朝起きて、落ちてくる瞼を擦り状態を起こす。
鳴り止まないスマホのアラームは自分のものでは無いことに気付き、隣で爆睡する持ち主の頭目掛けて投げた。
片目が薄っすらと開き、寝ぼけ眼でなんだよと言ってくる寝坊助は素早くアラームを消したかと思えば、何事もなかったかのように私に抱きついてくる。
普段と違うその仕草に、少しだけ、ほんの少しだけ、可愛いと思ってしまった。いや、駄目だ、流されるな、私。

「今日、早朝から会議じゃなかったの」
「眠いから行かねぇ」
「いや行けよ。昇進遠退くぞ」
「……行く」

昇進という言葉に反応したのか、私の胸元に埋めていた頭を上げて、むくりと起き上がった男――高杉は、寝癖の付いている頭をポリポリと掻きながら上体を起こした。
社内で見せる鋭い眼光はどこへやら。寝起きの彼は猫そのものだ。普段の彼のイメージを併せるなら、さながらライオンといったとこだろう。実際の雄ライオンは狩などは全て群れの雌任せだが、高杉の場合は家事を全て私任せという形になる。うん、ライオンだな。
高杉のせいで起きてしまった私もゆっくりと起き上がり、いつもはバタバタとしている準備をゆっくりと始めることにした。
洗面所からは水道の水の音、そしてシャコシャコと歯磨きをする生活音が聞こえてくる。先にお小水を済ませ、コーヒーメーカーで朝の一杯の準備をすれば、髪の毛もセットされたいつも通りの鋭い眼光がリビングに現れた。
いつの間に着替えたのやら、ワイシャツにネクタイを結びながらスーツ姿の高杉は、慣れたように椅子へと座る。

「もうすぐ出来るから」
「ん」
「あと今日、私帰り遅いから」
「わかった」
「適当に外食でもしてて」

簡単な短い業務連絡を済ませ、コーヒーメーカーの音が鳴ったので、二つのマグカップにコーヒーを注ぎ、片方は何も入れずに高杉へ渡す。
ブラックコーヒーを飲みながら社用スマホで連絡の確認し、その状態で寝起きの一服を嗜む姿を見つつ、自分のマグカップへ砂糖とミルクを入れた。

「行ってくる」
「行ってらっしゃい」

簡素な会話だなぁと、いつもながらに思う。
これといって私と高杉の間に明確な関係があるわけでもなく、なし崩し的に同棲しだしたのだが、これが一般的に言う恋人や夫婦ならまた違った会話になっているのだろう。
ジャケットを羽織った高杉は仕事鞄を持って、そのまま何もなく玄関から出ていく音を見送った。
テレビを点けていつも日課で流し見している朝の情報番組では、タイミング良く今日の星座占いの第一回目が放映されている。しし座は最下位だった。
今日一日高杉が靴擦れで苦しみますように、と子供っぽい願いを投げかけ、出勤準備をする為に洗面所へ向かうことにする。
そしてこの願いが災いしてか、履き慣れたはずのパンプスで靴擦れになり、ヒール部分がポッキリと折れ、余裕を持って家を出たはずが勤務時間ギリギリに会社へ到着した私の星座は、第一位だった。

「今日は厄日じゃのう」
「占いでは一位だった。一位だったの。今日の私の運勢は良かったはずなの」
「そりゃブラック占いじゃったな」
「昼休みに靴買いに行くの付いてきてよ」
「嫌だね。わしはおんしよりも面倒を見なくてはいかん奴がおるきに」
「むっちゃん冷たい」
「どうとでも言え」

午後のプレゼンに向けて資料を作り続ける傍ら、隣で書類チェックをしている陸奥は今日も冷たかった。
同期入社で同じ部署で仲良くなったはずなのに、年月も経てば新人だった頃の可愛い彼女はどこへやら。いつの間にか私の上司として仕事をしている陸奥の横顔は、整っていて同姓ながらに綺麗だなぁと思ってしまう。
手が止まっていることを注意され、私はまたパソコン画面に表示されているPowerPointの図解をせっせと作り出すのだった。

