同棲、九十日目。
あの日の記憶は、自分の脳内から抹消したいと何度も願った。
けれど、そんな願いなんて届かず、あたしの脳は何度もあのメールの内容を反復させて読み上げるのだった。
「名前ー? 大丈夫アルかー?」
「……え、あっ。…うん、大丈夫、だよ」
二学期の始業式が終わり、ロングホームルーム中。呼ばれる声にはっと我に還り視線を戻せば、心配そうな顔をした神楽と妙の姿があった。
やばい。と冷や汗がたらりと背中を流れ落ちる感覚がする。この二人には今までも先生絡みで心配や迷惑をかけてたし、今回限りは何にも無いように平静を保たなければいけない、のに。
ちょっと呆けてただけだと言えば、何かと勘の鋭い妙の表情が強張る。多分何かあったと分かっているんだと思うけれど、今はあたしの気持ちの整理がついてないし、駄目だ、言えない。
「……もう、新学期からそんなんじゃあ先が思いやられるわよ。文化祭が終わったら受験に向けて猛勉強しなきゃいけないんだから」
妙が笑顔になる。良かった、と思った。気付かないフリだと分かっているけれど、そんな妙の優しさが嬉しい。
今度、期間限定のハーゲンダッツをプレゼントしよう。
「そうネ! 今年の文化祭も3Zが売り上げトップを目指すって銀ちゃんも張り切ってるし、名前も頑張らなきゃ駄目アル!」
「そうだね、頑張るっ……て、あれ――頑張るって、何を…?」
聞いてなかったのね。と妙が呆れて黒板を指差す。
そこには赤いチョークで、でかでかとホスト&ホステスなんて馬鹿げた文字が書かれていた。
え、何これ何これ。ほんとマジで何これ!!
しかもホステスの欄にあたしの名前書いてるし、妙も神楽も九ちゃんも居るし…って、下手物と言っちゃ悪いけどハム子とキャサリン以外ほとんどの女子の名前書いてんじゃん。
「今年の文化祭はホスト、ホステスクラブをするって、ついさっき決まったじゃない」
「……………マジでか」
「ほんっとうに何にも聞いてなかったみたいアル」
「名前の一点集中スキルが勉強にも活かされたら良いのにね」
「余計なお世話ですー。てか、これホントにマジで?」
「マジも大マジヨ。銀ちゃんも、珍しく男共もやる気満々ネ」
神楽に言われてホストの欄を見る。トシ、総悟、ヅラにゴリラに東条までいる。後はまぁ端折るとして、喋らなければまあまあ見れる面々の名前が書かれていた。
これは、確かに、売り上げトップは間違いないかもしれない。でも、
「これって、学校的に大丈夫なの?」
「どうして?」
「一応、水商売だよね、これって」
「理事長からの許可は下りてるらしい」
会話に入って来たのはトシだ。後ろに総悟と退を従えてる。あれ、ゴリラはどこ行った?
「大方、無理矢理捩伏せたんでしょうねィ。売り上げトップになれなかったら、当分給料いらないとか、なんとか」
「あー……確かに銀八なら有り得るかも。でもトシと総悟が居たら大丈夫でしょ。だってZ組の二大イケメンだもん」
「それは……まぁ、そんな事はどうでも良いんだけどよ。お前、よく反対しなかったな」
「反対しなかった、じゃなくて、ぼーっとしてて反応出来なかった、みたいな?」
「心此処に非ず、か? 無理すんなよ」
「……うん。ありがと、トシ」
いつの間にやら妙達が席を外していたけれど、もう特に疑問を持つ必要なんてない。
トシとあたしは良い友達なんだし、お互い気にしてないはず、だから。
「ねぇ、トシ」
「なんだ?」
「……ううん、なんでもない」
トシは少し面食らった表情をしたけど、すぐに笑ってなんだよ、と言ってくれた。
銀八の姿も無いし、教室に残っている生徒も少ない。妙達も帰ったみたいだし、きっと国語資料室とかに居るであろうあの天パを少しとっちめてから帰ろう。
まだ教室に残っているトシに帰る旨を伝えて、あたしは教室を後にした。
案の定、天パは国語資料室に居た。
とりあえず、バカな考えを二度とおこさないようにとめっためったにしたから、暫くは再起不能だろう。あぁ、すっきりした。
今日は神威さんのご厚意でバイトも無いし、ゆっくり夕飯の献立を考えながら帰ろう。
階段を早足で下りていく。既に下校してる生徒や部活に行った生徒が多いのか、廊下や階段には人一人居なかった。まるで、あたしが別の次元の校舎に一人で迷い込んだみたいな、そんな錯覚。
以前は気味が悪いと思っていたけれど、今は面白いと思ってしまう。――そんな妄想も、すぐに壊されてしまうんだけれど。
「……あ、っ」
目の前の、反対側の廊下から歩いてくる人物を視界に入れた瞬間。あたしのすべての行動がストップした。
呼吸でさえもままならなくなる。生まれてからこれまで培ってきたものが記憶から抹消されたような、何も出来ない子鹿みたいな。
