唐突に舞い降りた感覚に、身震いしてしまった。
頭上からゆっくりと、自分を包み込んでくるその感覚は、どう表現したら良いのか分からない。
が、彼を見た時の衝撃は計り知れず、それは彼を取り巻く女性達も同じだろう。
それ程に彼――ディルムッド・オディナは周りに衝撃をもたらすに等しい外見の持ち主だった。

「苗字さん」
「どうかしたの? オディナくん」
「少し相談がありまして」

会社中に衝撃が響き渡り、営業一課で断トツの女性人気を誇っていた男性社員を入社当日に抜き去ってしまったオディナくんの教育係を命じられた私ではあったが、数日間の嫌がらせを耐え抜き、今やライバルの女ではなくただの教育係の女と認定されている。
つまりは蚊帳の外の女。所詮会社で仕事を教えるだけの女。
だから、こういう風にオディナくんから声を掛けられ席を外しても、周りにどうも思われない立ち位置になっている。

「相談って?」

デスクのあるフロアを出て、社内の人がほとんど使用しない廊下の奥にある荷物用大型エレベーターの前へと移動する。
腕組みをして壁にもたれると、冷たさが背中に広がった。
対面に立つオディナくんはフロアにいる時と同じ表情をしながら私を見つめ、口を開こうとはしない。
一体なんの相談があるのだ。じっと見つめられていては何も分からないではないか。
溜め息が漏れた。何も無いなら、と彼の横を通って自分のデスクに戻ろうとすれば、目の前には腕。
所謂、通せんぼ、という事なのだろう。
何? と少し声を荒らげたのかもしれない。長身の美丈夫を見上げても、フロアに居た時同様、ニコニコと微笑む表情からは崩れず私を見てくる。

「――ない?」
「……かな、……で、やっぱ……――」

カツカツとヒールを鳴らす足音が二つ。こちらに近付いてきているように聞こえる。
まさか、この足音が鳴るまで待っていた? となれば、何を待っていたんだ?
疑問は増すばかりなので、話が無いなら早く自分のデスクに戻りたい。営業に頼まれて資料も作っていたし、今日は仕事が大量にあるのだ。こんな事に時間を割いている暇は無い。

「ちょっと、オディナく――んうっ、」

いい加減にして、と伝えるつもりだった。それは唇を塞がれた事で、伝えるどころか声が出なくなってしまう。
柔らかい唇の感触。逃げないようにと後頭部に添えられた手から伝わる体温。そして、腰を支える腕の感触と歯列をなぞり絡まり合う舌から伝わる感覚。
ぞくり、ぞくりと身体中を駆け抜ける快感に、全ての思考を奪われそうになった。
それでも正気を保ち、なんとか逃げようと顔を動かせば、彼からの拘束は強いものへと変わっていき、この快楽に身を委ねようとした時。
いやらしい水音に紛れて耳に入って来た、戸惑う女性社員の声のおかげで覚醒する。
そうだ、ここは会社だ。会社で、これは、まずい。

「ちょっ、ディルやめて!」

筋肉量の多い腕から逃げるように、振り払おうともがいた。――ら、私の顔は深緑色一色の世界へと誘われる。
抱き締められて彼のスーツの色が視界を埋め尽くしたという事に、先程の快楽のせいですぐに気付けなかった。

「……オディナ、さん…? えっと、苗字さんと……?」
「えっ、えっ? どういう事ですか……?」

あのキスシーンを見られてしまった。わかる、戸惑う気持ちはとてもよく分かる。
私もどうしてこうなったのか戸惑っているからか、姿と声が一致せず名前も分からない女性社員二人に同情してしまった。

「どういう事とは? 俺と名前は数年前からこういう関係ですが、何か問題でも?」

声色で理解出来てしまうのが辛い。多分、多分だけれど、女性社員二人に対してこの男は怒りを包み隠さずに発言しているのだ。そしてその理由は、つい最近まであった幼稚な嫌がらせに関係しているのかもしれない。
その件を、私は誰にも言っていないのだ。もちろん、彼にも話していない。
仕事とプライベートは別物。偶然新入社員で入社して来たのが恋人だったとしても、その教育係が私になってしまったとしても、隠し通すべきなのだ。
それを、私の我慢の努力を、こいつは壊そうとしているのか。

「こういう関係って……」
「ちょっと、オディナくん、離しなさい」
「名前は黙ってくれないか。話がややこしくなる」

お前がややこしくしているのではないですかね?
なんて疑問は通るわけもなく、私と彼の姿を見た女性社員達の足音が早々に遠ざかって行く。やや早歩き、もしくは走って行ったのかもしれない。
これは、すぐに噂が広まってしまうだろうなぁ。と、溜め息しか出て来なかった。

「よし、もう行ったみたいだな」
「行ったみたい、じゃないから。なんて事するのよ」

腕の中から逃れ、目の前の男を睨み付ける。
オディナくん――いや、ディルは、満足そうに私を見て満面の笑みを浮かべた。

「なんて事? 俺は何かしただろうか?」
「してるわよ。あれだけ話をしたじゃない。会社では新入社員とその教育係でいておこうって」
「同意した覚えはないんだが?」
「なっ――」