「ここ、もうちとわかり易く出来んか」
「そうするとデザイン変えなきゃいけなくなるけど」
「そうか……となれば、この予算内訳と売上予定を――」

陸奥の率いるこのチームの役割は、営業が獲得してきた取引先への事業提案をプレゼンして正式に会社の仕事へと繋げるという、社内でも重要な役割を担っている。だからか、一切気を抜けない事もある為、資料のチェックも厳しい。
無事にチームリーダーである陸奥のチェックが通れば次は課長、そして部長のチェックが入り、やっと取引先へと持ち込めるというものなのだが、昼休みももうすぐという正午前のこの時間になっても資料チェックが済まないというのは、かなり切羽詰まっているという証拠だ。
この事業提案プレゼンを持ち込んできた営業自体が期間ギリギリで話をこちらに回してきて、社内案会議をノンストップで進めた今日になってやっとプレゼン資料制作が舞い込んできたというものだからか、時間の無駄となる差し替えが無いようにと迅速に且つ丁寧にわかり易く資料を作らなければならない。
高杉が早朝から会議をしていたのもこの資料の社内案をまとめる為だ。忘れていたという理由でこんな切羽詰まった状況に追い込んだ原因である営業の社員は、近々他部署に異動になる事が決まっているらしい。
取引先が大手の会社ということもあり、このプレゼン自体が成功しなければ今まで弊社が請け負っていた仕事も無くなってしまう可能性がある。そうなれば会社としては大損失。それは一番避けなければならない。
一心不乱にキーボードとマウスを動かし、資料を完成させていく。陸奥の修正を受けながら黙々と無心で作業を続ければ、昼休憩のアナウンスが社内放送で流れると同時にプリントアウト開始する事ができた。

「うえー、やっと終わったー」
「おまんは集中すれば効率よく仕上げてくれるきに。助かった」
「いやいや、隣でむっちゃんが指示してくれたからだよー。間に合ってよかったー」
「わしはこれを課長へ見せてくる。ついでに部長にもな。名前は昼を満喫しておくといい」
「ういー。14時にロビーだよね」
「そうじゃ。また後でな」

出来立てほやほやのプレゼン資料をホチキス止めした陸奥は、ヒール音を軽快に鳴らしながらデスクから離れていく。
去って行く戦友を眺め、長時間パソコン画面を見ていたことで疲れた両目を労うように、こめかみと瞼と眉毛の間を軽く押せば、痛みがやや勝る気持ち良さが目全体に駆け巡った。
とりあえず、午前中のノルマは達成できた。後は午後のプレゼンまで英気を養うこととする。椅子から立ち上がれば、膝と腰の骨が軽く音を立てた。もう歳だな。20代も半ばを過ぎれば体に不調が出やすくなる。
仕事用に履き替えていたクロックスからパンプスに履き替えようとして、ヒールが折れていたことに気付く。昼食よりも先にパンプスを買いに行かなければ。
ホワイトボードの自分の名前が書かれてある箇所に昼休憩とマジックで記入し、仕方なくクロックスのまま社外へ出ることにした。

「あ、」
「休みか」
「今からね」
「それ、どうしたんだ」

エレベーターで一階のロビーへ降りれば、今朝とは違い鋭く光る目をした高杉と会ってしまった。丁度、外回りから戻ってきたところらしい。
私の足元を指摘されたがお前のせいだとはっきり言えず、ヒールが折れたことを伝えれば阿呆だなと嘲笑されてしまう。
お疲れ様と軽く会釈して、そのままビルから外に出ようとすれば、そのまま行くのか、という呆れが含まれた声で止められる。近くの靴屋までは10分程度。それくらいの距離だったら別になんとも思わない性分なので、それが? と聞き返した。
高杉はその返答に不満なようで、浅い溜め息を吐く。

「ちょっと待ってろ」

そう言い残し、私はロビーに待ちぼうけ。高杉が何を考えているのかなんて、入社して知り合いたての頃も、一緒に住みだしてからも、全く理解が出来ない私にとって、待たせるなら待たせる理由を言ってほしいものだ。
ロビーにある簡易ソファに腰掛け、待つこと数分。高杉がもう一度現れた時には、社外へ昼食を食べに行く社員でごった返していた。

