同棲、八十八日目。



神威さんがあの日以降何かをあたしにお願いして来る事無く、合宿は終わりを迎えた。
実際には、最終日に銀八へ今日一日甘い物を食べるな、とか、野邊先生と先生が買い出しに行って、とか、複数のお願いをしているが、あたしに直接的な被害は無かった。恋人になるという最大の被害を被っているわけだけども。
しかし、合宿以降も願い事が叶う云々は続行するわけで。合宿期間中は神威さんの彼女である、というお願いは合宿が終われば必然と効果が無くなるが、その後どんなお願いをするかが分からない。
神威さんの願い事出来る数は残り五回、だったはず。こんな馬鹿げた遊びにマジになるなんて、あたしも周りも、皆馬鹿だと思った。

「――というわけで、かいさーん!」

駅前で開催された銀八のなんちゃって閉会式も終わり、荷物を持って皆がぞろぞろと帰宅して行く中、神威さんは一人、花壇に座りながら何やら携帯を弄っていた。
レンタルしたワゴン二台を銀八と返しに行った先生を待たなくてはいけないあたしは暇で暇で仕方がない。それに駅前に残ったのはあたしと神威さんだけ。悪い予感がする。気のせいと思いたい。
しかし、どこかの喫茶店で暇を潰そうと立ち上がったあたしの腕を掴んだのは、紛れも無く神威さんだった。何これ死亡フラグ?

「どこに行くの?」
「い、家に帰ろうと…」
「やだなぁ、そんなに警戒しないでよ。それに、名前ちゃんは高杉せんせを待ってないといけないんだろ?」
「えーっと…え?」
「会話が聞こえてたからね」
「あ、……はい、まぁ…」

やばい、ぞ。このままこの人の流れに身を任せてはいけないと、あたしの中で警鐘が鳴っている。
掴まれた腕は少し痛みを帯びてきていた。

「……ねぇ、名前ちゃん、」
「…え、っ!」

名前を呼ばれたので視線を腕から神威さんに向ければ、意外と近くにあって、驚いた。半歩ほど後ずさる。しかし神威さんは離れない。むしろあたしの肩に顎を乗せてきた。ど、どうすれば――、

「普通にしてて」

聞こえてきたのは、いつものおどけたような声ではなく、かと言って今まで聞いていた真面目な声でもなく。明らかに敵意の込められているだろう声色だった。
横目で神威さんの表情を確認しようとするが、澄色の細く綺麗な髪の毛しか見えない。何が、どうなってると言うんだ。

「……しつこいよね、全く。せっかく良い雰囲気なのにさ」

何が、とは聞けなかった。あたしの肩から顎を離した神威さんの、見たこともない表情に背中が凍りつく。
いつもの笑顔は何処へ行ったのか。神威さんの顔には、狂気が満ち溢れていた。

「ごめんね、名前ちゃん。ちょっと怖いかもしれないけど、見なくても良いから目を瞑っててね」

むしろ見られたくないかな。
そう言った神威さんはいつもの優しい喫茶店の店長だった。
あたしは神威さんにされるがまま背中に隠れる。
だんだん日が暮れていく中、駅前はまだまだ賑わう時間だというのに人が居ない。正しくは一般人の存在が、今居るこの場所だけ切り取られたかのように居なくなっていた。
さっきまで、銀八がなんちゃって閉会式をしてる時まで、神威さんに引き止められるまで、辺りには人が沢山居たのに。
どうして、とそんな疑問は、神威さんとあたしを取り囲んだ複数の人影で判断出来た。

「……動いちゃ駄目だよ?」
「…は、はい」

銀魂高校とは少し毛色の違った学ランを着た数人の人影は、いつの間にか数十人の数に増えていた。
今から起こるだろう出来事が想像できる。帰りたい。
正直に言えばものすごく帰りたい。でも取り囲むお兄さん方は帰す気も無いんだろうな。顔恐いし。コワモテ、ってこんな顔をした人を言うんだね。現国の理解力が少し上がった気がするよ銀八!

