同棲、八十四日目。
「わお」
思わず感嘆が漏れた。感嘆? 違うな。なんか、その、あれだ、あれ。そう、あれだよ、あれ。
「見事なまでのぎりぎり赤点ライン回避ね」
「褒めてくれてありがとう、妙」
「褒めてるつもりはないアル」
「というか、なんで神楽があたしより良い点数なの? ねぇ、ちくわとリコーダーを間違える神楽の能よりあたしの脳は小さいの?」
「受験生だからアル」
「答えになってないし」
あたしが赤点をぎりぎり回避出来たのは、言わずもがな、トシの家で勉強会をしたからである。
最終的に二人きりの勉強会にならず、トシが気を利かせてくれて妙達勉強出来る組に参加してもらい、ひたすら勉強した結果。それがこれである。
正直、自分の頭の悪さに泣きたいぐらいだ。
「でもまぁ、一夜漬けにしてはよく出来た方じゃないか?」
「だよねっ、だよねっ! いやぁ、トシは話が分かるなー」
「このままじゃ大学受験に受かるか分からないけどな」
「上げて落とすの止めようか、土方クン。名前泣いちゃう」
「泣いたら俺が慰めてあげまさァ」
「うん、遠慮しとく」
数日間に渡って全ての科目の答案用紙の返却と三者面談が終わり、終業式を明日に控えた今日。自分の答案用紙を見て溜め息一つ。
家でも先生に勉強教えてもらったのに、この結果だったら確実にカミナリが落ちるな、なんて。
これはもう先生の好きな和食を作ってご機嫌取りをする必要があるわけですね、分かります。
「答案も返却されたし、名前、今日カラオケ行くでしょう?」
「行かなーい」
「なんでヨ! テスト終わったら行くって約束してたアル!」
「いや、ご機嫌取りしなきゃあたし明日学校に来れなくなるかもだし」
「あぁ…高杉先生ね?」
「…うん」
「嫌アルー! 約束してたのに破るなんて酷いネ! 私より他の男を取るの!? 離婚よ離婚!!」
「どんな設定!?」
暴れる神楽を妙がなんとか宥め、カラオケを明日に変更する事によって離婚はなんとか食い止めることが出来た。ん? 何かがおかしいぞ?
「お前らうるさいぞー。席つけー」
「あ、もじゃ天来たアル」
「神楽なにそれ美味しそう」
「俺は食べ物じゃないからねー。つかもじゃ天ってなんだよ。まずそうだろ」
「もじゃもじゃ天パの略ネ」
「食欲薄れたー。銀八のせいだー」
「何なのこの扱いの酷さっ」
とりあえずホームルームが始まり、夏休みに関するプリントやら、受験に関するプリントが配られ、銀八が一枚一枚ざっくばらんに説明していく。ざっくばらん過ぎてよく分からないのもいつもの事だ。
そして、ある程度説明し終わった後、最後に配られるプリント。それには、でかでかと夏期勉強合宿と書かれていた。
「去年同様、俺主催のこのクラスで頭の悪い奴集めて勉強会するから。あと夏休みの宿題やりたい奴とかも来て良いから。とりあえず海とバーベキューと花火と肝試しは確定だから」
「先生、いつ勉強するんですか?」
「空いた時間に決まってんだろ。あと暑苦しいからヅラ取れ」
「ヅラじゃありません、鬘です。間違えた、地毛です。参加人数はどれくらいなんですか? エリザベスはメンバーに入りますか? 苺はおやつに入りますか?」
「参加人数は10人前後ってとこだな。エリザベスはメンバーに入りません。苺はデザートです。おやつに入りません。ちなみにイチゴ牛乳は常備食だ。……他、質問は無いかー?」
「せんせー! 私と先生の愛の巣…間違えた。愛の園にはどうやって行くんですか?」
「愛の巣でも園でもねーから。去年は高杉と俺の運転で二台の車で向かったなァ。あ、あと、名前と神楽、それからゴリラとヅラは既に確定メンバーだから。変更とか出来ないから」
確定メンバーって何だよほんと。しかも空いた時間に勉強とか去年よりも緩くなってるじゃん。
なんて事をあたしが言うわけもなく、いつも通りグダグダなホームルームが終わりに近付く事を知らせたのは、屁怒呂くんが発した、
「皆さん夏休みがすぐそこだからってはしゃぎ過ぎですよ」
その一言だった。
しーんと静まり返った教室内に、銀八の咳ばらいが響く。
「…まぁ、とりあえずだ。この勉強合宿に参加したい奴は、明日中に俺にこの切り取り線以下を記入して俺に提出しに来い。分かったな。以上っ、解散!」
銀八のいつもの声で張り詰めた空気が和らぎ、皆がわらわらと解散していく。今から部活に行く生徒も居れば、掃除当番にぶち当たってしまった生徒も居るし、遊びに行く生徒も居たら、あたしみたいにそのまま直帰する生徒も居る。
まぁ、それは人それぞれって事。
神楽と妙の二人とは昇降口で別れ、一人校門へと向かう。欠伸を噛み殺せば、目に涙が溜まっていった。
その瞬間に頭が激しく揺れた。うずくまる。痛い。超痛い。欠伸とは違う涙を堪えながらきつく閉じた目を開けば、地面に転がる野球ボール。言わずもがな、あたしの頭に激突しやがった張本人だ。
間違えた。張本人は、この野球ボールをあたしに当てた、今謝ろうと走って来てる下級生だ。間違いなくそうだ。
「すいませんっ…!!」