「行くぞ」
「どこに」
「靴、買うんだろ」
「一人で行けますけど?」
「黙って付いて来い」

こういう所が本当に嫌いだ。会社ビル前のロータリーに停められた車は間違いなくこの男の所持する車で、普段はマンションの駐車場に停められているものだった。
後部座席に乗り込み、運転席に乗り込んだ高杉の運転で車は発進していく。連れて行ってくれるなら連れて行ってくれるとはっきり言えないのか、この男は。
無言の数分。歩くよりも早く靴屋の前に停められた車は、ハザードランプを焚いて私が買ってくるまで待ってくれるらしい。

「早く戻ってこいよ。昼休憩が終わっちまうからな」
「はいはい。ありがとうございますー」

嫌味言には嫌味を含んだ返事をし、クロックスのまま店内に入れば軽快なクラシックの音楽が流れていた。
オフィス物と展示されている靴の中から、普段履いているパンプスとデザインが然程変わらないものを選び、一度履いてみる。うん、大丈夫そうだ。
靴擦れした部分には絆創膏を貼ってあるし、新しい靴擦れは出来ないだろう。
再度クロックスを履いて、パンプスをレジへと持って行く。現金が面倒なのでカード払い。これくらいの金額なら一括払いで口座から落ちても財布に響くことはない。
履いて出ることを伝え、クロックスを入れる袋を貰い、店内で履き替えた。
店員の礼を背中に受けて店を出れば、ガードパイプに寄り掛かり路上喫煙中の高杉の姿。この通りは確かに路上喫煙を禁止されていないが、来年同じ事をしてしょっ引かれればいい。――駄目だ、今日高杉に対してこういうのを思えば自分に返ってくる。気をつけよう。

「お待たせ」
「あぁ」
「貴重な昼休みを使わせてしまってすみませんね」
「気にすんな。飯でチャラにしてやる」
「誰が奢るか」

高杉が勝手にしたことでしょ、と追加するのも忘れなかった。くつくつと笑うだけの彼の心意はわからない。
そういえば、一緒に住みだした時もそうだった。本当に、どうしてこんな奴と一緒に住んでいるのか。
会社の忘年会が終わって酔い潰れた私を高杉が介抱してくれて、彼の家で一夜を共にし、なぁなぁに日々を過ごして気が付けば一緒に住む? みたいな事になっていた。
同年代だしお互いいい歳した大人なのだから、一夜の体の関係は、まぁ、許容範囲内だろう。その後の関係に銘打てないまま、仕事仲間兼セフレのような間柄が続いていた。そこも、大人なのだからお互いの許容範囲なら良いとは思う。
しかし、同棲まで始めたのだから、私達は恋人という関係なのだろうか。……なんて疑問を発言しまったら、この関係に終わりを告げるような気がして私は言えないでいる。多分、高杉も一緒かもしれない。
かと言って、好きだの何だのと何も言わない時点で、私達はそのままの意味の関係なのだろう。
来た時と同じように後部座席へと乗り込めば、また無言の時間が過ぎていく。別に嫌いではない。
社用携帯で陸奥からのチェックが済んだ連絡を受け、小さくガッツポーズ。会社の運命は、午後の取引先で行われるプレゼン次第となった。

「飯、何食うんだ」
「適当にコンビニで買って済ませるつもりだった」
「色気が無ェな」
「うるさい。この歳にもなって色気も何も無いし」
「洒落た店で飯食う社員とはえれェ違いだ」
「若い子達でしょ。普段の仕事考えたらそんな暇無いっつーの」
「そうだな」

そう言って車が停まったのは、小洒落たレストランだった。おい、コンビニで買うって言ったよな私。
今し方パンプスという名の靴を買ったばかりなんだが、お前女性用の靴の値段知ってる? こんな所奢れないよ? 営業みたいにインセンティブの入らない仕事してるんだよ?