「お前が神威だな?」
「自ら名前を名乗らない奴に名前を言う義理はないと思うんだけど。誰、お前ら。折角のデートを邪魔しないで欲しいんだけどな」
「夜兎工業高校最強の座を譲ってもらおうか」
「人の話聞きなよ。そんなんじゃ社会に出てからも、やっていけないゾ」
「……っるせーんだよっ!! お前は俺達にさっさとノされときゃあ良いんだ!!」

堪忍袋の緒が切れたらしい一人が神威さんに殴り掛かってきた。思わず目を閉じる。骨と骨がぶつかるような鈍い音と、誰かが地面に倒れる音が聞こえた。
恐る恐る目を開ければ、目の前には相変わらず神威さんの背中があった。視線を下に落とす。殴り掛かって来たモヒカンが痙攣をして地面に突っ伏していた。
え、ちょ、本当に帰りたいんですが。

「いきなりかかって来ないでよ。皆殺しにしちゃうゾ」

ハートマークとか、音符マークみたいな可愛い記号を語尾に付けた神威さんが、突き出した拳を引っ込めながら言う。
やれ。その言葉と同時に、取り囲んでいた全員が襲い掛かってきた。
悲鳴を上げる間もなく神威さんの服にしがみつく。そして目を閉じた。
大丈夫だよ。神威さんの優しい声色が頭上から降ってくる。それだけで、安心出来た。

「弱いなぁ、ッ! 全然、楽しめない、よッ!」

現状を見ないようにしているから、何がどうなっているのかあたしには分からない。殴り合いの喧嘩だなんて、一般人でただの女子高生であるあたしなんかが巻き込まれるなんて思ってもみなかったし、第一、夜兎工業高校って不良の集まりって有名ですよね!
神威さんがそこの卒業生だったのは知っているけど、最強の座ってなんなんですか!

「女を庇いながらやり合うなんて無茶な事するんじゃねーよ!」
「普通の生活して弱くなったんじゃねーの!?」

はっ、として目を開ける。神威さんはあたしに被害が無いように立ち回ってくれていたようで、防戦一方のようだった。
防御はする。が、殴られた衝撃のせいで小さな呻きが聞こえる。
あたしのせいならば、と逃げようと辺りを見回すが、完全に囲まれていて逃げ切れる自信が無い。
思案をしていれば、一人倒した、神威さんの静かな、けれどちゃんと意志を持った言葉が辺りに響いた。

「好きな女ぐらい護れない男が粋がるのも大概にしとこうか」

心臓を鷲掴みにされたような、そんな衝撃があたしを襲う。
グッときた。キュンとした。
そんな生易しいものじゃない。
この、背中しか見えないけれど、覇気を纏った神威さんに対しての好感度が、少なからず上がってしまった。
轟音がする。全員行動を止めて音のする方を見れば、大きいバイクに跨がったノーヘルの阿伏兎さんが大層面倒臭そうな表情をしてやって来ていた。
いや、そのバイクでノーヘルは駄目でしょ!

「こりゃまた……面倒臭そうな事に巻き込まれたなぁ」
「遅いよ阿伏兎。なに。お前も一緒に殺してほしいの?」
「それは勘弁。俺はまだ死にたくないんでね」

状況に似つかわしくない、暢気な会話だった。
本当に面倒臭そうに歩いて来る阿伏兎さんに一人が殴り掛かる。それを当然のように跳ね退けた阿伏兎さんの運動神経を疑った。
というか、黒いジャケットの下がいつも厨房で着ている白い割烹着なんですけど。もう全てが似つかわしくなくて、ツッコミ所が多過ぎて、これがドッキリなんかじゃないかと疑い始めちゃってるよあたし。

「…で、俺は何すれば良いの?」
「名前ちゃんの側に居てあげて。ちゃちゃっと片付けるから」
「りょーかい。無理すんなよ?」
「阿伏兎より若いから大丈夫だよ」
「……あっそ」

またいきなり始まった乱闘。神威さんと阿伏兎さんはあたしの周りを上手く立ち回りながら、一人一人を一発で確実に戦闘不能に追いやっていた。
喧嘩しながら会話する二人も二人だと思うんだけど、冷静に状況を判断できるようになったあたしもあたしだと思ってきた。
ふと、阿伏兎さんがあたしの手を引き、乱闘の輪から抜け出す。何人かがそれに気付いて殴り掛かってきたが、寸前の所で神威さんが立ち塞がり、あたし達に被害は無かった。

「――男は好きな女の子を護ってこそ男なんだよ。覚えとけ」

そこから、神威さんの反撃は凄まじかった。
頭を掴んで地面に減り込ませるように突っ伏させたり、目の前にいる人のお腹に拳を減り込ませたらすぐに体を回転させて背後から掴み掛かろうとした人の頭を蹴ったり。
神威さんの周りの空間が、そこだけがまるで異次元のようだった。

