った袋を見ていたら泣き言は言っていれないと思った…ら、差し出される別の方の手。

「掴まれ」

そこは繋げでしょう。なんてツッコミはしんどさのせいで出来なかった。無念。
先生と久しぶりに手を繋いだ気がする。銀八とかより身長は少し小さいのに、あたしの手に比べれば骨張ってて、大きくて、男の人の手だった。

「……おい」

車内へと入り、後部座席に座った時だった。
先生がシートベルトを締める一連の作業をしながら声を掛けてきたので、何ですか、と答える。
いつもより少しだけではあるが、先生の表情は柔らかかった。

「今日はバイト行くなよ」

少し間を置いてから、あたしが思い出して声を荒げ、先生からうるさいと頭を叩かれたのは言うまでもない。
病人の頭を叩くとは、そんな保健医はどこ探してもここにしか居ないだろう。

神威さんには先生から症状を伝えてもらった。
喋ろうとすれば咳が出てしまうまでに症状が悪化し、電話越しに風邪がうつるだろ、と先生に言われ、携帯を奪われてしまう。神威さんの笑う声に、申し訳なさの念しかない。
うつるわけないとツッコミたかったが、そんな気力はあたしには既に無く、家に着くなりすぐに部屋のベッドにダイブした。
先生の、入るぞ、という声がする。
返事をするのが億劫なので、うめき声で反応すれば、一年前とは違う、この家の物の収納を完全に把握した先生が、冷えピタやら水の入ったコップやらを持って部屋に入って来た。

「ほら、デコ出せ」
「あ゙い……うぇっ、つめ゙たい゙…」
「当たり前ェだろォが」
「ゔぅ…」
「薬飲んで寝とけ」
「ゔぅ……粉…飲めない゙…」
「わがまま言うな。錠剤より粉の方が効くんだ。いいから飲め」

病院で貰った薬を全て飲めば、先生が珍しく頭を撫でてくれた。
何か食えるか? と聞いてくる先生に悪いが、今は何も食べる気がしないので頭を左右に振る。

「大人しく寝てろ」

先生が髪の毛をとかしてくれるのが心地好くて、あたしは柔らかいまどろみの中に身を投じた。





名前が寝たのを確認し、なるべく音を立てないように気をつけ部屋を出た。
リビングのソファーに座るなりタバコを吸う。最近は一人で居て考え事をする時間など無かったからか、今この時間が有意義な時間に感じた。

「……あんなに思い詰めてたとはな…」

野邊の事を詳しく説明していなかった俺に非があるのは解りきっているが、名前が直接言ってこなかったのも気に食わない。
いつものアイツなら俺に直接問い質しに来てもおかしくないはずだ。単純に野邊から圧力が掛かっていたと考えるのが通りだが、どうにも腑に落ちない。
いや、それがどうであれ、これからは俺が護ればいい話だ。

「とんでもねェ女と付き合ってたんだな」

若気の至りとでも言うのだろう。自分自身を叱責したとしても、あの頃の、近くに居ない名前よりも近くに居た名前を選んでしまったという事実が消えるはずもない。
被害が無いようにする為の策が功を成さなかったのなら、また別の手を考えれば良いだけだ。
吸い過ぎて短くなったタバコを灰皿に押し付ける。
壁に掛けてある時計に視線を向ければ、時刻は13時を過ぎていた。腹は減っていない。
しかし名前が腹が減ったと起きて来てから準備するのは面倒なので、冷蔵庫の中から卵を取り出して玉子粥を作ろうと思った。

「………チッ…誰だ、こんな時に…」

スラックスの尻ポケットに入れていた携帯が震え出す。鍋を準備しようとしていた手を止め、携帯を取り出し表示を見れば、登録していない番号だった。
電源ボタンを押そうとしたが、一応、通話ボタンを押して耳に宛てがえう。空気の読めない陽気な声が聞こえてきた。すぐに通話を切る。
また同じ番号から電話がかかってきたので、仕方なく通話ボタンを押してやった。