「午後からが本番だ。たまにはこういった店で飯食わねェと女が廃るぞ」
「こういう所って料理出るまで時間かかるでしょ。昼休み、あと30分も無いんだけど」
「気にすんな」
「気にするって」

そう言いながらも無理矢理店内へと入れられた。ランチタイムで賑わう店内は、スーツを着た男性や着飾った女性が居たりと騒がしい。
こういった騒がしさは苦手だ。居酒屋の騒がしさは好きなのだけれど。
席に案内されてメニューを開く。ランチメニューであるパスタセットを頼み、対面の椅子に腰掛ける高杉も適当に注文を済ませたようで、また私達の間に無言の時間が流れ始めた。
置かれた水に口を付け、口内に水分を満たす。テーブルに置いた社用携帯が震え、自分のかと思ったが、震えたのは高杉の携帯だった。

「悪ィ。出てくる」
「ごゆっくりー」

何か急用の電話のようだ。気にせず送り出せば、高杉はそのまま店外へ。残された私はと言うと、何もすることが無いのでボーッと周りを見つめ、人間観察に徹することにする。と言っても、この辺りで働いているであろう人間ばかりで、特に面白いことは無い。強いて言うなら、各々が仕事から離れたこの時間を楽しんでいるくらい。
そうだよね、仕事って辛いよね。なんて、今の仕事が好きな私からすれば辛さよりも楽しさがあるのだが、その部分が人とズレていると自分でも思う。同期の何人かからも幾度となく指摘されているので、多少なりとも理解はしているつもりだ。
SNS上に載せるのか、料理の写真を撮る女性。料理が運ばれてくるまでの空き時間をスマホゲームに費やす男性。女子会なのか、綺麗に着飾ってカーストを気にしている女性達。黙々と運ばれてきた料理を食べる男性達。
人間ってどうしてこんなにも分かりやすいのだろう。そして同じ人間なのに分かりにくい高杉は、もしかしたら人間でないのかもしれない。なんて、馬鹿な考えは止めておこう。
高杉は戻って来ないが、運ばれてきた熱いナポリタンを口に運ぶ。案外美味しかった。
目の前の空席に置かれるハンバーグステーキに目を奪われながらも完食すれば、やっと高杉が戻ってきた。もう少し遅ければ私が食べてやろうと考えていたのに、残念だ。

「もう冷めちゃってるよ」
「その方が掻き込めるだろ」
「もっと味わいなよ」
「急用が入った」

急用、と称する辺り、私の関係する仕事ではないようだ。ご愁傷様です、と厭味ったらしく言ってみた。うるせぇ、と一蹴される。
掻き込むと言ってもテーブルマナーを守りながら食べる仕草は、高杉の育ちの良さを表しているのかもしれない。そういうところは好きだな。
会社の食堂で丼に盛られた白米を、言葉のまま掻き込む坂田とはすごい違いだ。

「行くぞ」

たった数分の完食劇を見ていると、やっぱり高杉は男性なのだと再確認した。そして、普段はもっと丁寧に食事をしている事も再確認。
伝票を持った高杉を追うように席を立てば、奢ってくれるらしい。ミニバッグから財布を出そうとすれば静止された。

「次も食事に行く約束、取り付ける気じゃあないよね」
「阿呆。ンな面倒なことするかよ」
「ですよねー」

奢ってくれたことは確かなので、きちんと礼は言う。急ぎ足でレストランの駐車場へと向かい、車に乗り込んですぐに発進する車内は、やっぱり無言だった。
出た時と同じように会社ビル前のロータリーで私は降車し、高杉はそのまま地下駐車場へと車を進ませていった。
昼休憩が後数分で終わるという時間もあってか、ロビーはエレベーターを待つ社員でごった返している。ぎゅうぎゅう詰めのエレベーターに乗り込んで、自分の部署がある階で降り――る事が出来なかった。
乗り込んだ社員が営業部所属が多いのか、そのまま階が上がって営業部の階層へ。社員達に押されながらとりあえずエレベーターを降り、階段で下層へ降りることを決めた。登りはともかく、降りならエレベーターを待つよりも階段のほうが早い。
そんなに階層が離れているわけでもないので、買ったばかりのパンプスの履き心地を確かめながら降りていけば、足首に激痛が走る。
ストッキング越しに絆創膏が剥がれ、新しい靴擦れが起きていたのだ。陸奥の言う通り、私が見たのはブラック占いだったのかもしれない。
伝線はしていないものの血が滲んだストッキングで取引先に行くのは忍びない。デスクに替えのストッキングはあったはず。後で履き替えることにしよう。




