初めて会った彼は無邪気で、負けず嫌いで、それでいて、繊細だった。
気付けばそんな面影が無くなっていて、いっちょ前の大人になりだしていると私が理解し始めたのは中学生くらいだっただろうか。
実家に寄り付かなくなったと聞いた。夜は繁華街に柄の悪そうな人達と行動いているなんて話も聞いた。
高校生になればその噂は誇張されるように壮大な話になり、彼の左目には怪我をしたのかどうなのか眼帯がされていて、噂を冗長化させる原因にもなっている気がした。
Z組の高杉に関わると喧嘩に巻き込まれる。夜は悪い大人達と一緒に居る所を見た。大人の女性と関係を持っていて貢がせている。――とか、本人に確認せず真実かどうかもわからない噂が耳に入ってくる度に否定しようとするけれど、私が何を言っても意味が無く友人達は確信の無い噂話しか信じない。
友人達にとっては一種の話のネタであり、見下す対象なのだと理解できるようになったのは高校三年生に進級した時だった。
受験のストレスなのだろう。噂話が誇張をし過ぎて広まったのだ。そして私もその渦中に巻き込まれてしまった。
どこから話を入手したのか、幼少の頃にした腕の骨折の事を彼の喧嘩に巻き込まれたせいだと噂する生徒が増えていた。直接問われる度に否定するが、口止めされているなどと根拠のない理由で私の意見は聞き入れてもらえず、結果的に数々の噂を信じた教師達によくわからない部活を押し付けられたという話を聞いた。
クラスは別だし教室は離れているので実際に校舎内で彼を見たのは数えれるくらいで、その部活動がなんなのかも知る機会は無かったのだけれど、夏前にプール掃除をしている現場を目撃し、ちゃんと学校に来ている時点で不良でもなんでも無いしちゃんとしているのではないかと私は思うようになった。
幼少の頃から比べたらキツくなった目つきには違和感を感じ得ないが、それも一種の成長なのかどうなのか。クラスメイトと騒いでる彼の姿を見かける度に、なんだかモヤモヤとした気持ちの悪い心境になりつつあった。

「最近、悪い噂聞かないよね」
「学校ちゃんと来てるじゃん」
「あの噂流したの誰?」
「てか、苗字さんって怪我させられたんだよね?」
「まさかその時の恨みで噂流したんじゃ?」
「えっ、本当に? その時謝ってるならただの逆恨みじゃんか」
「小さい頃だったんでしょ? そんな昔のことなのに」

そして、そのモヤモヤは私の思っていないところで私に向かってくるのだ。
私は否定したし、彼のせいではあるけど自分が悪いのだと説明していたのにも関わらず、新しい餌を池に放り投げてそれに群がる鯉のように、新しくネタを手に入れた生徒たちはそっちでストレスを発散しだす。
三年生の受験というシーズンに突入していく季節で、残り一年も無いのだからこれくらい我慢してやろうと思っていたのだが彼とは違い身近に手を出せる噂の対象だからか、影で話をされる事に留まらず現実的に被害を受けだしてしまったのだからどうしたもんかと思考を巡らす。
巡らした結果、他に意識が行けば勝手に終息するだろうと知らぬ存ぜぬを突き通すことにした。噂話に花を咲かせてるよりも受験に集中し出せば興味は無くなるだろう。
楽観的な考えかもしれないが、それが事を荒立てずに解決する方法だと思い込んでいたのかもしれない。それでも彼に関わって事情を説明して欲しいなんて言える仲では無くなっていたので、そうするしかないという諦めもあった。
卒業まで無くならなくても三年生は年が明ければ自由登校になったりするわけだから、被害は減っていくだろう。と、生ゴミ専用のゴミ箱に捨てられたローファーを探し当て、持ち歩いているハンカチを水道で濡らして綺麗に拭く。帰宅してから消臭スプレーをしたら臭い対策は出来るだろうか。今度から色々な道具を持ち歩かなくては。
ただでさえ参考書の分カバンが重いのに、更に荷物を詰め込まなければいけないのかと辟易した。
まぁ、ほんの少しは自分がきちんと説明すればこんな事にならなかったのかもしれないが、今更の話なのでもういいや。
ロック式の下駄箱ではないので下駄箱の中が空だという確認、そしてさっきまで履いていた上履きは常備しだした手提げ袋に入れて持って帰る。荷物は増えたが被害に遭って対策を一考した結果なので、自分の考えには自分で責任を持つことにしているお陰か不思議と苦に感じなかった。
――彼に、この姿を見られる迄は。

「今日は終業式だったか?」
「……え、いや、違うけど」

季節は秋へと移り変わっていく中。物を隠されたり捨てられる事が頻繁にあるようになり、教室にも何も置けない状況なので登下校における荷物が増えてしまった姿を見られてしまった。
別クラスであり教室も遠い彼からすれば、自分の噂の関係で私が被害に遭っているなんて考えは導かれないだろう。
声を掛けられた事に関しては驚いてしまったが、彼と共に居るのは良くないと思って適当な嘘を並べる。それに対して、彼はふぅん、と興味が無さそうに眉を寄せながらも返事をしてきた。

「頑張ってね、部活」
「お前は何してんだ」
「何もしてないよ。受験生だもん」
「……なんかあったら頼れよ、万事部」
「頼る時が来たらね。おばさんとおじさんにもよろしく言っておいて。中学くらいから全然会ってないし」
「会ったらな」
「うん。よろしく。それじゃあ、」

早く話を切りあげよう、と。彼と一緒に居るところを誰かに見られでもしたら、と。面倒なことにこれ以上巻き込まれないように話を切り上げて背を向ければ、腕を掴まれた。
何事かと振り向けば、先程とは変わらない仏頂面をした彼の顔が近くにある。そのお陰で、彼に腕を掴まれたのだと理解できた。

「――名前、」
「……何?」
「今、言うところだろ」
「何、が?」
「助けは、要らねえのか」
「……要らない。私には、晋――高杉くんの助けは、要らないよ」
「そうか。悪い、呼び止めて」
「気にしないで。じゃあね」

頼ってはいけないのだ。彼の素行に関する噂が流れ出した時も、いつの間にか左目を覆っていた眼帯の事も、昔の怪我のことも。全て私が彼の味方になって誤解を溶いていけば良かったのに、自分の保身で何もしなかったのだから、私は彼を頼ってはいけない。
だって彼は、私を頼ってこなかったから。自分でなんとかしていたから。私の力は必要としていなかったのだから、私は私自身で対処しなければいけない。
それが、ひっそりと彼を想うことの出来る私の特権なのだ。
そういえば、彼は進学するのだろうか。それとも就職するのだろうか。――関係を自ら断ち切ってしまった今となっては、それを知る術は存在しないけれど。ただ彼の存在を見ているだけになっていた私の名前を呼んでくれた、それだけでヒットポイントが回復したような気がする。
振り返れば、赤シャツ姿の男子生徒の背中はもう見えなくなっていた。
この罰せられる日々を耐えきって、またいつか彼から名前を呼ばれる時が来たら、罪を懺悔した後に改めて彼の名前を呼べるだろうか。
小さく彼の名前を紡いでみたが、まだ許されていないのか音にはならずに空気となって消えていった。

(2021/01/18)