同棲、八十九日目。



「ごめんなさいね、お母さん達、お盆に帰れなくなっちゃった」

けらけらと笑いながら、重要な事をさも重要じゃないように言う母さんの声を聞いたのは、つい先日の事だった。
なんでも、リーマンショックのせいらしい。
ドル安でその対応の仕事が忙しくてみたいな、よく分からない話をされたので、持っていた携帯を新聞を読む先生に渡したのは記憶に新しい。
先生の猫を被った話し方を聞いたのも、記憶に新しかった。
そんなこんなで数日が経って、今日はバイトも無いし、ゆっくり家事でもしようと掃除機を起動させたのはつい十数分前。
先生も学校に行ってて居ないし、とルンルン気分でリビングをスリッパでさながらスケート選手のように滑りながら掃除機をかけていたら、ふと、カレンダーを見てしまったのが今さっき。
来週からまた学校行かなきゃいけないのか、なんて思ったのが今。そして、あたしの手から、掃除機が落ちてひどい音をたてた。

「……え、…いやいや、待て待て……そんなはずは……え、でも……いやいやいやいやいや!!」

エプロンのポケットに入れていた携帯をすぐさま取り出してディスプレイ画面を見る。8月20日と表示されていた。
携帯の画面を一度シャットダウン。そして、再起動して、再度ディスプレイ画面を確認。
掃除機を元あった場所に戻し、エプロンを脱ぐ。引き出しを開けて食費用の財布を取り出した。
あたしの馬鹿あああああああっ!! と心の中で叫びながら、一目散に家を出るのだった。
我ながら、実に恥ずかしい瞬間。二度と思い出したくない。

スーパーに行って、必要なものを購入。と言っても、小学校低学年くらいまでの子供が親と作るような簡単な、付属してある粉と卵と牛乳を入れて混ぜるだけの本当に簡単なキットだけど、また去年みたいに銀八に教わるのは釈に障るので今回は自分の力で頑張る事にした。
つい十日前のあたしは一体何をしていたんだろうと叱咤する。……あ、妙と神楽と九ちゃんと遊んでたんだ。自分の私欲に従順過ぎた結果か!

とりあえず帰宅してからボウルにキットに入っていた粉とか牛乳とか卵とか、必要なものを入れて混ぜる、混ぜる。電動泡立て機は母さんがよく使っていたやつだ。
付属の型を組み立ててそこに流し込む。――少しこぼれちゃったけど、多分、大丈夫だ、うん。
あとはオーブンレンジでチンするだけ。

「……なんだ、ケーキ作るのって意外と簡単じゃん」

ほんとに難しいと思ったら最終的に神威さんか阿伏兎さんにSOS信号を送ろうかと思っていたのに、なんだか拍子抜けだ。
後は偉大な文明の利器に任す事にし、あたしはやりかけの掃除を再開することにした。




「……で、なんだこれは」
「ケーキ…です……」
「今更だな」
「…ごめんなさい」

夕飯もちょっぴり豪勢なイタリアンにして、デコレーションも済んだケーキをテーブルに置いたらタイミング良く先生が帰って来た。
着替えを済ますなり椅子に座ってお祝いが遅れた事の厭味をオブラートに包む事もせず、むしろ楽しそうに責め立ててきた先生だったが、普通に、いやいつも以上に美味しく夕飯とケーキを食べてくれた。
あんまり甘いスイーツは好きじゃない事に定評のある先生だけど、仕事疲れもあるのか、ペロリとホールケーキの半分を平らげて満足そうに晩酌を始めている。
あたしはと言うと、夕飯の皿洗いの真っ最中なのだけれど。ふと、一つだけ疑問が浮かんだ。

「……ねぇ、先生」
「なんだ」
「先生って、10日何してましたっけ?」
「――記憶喪失か?」

最近物忘れが激しいからってその返しはないと思う、うん。
ビールの入ったグラスをテーブルに置き、ふぅ、と一息吐いて先生は何も虚偽の発言は無いと言うようにあたしを見た。

「9日の朝から出張に行ってただろォが。月末予定なのが早まった。そう言ってた筈だろ」
「……え、あー、そっか…」

だからあたしは優雅に妙達と遊びに行けたんだった。
お盆となれば学校で部活する生徒達なんて居ないし、先生は完全に休みになる。帰ってきたのは12日の夜だったはず。
あぁ、もう! なんで忘れてたんだあたし! これってほんとに病院とか行った方が良いんじゃないだろうか。
先生もそう思ったようで、至って真面目に病院行くか? なんて聞いてきたものだから、丁重にお断りを申し入れといた。

「……じゃあ先生、先にお風呂入っちゃって下さい」
「あぁ」

皿洗いも終わり、エプロンを畳みながら言えば、いつにも増して素直に返事をしてくれた先生がお風呂場へと向かう為に立ち上がった。
あたし何かしたっけ? と考えるが該当するものが見つからない。しいて言えば誕生日を遅くなりながらもお祝いしたぐらいだ。
先生が素直過ぎるのが怪し過ぎて、思わず疑ってしまうのは仕方ない事だと言い聞かせる。
とりあえず、明日も仕事な先生の分のお弁当を作ろうと冷蔵庫を開けた瞬間、ピリリリリ、と携帯の着信を告げる音がリビングに響き渡った。
あたしの携帯……ではない。というか、着信音を初期設定のままになんてしていないから、確実に先生の携帯が着信を知らせている。
いつも持ち歩いてるのに珍しいな、なんて思いつつ届けようとテーブルに置かれたままの携帯に手を伸ばし、思考が一旦止まった。

「――野邊…名前……」

あたしと同じ名前の、あの女教師からの着信だった。

「……ッ、」

出していた手を引っ込める。そしてリビングには自分以外誰も居ない筈なのに、誰か見ていないかを首を左右に振って確認してしまった。
扉を隔てた廊下からは、シャワーの水音が微かに聞こえて来る。先生はお風呂に入ってる。だから、大丈夫、だ。
もう一度手を伸ばして携帯を手に取りディスプレイを確認すれば、やっぱり野邊名前の文字と携帯の電話番号が表示されていた。

「……出ちゃ、駄目だもんね…」

通話を押したい気持ちをなんとか抑え、止むのを待つ。気持ちも落ち着けたいし、それから先生に届けても間に合う。不審にも思われない、…多分。
着信が止む。頃合いを見て脱衣所に持って行こうと思ったが、それは出来なかった。

「……メール…あの人から、だ…」

携帯が、野邊先生からのメールを受信した。
指が、止まらない。いけないと分かっている。一番しちゃいけない事をしようとしているなんて分かっているのに、手が、感情が、止まらない。
メールフォルダを開けば、先生は受信メールを詳しく分別するタイプでは無いからか、仕事、家、名前といったフォルダの分け方がされていた。
自分だけ別のフォルダというのに愉悦感を持ちながら、新着通知のある仕事フォルダを開ける。野邊名前、という名前表示。
意を決して、メール画面を開いた。


見なければ良かった、と後悔して、そのメールと着信履歴を削除した。

(2012/09/08)
(2019/09/05 再編集)