「……ウチの店長。昔はやんちゃばっかしててさ、転入して来た三日後には学校中の生徒を束ねて総長になってたんだよね」
「え、…えええええ……」
「想像つかないだろう? 喧嘩が飯と同じくらい好きだったんだけど、それがいきなりパティシエになるとか言い出してさ。あん時はいくらなんでも驚いたけどね」
「……阿伏兎さんは、なんで、神威さんについて行ったんですか?」

当時を思い出して懐かしそうに乱闘を見つめる阿伏兎さんは、そんな質問をされるとは思っていなかったようで。
一瞬目を丸くした後、完全に暗くなった空を仰いだ。

「なんでだったかなぁ…。店やろうって誘ったのは俺だけど、……多分、人柄に惚れたんだろうな」
「神威さんの、ですか?」
「そうじゃなきゃ、あんな破天荒な奴と一緒に店なんか出せないしね」

確かにそうだ。あたしが言って良いことじゃないんだろうけど、神威さんは性格に少し難がある。
そんな神威さんと何年も付き合っていられるのだから、何か阿伏兎さんにとってメリットがないとやっていけないんだと思う。
まぁ、二人は長い付き合いだからこそ、メリット云々関係無く一緒に居るんだと思うけれど。

「阿伏兎さんは、神威さんが好きなんですね」
「…え、ちょっと止めてよ名前ちゃん。いくらなんでもそんな趣味は無いよ、俺」
「いや、そういう好きじゃなくて、…友達としてとか、尊敬してるとか、そういう意味の好きって言ったんですけど」
「あーだよな。うん、びっくりした」

知り合いにそういう趣味の人が居たらあたしだって驚きだ。そういうのは個人の自由だから軽蔑したりはしないけれど、やっぱり驚きはする。いや、阿伏兎さんがそうだと言ってるわけじゃないけど。
ふと阿伏兎さんから視線を相変わらず乱闘中の神威さんにうつせば、もうリーダー格の人を残すだけとなっていた。戦闘不能になり地面に突っ伏している人達含め、あたしと年齢があまり変わらないのだろうと考えてみたら、この人達すごく老けてるな、と思った。

「はい、後はお前だけ。言っとくけど、俺は最強の座なんてもういらないし、欲しいならあげる。でも、関係ない周りを巻き込むのには関心しないな。特に俺、好きな子を危険な目に遭わすのは嫌なんだよね。だからさ、それ相応の報いを受けてもらう事になるけど、良いよね? だってその覚悟もあって俺に突っ掛かってきたんだし。言ったよ、俺。――皆殺しにしちゃうゾって」

言ってる事はカッコイイ。カッコイイんだけど、最後がとてつもなく怖いんですが神威さんんんん!
阿伏兎さんは、珍しく本気モードじゃん、とか言って我関せずだし、これを見てるだけのあたしはどうしたら良いんだよ。どうする気も無いけどっ。
まばたきを一、二回した瞬間に、勝負はついていた。
うめき声をあげて地面に突っ伏す学ランの生徒の中央に、神威さんが悠々と雄々しく立っていた。そして、こちらを向いて一言。

「……さ、帰ろうか」

いつもの、神威さんの笑顔だった。
その後は危ないからという理由で神威さんと阿伏兎さんに自宅マンションまで送ってもらう事になり、高杉先生にその連絡をする為に電話したら大層嫌そうな声で了承してくれたけれど、これはご機嫌取りを後々しなくてはいけないようだ。
あたしのマンションに着くまで、神威さんはずっと笑っていた。

「今日は、怖いめに遭わせちゃってごめんね」
「大丈夫です。あたしには何も被害無かったわけですし…。神威さんこそ、ケガとか大丈夫ですか?」
「俺は大丈夫だよ。ありがと。やっぱり名前ちゃんは優しいね」
「いや、あんな大乱闘スマッシュブラザーズよりも激しいリアルな乱闘見せられたら心配しますって」
「そうだぞ店長。俺だってあの大人数はヒヤヒヤしたし」
「あれ、阿伏兎居たの?」
「……俺、店長の荷物乗っけてバイク押してんだけど」

さっきの乱闘の事なんか微塵も感じさせない、他愛もない会話だった。だからこそ、あたしも普通に会話できていたのかもしれない。
マンション内にあたしが入って行くまで二人は見ていたようで、エレベーターに乗る頃、バイクのエンジン音が聞こえてきた。
一人きりのエレベーター。目的階に到着するまで今日の事を思い出してみる。神威さんは確かにイケメンだった。


意外なギャップに女子は胸を躍らせる生き物なのです。

(2012/04/16)
(2019/09/05 再編集)