塾からの帰り道、夕闇に染った帰路を歩いていれば、それはそれは珍しい人間を見つけてしまった。
声を掛ければ訝しげな表情を浮かべるそいつからは、昔の可愛い可愛い幼馴染みの面影なんて残っていない。
それでも、これまた珍しく学ランに身を包んだ彼に声を掛けずにはいられなかったのだ。

「珍しいね、晋ちゃん。停学、明けたんだ?」
「うるせェ。晋ちゃん言うな」
「あれ? 晋ちゃん身長また伸びた? 良いなぁ、男子は高校生で伸びるもんね。羨ましいよ」
「だから晋ちゃん言うな」

昔からの呼び名なので変える訳もなく、私は幼馴染みを晋ちゃんと呼び続けながら一緒に歩く。
ついてくるなと言われても、家が近所なのだから仕方がない。自分の家を目指せば、必然と彼と同じ道を歩いてしまうのだ。うん、仕方がない。

「昔は可愛かったのになぁ。後ろからついてきて、名前ちゃーん、って。あぁ、あの頃の晋ちゃんはどこに行ったんだ」
「ンなもん考える暇あったらクソして寝てろ」
「ねぇ晋ちゃん、私一応女の子だよ? 華の女子高生に対して、その言葉遣いはどうなの?」
「うるせェ」

本当に、昔の可愛い晋ちゃんはどこに行ってしまったのだろうか。
絶賛反抗期真っ只中なのか、小さい頃の反抗期がエンドレスリピートしているのか。この幼馴染みは学校ではヤンキーとして過ごしている。
高杉一派と呼ばれるそのヤンキーグループは、別クラスに在籍する私の耳にも噂が色々聞こえてきているのだが、ちゃんと登校する時点でヤンキーなのか? という疑問が生じてしまう私は、晋ちゃんに甘いのだろうか。

「お前は塾帰りか」
「うん、そうだよ。受験生だからねー」
「そうか。気ィつけて帰れよ」
「心配してくれてるの? 晋ちゃんが? やだ、嬉しい…!」
「うるせェ。……家、着いたぞ」

久しぶりに話した幼馴染みに見送られ、おやすみ、と一言交わして家の中に入る。
扉を完全に閉めるまで、こちらを見ていた幼馴染みの姿は、遊び終わって門限があるから、と帰っていく私を名残惜しそうに見送る幼い頃の姿と重なった。
翌日も、塾終わりに晋ちゃんと偶然会い、その翌日も、翌々日も、待ち構えているように、でもそれは偶然で。私は晋ちゃんと一緒に帰る事が多くなった。
学ランの中に着込んだ赤いシャツは、闇に染る夜道で目立つ。姿を見掛けると、昔のように話さなくなった幼馴染みに声を掛けてしまう私も私なのだが、何も用事が無い事を分かっていても会話してくれる晋ちゃんも晋ちゃんだと思った。

「…あ、」
「あ?」

思わず声を出してしまう。
いつもは帰路で会うはずの幼馴染みの姿を、塾を出てすぐの道で見掛けたからだ。
私の声に反応して晋ちゃんはこちらを振り向いたのだが、その様子からは暇を持て余してブラブラと繁華街を歩いていたのが見てとれた。
何をしていたのか問えば、いつも一緒に居るメンバーとちょうど別れて帰るところだったらしい。
こんな所で会うなんて珍しい事もあるものだ。
じゃあ一緒に帰ろう、と言えば、彼は右目をキュッと細める。

「帰る道が一緒なだけだ」
「うん、知ってる。だから一緒に帰ろ?」
「……好きにしろ」
「はいはい。好きにしますー」

私の好きにしていいなんて言う割には歩く速度を合わせてくれるし、なんだかんだ言いつつ一緒に帰ってくれるそうだ。
外見や言動が少し、いや、大分変わっても、中身の性格は優しいままのようで少し安心。
夜の道を晋ちゃんと歩いていれば、自分もヤンキーになった感じがしてくる。まぁ、私は塾の帰りなわけなのだが、周りから見れば晋ちゃんの影響で不良の仲間入りだ。

「晋ちゃんってさ、」
「晋ちゃん言うな」
「なんだかんだ言って晋ちゃんだよね」
「どういう意味だよ」
「そういう意味!」

喉を鳴らして笑われたので、私も笑い返した。
そこで訪れる二人の間の静寂。基本的にこの幼馴染みは自分から喋る事が無いので、何か話題無いかなぁと周りを見渡してみるが、繁華街から住宅街へと街並みは変わっていて。
何も話題が思い付かない。何か喋らなければ、何か喋らなければと母音を伸ばした言葉しか出てこないからか、何してんだ、と真面目な顔で言われてしまった。