――この間は付き合ってくれてありがとう。――
なのに、忘れたい記憶だけが脳内をぐるぐる回る。まわる。いけないことをしたって言う罪悪感もそれと一緒について回る。責め立てられる。
――貴方の誕生日をまた一緒に祝えて嬉しかったわ。――
呼吸が、出来ない。
「あら、 苗字さん。今帰りかしら?」
「…どう、も」
「文化祭の話し合い終わったの? 銀八の事だから、変な企画書とか出してそうね」
「……そう、ですね」
「大学の時もそうだったの。それでよく、晋助に怒られてたわ」
昔の事を懐かしむその表情になぜだか吐き気を覚えた。
アンタの思い出なんか知らない。あたしの知らない先生なんていらない。
早く職員室にでも何処へでも行っちまえ。
「……あら、?」
タイミング良く校内放送が流れた。目の前の女教師を呼ぶ内容に、止まってた呼吸が再開される。それを悟られないようにして女教師を見送った。
キツイ匂いではないと思うけれど、あの女教師の香水が鼻について離れない。
気分転換にスーパーで買い物をしてから帰ろうかと思ったけどそんな気分にもならず、気付いたら神威さんの喫茶店の前まで来ていた。
店内をガラス窓から覗けば、この間の夏休みからずっとアルバイトをしているまた子の姿が見えた。あたしの代わりに無理矢理働かされたらしいが、一ヶ月経った今では結構様になっていると思う。
忙しそうに店内を歩き回るまた子を見て少し元気をもらえた気がする。声をかけずに帰ろうとすれば、バチっと目が合ってしまった。…………早く帰れば良かった。
「先輩!! 今帰りッスか?」
「…えと、あ、うん、そうだよ」
目を輝かせるまた子。なんか嫌な予感がした。気のせいだと思いたい。
……気のせいじゃなかった。
有無を言う暇もなく店内に連れて行かれ、気がつけば、喫茶店の制服として支給されているメイド服を着ていた。
「ごめんね、名前ちゃん。最近お客さん多くて…」
珍しく厨房で阿伏兔さんと一緒に料理を作ってる神威さんが声をかけてきた。
なんでも、夏休み以来お客さんが減ったらしいのだが、最近また増えてきたらしい。そのおかげでお店も大繁盛、あたしの代わりにシフトがぎゅうぎゅうなまた子も大忙し、というわけなのだが、これはちょっと忙しすぎだろうと思ったり。
あたしが週二で働いているのに対して、また子は週五だ。それに早い時間から働いていないあたしはこんなに忙しいのをあまり経験したことがない。……バイト、週三に増やそうかな。
「名前ちゃん、これ四番さんに!」
「はーい!」
レジをしてるまた子も、店内を歩き回るあたしも、なんだかんだ言って仕事を楽しんでるんだけど。
いや、でもぶっちゃけちゃうと、今日働けて良かったのかもしれない。良い気分転換になると言うか、何と言うか。さっきの精神状態のまま先生に会ったら八つ当たりしちゃうかもだし。
そんなあたしの気分を察してか知らずか、神威さんがお店の閉まった後にホットココアをまた子の分と二人分出してくれた。やっぱり、気の利く人だ。ちょっと無茶なところもあるけど。
「ぷはー! 労働した後の一杯は格別ッスね、先輩っ!!」
「あたしは逆に熱々のココアを一気飲みしちゃうまた子にビックリだよ」
すぐカップを空にしたまた子を馬鹿にするわけではないが、結構熱いよ、これ。舌火傷しないか、これ。
「相変わらず来島さんの飲みっぷりは最高だね、阿伏兔」
「…なんでそこ、俺に振るのかな」
「名前ちゃんそう思うだろ?」
「え、あー、まぁ…熱くないのかな、とか…?」
「ココアは熱い内に飲まなきゃ美味しくないッスよ!」
うん、まぁそうなんたけど。また子は一般論とたまにずれてるとこがあると思う。確かにあったかい方が美味しいけどさ。
「でも、今日は名前ちゃんの手助けがあって良かったな、店長」
「うん。名前ちゃんが来てくれなかったら、俺が着替えて配膳する羽目になっちゃってたしね」
「男のメイド服なんて御免だわ」
「え、なに阿伏兔。俺のメイド姿見たかったの?」
「んなわけないだろ! 俺が見たいのは純粋に、」
「あぁ。名前ちゃんのとか言ったら……殺しちゃうぞ。それ以外なら良いけど」
「なんで先輩のは殺して私のは殺さないんスか!?」
また子のツッコミがずれている。気にもとめないでココアを飲んだ。………甘い。
神威さんの作るココアは色々と格別だ。愛情が籠もっているような、そんな感じがする。
先生へバイトへ行くと連絡をしたが返事はない。悪い予感がした。悪い妄想をしてしまった。
それを拭い去るように頭を振って熱いままのココアを一気飲みした。
熱いココアは食道を通って、冷たい体をゆっくりと暖めていった。
(2012/11/12)
(2019/09/05 再編集)