「……うん、だ、大丈夫……大丈夫……」
「怪我してませんかっ…!!?」
硬式のボールが頭に当たってケガをしない人を紹介して欲しいくらいだけど、下級生の野球部員は帽子を取って、泣きそうになりながら何度も謝るものだから大丈夫しか言えなくなる。
人間っていざ大丈夫じゃない時に大丈夫かと問われれば、大丈夫だ、と答えるものだとかなんとか、現国に出題されたコラムに書いてあったような気がする。
痛さに耐えながら、とりあえず保健室に向かおうと足を進めた。最近、よく保健室に行ってる気がする。嬉しいかと聞かれれば嬉しいけど。
いや、でもちょっと待て、待つんだあたし。今向かうのは危険かもしれない。テスト後だし、絶対その話される可能性高いし、点数大変だし保健室は先生のテリトリーだし逃げれないしっ。
「よし、帰ろう」
結果、保健室の手前まで歩いていた踵を返してUターン。ジンジンと痛む頭を抑えて歩けば、ふと、あまり聞き慣れない声に呼び止められた。
振り向いた瞬間に、顔を歪めそうになるのを必死に堪えた。聞き慣れない、じゃなかった。聞きたくない、の間違いだった。今日は厄日か。
「晋助に用?」
「いえ。何も」
「ならどうしてここに居るの? こっちは保健室ぐらいしか生徒の利用する場所は無いはずだけれど」
「それを野邊先生に答える必要があるのでしょうか?」
「そうね。無いわね」
嫌味ったらしく、大人独特の余裕を撒き散らしたかのような口調はあたしの神経を逆なでしていくようだ。平常心、平常心を保て、あたし。
「えっと、苗字さん」
「はい?」
「あなた……いえ、なんでもないわ」
「は、はぁ…」
「気をつけて帰りなさい」
そう言ってあたしの横を通り過ぎていく。少しきつめの香水の匂いが鼻を刺激した。
野邊先生はあたしに悪びれもせず、保健室へと入って行ったようだ。いや、悪びれられても困るけれど。
あの匂いは、先生の嫌いそうな匂いだと思った。
「はぁ?」
「だから、その、今日の放課後……野邊先生と、なに話してたんですか…?」
夕飯は結局和食にしてみた。肉じゃがとお味噌汁とご飯。それからちょっとしたチンゲン菜の和え物を添えている。
黙々と食べる先生に放課後の事を聞いてみたら、先生は勝ち誇ったように笑った。その笑顔にとてつもなくムカついたが、何も言わないのはあたしが大人になった証拠だと思いたい。
「…気になるか?」
「そりゃあ……気になります…よ」
「なんで」
「はい?」
「なんで気になるんだ? 言ってみろ」
「なんで言わないといけないんですかっ。聞いてるのはこっちなんですけど…!」
「ククッ…俺が野邊と何を話してたか知りたくねェなら、言わなくても良いぞ」
「ひっ、卑怯です!」
「どうとでも言え」
ニヤリと笑ってから先生は箸でじゃがいもを切り分ける。あぁもう、とすぐに痺れを切らしたのはあたし。
視線を自分のお茶碗に落としたまま、ぽつり、と理由を言えば、また先生はククッと笑った。
「心配すんな。ただの業務上の会話した以外、なにも無ェよ」
「……ほ、本当ですか…?」
「嘘ついてメリットは無ェだろォが」
「良かった……つか、何も無かったなら普通に言えば良いじゃないですか! なんでそう遠回しにっ…――!」
視線を上げれば、いつに無く真剣な表情をした先生の顔があった。今のあたしはものすごく不細工な表情をしてるんだろうと思う。
言葉を紡がなくなったあたしを見て、先生は自分の使った食器を重ね、席を立った。
怒らせたわけではない、はずだ。だって今の会話の中に怒らせるような単語や要素は入ってない、と思う。
台所のシンクに食器を置く音。あたしが箸を使う音。蛇口から水を出す音。あたしの心臓の音。
会話の止まったリビングには、それら全てが響いている錯覚。心臓の音なんて響くはずがないのに、ドクンッ、ドクンッ、と大きな音を立てる心臓は収まる兆候を見せない。
また、怒らせたのだろうか。また、あの日々の二の舞になってしまうのだろうか。落ち着こうにも落ち着けない。奥歯がガタガタと震え出すのを止めるために、ギリ、と噛み締めた。
そして、ふと、頭の上に手を置かれる。いつのまにか、先生が隣に立っていた。
「っ……せ、んせ…?」
「昔からよく言うだろ。男は好きな女をいじめるってな」
「……………はいっ?」
先生の口から出る言葉じゃない。全身に鳥肌が立った。
「ひっ、人がめちゃくちゃ不安になったこの数分間を返せコノヤロー…!」
「おめーが俺の事を気になるように、俺もおめーが気になるっつー事だ。阿呆」
「あ、ああああ阿呆ってなんですかっ!!」
「そンままだろォが。俺ァ銀八からテストの点数聞いてンだよ。あんなに教えてやってぎりぎり赤点回避とはどういう頭してんだ」
「………てへっ」
「合宿を楽しみにしとく事だなァ? 名前チャン?」
悪寒。隣を見上げれば、黒いオーラを身に纏ったRPGのラスボスが立っていらっしゃいました。
グッバイ、あたしの夏休み。
夏休みはこれからだと言うのに。
(2011/08/19)
(2019/09/05 再編集)