「今、変な奴って思ったでしょ」
「残念。お前が変なのは昔からだ」
「えっ、何それひどい!」
「良くも悪くも変わってねェって事だよ。理解しろ、阿呆」
「晋ちゃんより頭良いもんね!」
「そういう意味じゃねェ。だから昔から阿呆なんだ」

まさか、こんなに言われるとは思っていなかった。そこまで阿呆と連呼されれば、いくらなんでも凹むってものだ。
どうせ阿呆ですよー、と威張ってみれば、やっぱり変わらねェ、なんて笑いながら言われてしまう。
変わらないのは晋ちゃんだって同じなのに。

「おい、着いたぞ」
「うん。ありがと、送ってくれて」
「帰り道が一緒なだけだ」
「うん、そうだね」

また明日。と、帰る約束なんてしていないのにそう口に出せば、短い返事が返ってきた。
やっぱり扉を完全に閉めるまで、晋ちゃんはこちらを見ているのだった。
明日からも晋ちゃんと会えるのは、やっぱり嬉しかった。偶然とは言え、話すこともままならなかった幼馴染みと、昔の思い出に浸りながら歩く事。それは、私の中で日常と化していた。
しかし、現実とは非道なものである。
今日ばかりは一緒に帰れそうにないなぁ、と。明かりのついた塾の一室で、誰にも聞かれないように呟いた。
塾内テストの日。この日はいつも通りの、幼馴染みと会える時間に塾は終わらない。一日に七教科のテストを受けるのだから、22時を余裕で超過してしまう。
今日は一人で帰らなきゃなぁとシャーペンを回して、目の前の敵を片付けようと配られた問題用紙を開いた。
シャーペンをペンケースに戻すと、やはり時間は22時を回っており、やっぱり今日は一人で帰らなければいけなくなったなぁと。幼馴染みと会えない、話せないと分かって溜め息が漏れる。
この溜め息は長時間のテストを受けた倦怠感なのか、それとも彼と話す機会を失ってしまった喪失感なのかは分からない。
ビルを出ればもしかしたらあの眼孔鋭い幼馴染みが居るのではないかと考えたが、やっぱり居なくて、そしてまた溜め息が漏れた。

「まぁ、いつも一人で帰ってたし」

今から帰ると親に連絡し、携帯をスクールバッグへと入れた。
一人で帰路を歩くのは当たり前だったのに、その当たり前が短いにしろ寂しく感じてしまうものだ。
こんなに寂しくなるなら、連絡先を交換しておけば良かったと後悔する。というか、なんで連絡先を知らないんだ私。交換を断られた記憶はないので、ほんのり距離が出来てくる前に聞いておけばよかった。
これが後の祭りというものなので、明日、いや、今度会った時に絶対聞こう。あっちから連絡はしてこないだろうし、もしかしたら私からも何も連絡しないかもしれないけれど、連絡先があるだけでこの寂しさを少しだけでも癒やすことは出来るだろう。
次いつ会えるかなんて、確証はないのだけれど。
そうこうしている内に、繁華街から住宅街へと町並みは変わる。
街灯の数は減少し、ポツリポツリと長い距離の等間隔でコンクリートの地面を照らしているだけで、今が深夜に近い時間帯なのだと理解出来る。住宅の明かりは何も意味を為すことがなく、強いて言うなら私以外の人間も居る事だけ教えてくれた。
――少し、悪寒。
オバケやら妖怪やら、そういった心霊系統に強いわけではないのだ。
誰かに電話しながら家まで帰ろう。まだ両親は起きているはずだし、電話には出てくれるだろう。
そう思いついてスクールバッグから携帯を取り出そうとすれば、誰かに、腕を、掴まれた。

「なっ、――む、っ」

口を手で塞がれた。街灯の明かりが届かない路地に引っ張られる。
抵抗を試みたものの、私はされるがままレンガで出来た塀に頭を押し付けられるのだった。

「は、……ははっ」

聞こえてきたのは、渇いた笑い。目の前で荒々しい呼吸をするのは、誰だろうか。知っている人なのだろうか。なぜ、私がこんな目に遭うのだろうか。
拘束された両腕は頭上に上げられ、塀に押し付けられている。視界の端には、無残にも中身が飛び出て放置されたスクールバッグが見えた。
太ももの間に目の前に居る人間の膝があって、逃げるにも、抵抗するにも、何も出来ない。
抑えられた手首から分かることと言えば、私は男性に拘束されているくらいだ。その人物が誰なのかは、全く理解出来ないのだけれど。