ああ言えばこう言う。昔から、だ。そう、昔からこの男は人の揚げ足を取るのが得意で、そして人のことをからかうのが得意なのである。
転職するとは聞いていたが、私が勤めている会社に入社するなんて思っていなかった。自分の外見が、上辺だけの八方美人の性格が、どれ程周りの人間に影響を及ぼすなんて考えていないのだ。
この男は、私以外の人間をその他大勢という大雑把な一括にして関心がない。有り体に言えば、どうでもいい存在、と見ている。つまり、ディルムッド・オディナという人間は、自分勝手な性格なのだ。
だから、私が口酸っぱく、耳にタコが出来る程、会社では関係を黙っていようと提案していたのにも関わらず、全てを予測した上で今みたいな行動を起こす。
きっと、もう全女性社員に伝わっているかもしれない。人の噂も七十五日。払拭できるかもしれない可能性は、限りなくゼロに近い。

「本当に、勘弁してよ……」
「何がだ?」
「その性格の事」
「名前は俺を褒めるのが上手いな」
「褒めてない。呆れているのよ。これで数日間の私の我慢が全てパァになったじゃない」
「その我慢のせいなんだがな」

頭に手を置かれる。外見にそぐわない骨ばった男らしい手は、私の頭を優しく撫でた。

「……知ってたの」
「知ってたな」
「最近やっと落ち着いたのに」
「それも知ってる」
「じゃあ良いじゃない。今まで通りで」
「恋人が傷つくのを黙って見ていろと? 残念だが、俺はそこまで懐が深くないんだ」
「そうね。……なら、このままデスクに戻って何も無いなんて、考えてないんでしょ?」
「あぁ。もちろん。想定内だな」
「貴方のそういう所、嫌いなのよ」
「俺は君のそういう顔が好きだよ」

どんな顔をしているというのだ。恨めしそうに睨んだだけなのだが、ディルは笑みを崩さずに私の頭を撫でる手を止めない。
いい加減デスクへ戻らなければ、仕事がどんどんと溜まってくるだけなので早く開放して欲しい。そのままを伝えれば、自分が先に戻るから数分後に戻ってくるように言われる。
彼の想定内の事案が発生しているとすれば、私が後から戻る方が良いのだろう。
仕方なくその案を飲み、お手洗いを済まして自分の所属する課がある部署へと戻れば、男女問わず社員に囲まれる彼の姿があった。
本当に、八方美人にも程がある。というか、そいつの上辺だけの表情に騙されていると気付いてくれないか。

「はい、そうです。大学時代からお付き合いをしております」
「苗字さんって性格キツイと思うんだけど? オディナはあの人のどこが良いんだよ」
「そんな事ないですよ。名前さん――いや、苗字さんはとても女性らしい方かと」
「えー。本当にー? 仕事一筋って感じするんだけどー?」

嗚呼、あの女性社員は完全にディルの嫌いなタイプだな。ついでに言うと、私のされてきた嫌がらせを彼が知っているとすれば、わからないんですー、と私に仕事を押し付けたりしてきた張本人ですね。
さっきの発言から考えるに、きっと人物の特定は済んでいるのだろう。一瞬、特徴的な目の形が細まったのを私は見逃さない。
私のデスクから離れた所で囲み取材が行われているので、存在感を消して椅子に座り、スタンバイ状態にしていたパソコンを起動させる。聞き耳は、一応立てておこう。

「仕事一筋ではなく、いつもやり遂げる事を優先しています。それが押し付けられた仕事でも、苗字さんは最後まで手を抜きません。そういう所、俺は尊敬しています」

ほら、空気が凍った。私は知らない。廊下でもそうだったが、こうなってしまったディルは止められない。
私は関係ない。関係ないのだ。無視だ無視。

「それに、可愛らしいところもあるのですよ。酔ってしまった時だって――」
「ちょっと? オディナくんっ?」

思わず、立ち上がってしまった。あの男の思う壺だと理解はしていても、プライベートを喋られるとなると話は別だ。
なんですか? と笑顔でこちらを見てくる彼に悪気なんて無いわけがない。有り有りの表情。無視を決め込むんだろう? という心の声が聞こえてきた気がする。

「仕事に戻りましょうね? 来週のプレゼン資料、まだ仮のままでしか見てないんだけど?」
「そうですね。すぐにプリントアウトしてお渡しします」

無理矢理にでも囲み取材を終わらせ、溜め息を吐きながら脱力したように椅子に座り直した。頭が、痛い。
隣に座る同僚に同情されたのは言うまでもない。これだから、社内の人間に言いたくはなかったんだ。職場に甘い雰囲気なんて私は求めていないのに。
貼り付けた笑顔のままホチキス止めした資料を持ってくる彼を、同じように睨みつける。上辺だけの笑顔が、愉しんでいる笑顔に変わったことを、私以外は気付かない。

「……最悪だわ」
「どうかしましたか?」
「全ては貴方のせいよ、ディルムッド・オディナくん」
「俺は気にしてませんが?」
「貴方個人ではなく、周りの人間に対する影響を考えて欲しいのだけれど」
「それこそ、気になどしないな」

一瞬だけ、私だけに見せる顔になる。
それはすぐに上辺の笑顔に戻り、彼は彼のデスクへと戻っていった。
知らせたくなかった関係を知られてしまった事により、私の悩みの種が増えるのと仕事に支障をきたしてしまうことは気にしないのか。
歩くディルの背中を見遣ったが、やっぱり、そういう所が嫌いだと思った。


(2019/09/26)