「おい高杉! 電話切るなよ!」
「うっせーよ切るぞ」
「いや、だから切るなって…!」
「何の用だ服部。おめーに番号を教えた覚えは無ェはずだが?」
「あぁ、それか。坂田に聞いたんだ。お前が今日の会議に出れないって聞いたからよ、内容を連絡しておこうと思ってな」
「近くにその勝手に人の番号を教えた阿呆は居るか?」
「生憎、俺の近くには居ねぇわ」

調理室に篭ってるそうだ、と服部が言う。
また巨大ケーキとか言う甘ったるい物を作ってるのかと想像すれば、必然と吐き気が襲ってきた。

「…で、連絡ってなんだ」
「夏休み前後のの部活動予定やらの会議なんだが……お前はいつも通りで良いのか?」
「まだ先方と連絡はとってないが、今年は8月下旬になりそうだ」
「今年はやけに遅いんだな」
「あっちもあっちでうまくいってるんだろ」
「そういうもんなのかね」
「そういうもんだ」

用はそれだけかと問えば、もう一件用件があると、電話越しに聴く限り深刻そうな声色で言われた。早く言えと急かす。

「実はよ、」
「なんだ」
「手持ちのボラギノールがもう無くて保健室に置いて」
「るわけねェだろうが阿呆」

電源ボタンを押し、強制的に通話を切った。
なんだったんだ、と溜め息を吐き、スラックスへ戻そうとすればまた震え出す携帯。
つい舌打ちをしてしまう。画面を確認すれば、銀八の文字。

「おめー、勝手に人の番号教えてんじゃねぇよ」
「いやぁ悪い悪い。緊急だって言われたもんだからな、痔の具合が良くないのかと」
「まさにその通りだったからあいつ殴っとけ」
「……え、…マジでか」
「お前は何の用だ銀八。昼休みはもう終わる頃だろ。午後の授業が始まんぞ」
「名前の容態はどうかと思ってな。ほら、俺、一応担任だし」
「そういえば担任だったな」
「え、高杉くん酷くない? そういう扱い酷くないっ?」

うるせぇ、と一言発すれば、銀八は冗談の無い教師としての声色で、改めて名前の容態を聞き直してきた。

「無理に体を動かさず、薬飲んで寝とけばすぐ治るただの発熱。ただの風邪だ」
「…あぁ、そうか」

電話越しの雰囲気が和らいだのが分かった。
それにムカつく自分が居ることに気がつく。大人気ない。

「なぁ、高杉」
「なんだ。まだ何かあンのか? おめーも痔か?」
「違いますー。俺のお尻は健康ですー。……あんまり名前を困らせるなよ」
「あ?」
「言っとくが、俺は本気だからな」
「へェ…そうだったのか。知らなかったな」
「こちとら、お前から名前を奪う覚悟はとっくに出来てんだよ」
「なら、その時が来る事を祈っとくんだな」

――俺は、もう二度とアイツの、苗字名前の手を離しはしねェよ。

「その自信が何処から出るのか教えてほしいわ」
「誰が教えるか、阿呆。…チャイム鳴ってんぞ」
「聞こえてんのか」
「当たり前ェだろォが。切るぞ」
「おう、じゃあな」

ブツ、と切れる通話。電源ボタンを一回押し、今度こそ携帯を尻ポケットに突っ込んだ。
……銀八からもあのニコニコ野郎と同じような事を言われるとは、な。
鍋を探しながらふと考える。
まさかそこまで周りの奴らが本気になっているとは思っていなかった。銀八までもが本気になってしまえば、面倒臭い事になる半面、面白いと思っている自分が居る。
根拠の無い自信だが、奴らがどれだけ本気になろうが、俺から名前が離れていくはずがないという確信、とはまた違うものだが、俺がそうだと言ったらそうなる。そんな自信があった。

「…ククッ……十分大人気ねェな、俺も。あいつらも」

ただのガキに振り回されてるのだから。そのガキはガキのくせに魔性の女って、ネタじゃねェか。どっかの漫画か何かかよ。


そのガキの為に玉子粥を作ってる俺も、阿呆の仲間入りだな。

(2011/06/03)
(2019/09/05 再編集)