「やっと…やっとだ。やっと二人きりになれた」
「んぐ、んー!」
「良いよ、噛んでも。君からの痛みなんて、僕がここ数日受けた屈辱に比べればご褒美さ」

聞いたことがある声だ。――誰だ。つい最近、この声を耳にした気がする。
思考が追いつかない。
逃げたい一心でもがくが、私よりも長身である男性を前にしては抵抗のての字も為さなかった。

「君が悪いんだよ。僕がいつも家まで見送っていたのに。あんな不良と一緒に帰るんだから。僕の役割を邪魔したんだから。君を塾から家に見送るのは僕の役目なんだ。それが僕の至福の時間だったのに」

……あ。思い出した。これ、誰か分かっちゃった。

「君だってそうだろ? 僕のおかげで今まで安全に帰れたんだから、それを分かってて今日は一人で帰ってるんだろ? そうだろ? 苗字さん」

つい数十分前に聞いた声だ。
さようなら、と挨拶すれば、いつもにこやかに気をつけて帰ってね、と言ってくる塾の先生と、同じ声。

「大丈夫だよ。今までと同じように、君が一人で帰ってくれる事を約束してくれるなら、今は何もしないから。ほら、怯えないで」

怯えるななんて無理がある。今は何もしないってなんなんだ。今、という限定で、この先はわからないって事なのか。それなら尚更怯えるに決まっているだろうに。
頷くように促されるが、頷けるわけがない。
この場を凌ぐために頷いて将来的に想像も出来ない事をされるのであれば、今この時点で抗って殺されても一緒だ。
悔いが残るのは、あの幼馴染みと連絡先を交換しておけば、という事だろうか。あ、あと、今日のテストの点数も知りたかった。それから、ワンピースの最終回も気になる。あと、あと――、

「頷いてくれないんだね」

これが最後に聞く言葉だなんて、考えたくなかったなぁ。
私の両手首を抑える右手とは逆の左手が振りかぶられた。少しだけ光が当たって見えたのはサバイバルナイフ。
これで殺されるのかぁ。なかなか死ねないんだろうなぁ。……なんて、諦めた思考と共に、涙の滲んだ目を閉じた。

――パシャ。

機械音。私の体に痛みは無い。
瞼を開ければ、先生の顔は私じゃない方に向いている。その方向は、私を引きずり込んだ路地裏の入り口だった。
パシャ、ともう一度鳴る機械音。その後に聞こえるのはパトカーのサイレン音。
先生と同じように視線を向ければ、街灯の明かりで逆光になっている人物。

「有名塾の講師が犯罪とは、腐った世の中になったもんだなァ」
「お前……何をしてっ」
「それはこっちの台詞だろォが。……この音、聞こえねェのかよ」

近付いてくるサイレン音。これは助かったのかもしれない、と安堵すると同時に、体から力が抜けた。
私を拘束していたものが外され、先生の標的は私ではなく、逆光に照らされた人物へ。
何を叫んでいるか分からない先生の声と、地面に何かがぶつかる音と、私が地面にへたり込むのはほぼ同時で、その瞬間を見れなかったのが勿体無い気がしてしまったのは、まだ私の頭が混乱しているのだと思う。

「生きてるか」
「……生きてる」
「そうか」

地面に突っ伏した先生の姿が、警察に運ばれていくのはその数分後。助けてくれた晋ちゃんと警察署に行くなんて、なんだか変な感じがする。
警察が連絡してくれて両親が到着。その時には、晋ちゃんはもう警察署を慣れたように去って行ったのだった。
その後、事情聴取やらで何日か学校を休んでいたのだが、警察署に赴く度に晋ちゃんが何故か家の前に居て、この幼馴染みは学校をサボって何をしているんだと。聞いてみれば自主休校だと言われたので、久しぶりに笑ってしまったのは記憶に新しい。

「ねぇ、晋ちゃん」
「晋ちゃん言うな」
「連絡先、交換してよ」
「晋ちゃん言うのを止めたらな」
「じゃあ晋くん」
「一生交換してやんねー」

そう言って、携帯を取り出す幼なじみは、昔と少し変わった笑みを浮かべるのだった。


(2019/09/09)