営業である高杉の説明、陸奥のプレゼン内容、そして資料の見やすさわかりやすさが評価され、無事に仕事を勝ち取ることが出来た。これまでの仕事も変わらず請け負えることとなり、プレゼンに参加した身としては一安心。取引会社から外に出るなり、盛大に深呼吸。娑婆のお空気はとても美味でございます。
資料の良さを褒められたこともあって、これ以上に嬉しいことはない。あとは自社で今後の詳細なスケジュールを他部署と話し合いながら作成し、私の仕事は終わる。背伸びをすれば、背骨が鳴った。本当に、もう、歳だと痛感。
本日二回目である高杉の車に乗り込み、陸奥と今後の予定を話し合う。昼間は静かだった高杉だが、仕事となれば別だ。会議の日程調整など運転しながら会話に入ってくるのは、なかなか器用なんだなと思った。
会社に到着し、高杉とは別れて陸奥と共にビルへと足を進める。まだ終業時刻では無い為、ロビーは閑散としていた。

「そういえば、おんしらあれからどうなんじゃ」
「ん? 何が?」
「高杉とはどうなって、」
「見たまんまの関係ですが?」
「なるほど。進展はしておらんようだな」
「進展……? なんか、進展ってある……?」
「好いて一緒に住んどるんじゃろが」
「――好き、か……どうなんだろうね」

二人しか居ないエレベーターで、二人でしか出来ない会話。部署のある階層に着くまでの時間だが、私の返答に陸奥は溜め息しか出ないようで頭を抱えている。
あのな、と高杉とは違う鋭い眼光が私を射抜く。その眼光は私の心の内を見透かしているみたいで、思わず視線を逸してしまった。

「そうやって現実からも目を逸らすんか」
「違うよー。んー、好きかどうかわかんないんだよ。というか、高杉から好きだなんて聞いてないし、私も言ってないし。そんなタイミングも無いし。気が付いたら一緒に住んでるだけだし」
「しーしーうるさいのう。シャキッとせんかい」
「えー……」
「その状態なのがわしは一番モヤモヤするぜよ」
「そんな事言われましても」

エレベーターのドアがゆっくりと開く。先に降りていく陸奥の背中を追って降りれば、嫌な無言が続いた。
後で覚えとけよ、と言う陸奥の声色が怖く、忘れてしまったなんてボケは通じないと痛感してしまう。これはこの後の飲み会をどう乗り越えれば良いかを考えなければ。
デスクに戻ってパソコン画面を眺めて他の仕事へと移ろうにも、その事が思考を遮り集中できない。隣に座るはずの陸奥は部長へプレゼンの報告に行って席を外しているし、誰かに相談しようにも相談できるような内容ではないし一人で頭を抱えるしか他に方法はない。
どうしたものかと考えていればいつの間にか終業時刻となり、チームの飲み会待ち合わせ時間が刻々と迫ってきていた。仕事となれば頭は回るはずなのに、プライベートになると思考を放棄してしまう脳みそに嫌気が差してしまう。
別に、高杉のことは嫌いでもない。嫌いじゃなかったら体を許すわけない。だが、好きかどうかと、好意を抱いているかどうかと問われればなんとも断言出来ないのだ。多分、高杉もそんな感じだろう。気の抜けない相手だったら一緒に住んだりもしない……はずだ。私の知っている高杉晋助という男はそういう奴である。
という事は、今この状況、今この沼に浸かりきっているのは私だけではなく高杉もではないか。であれば、私だけ悩んでいるのもおかしくない? あいつもあいつで悩めば良くない? 私だけ陸奥に責められるのおかしくない?
――と、胸の内を打ち明けたのだが、焼酎の水割りを水のように飲む陸奥には意味が無かった。

「阿呆か。相手からの言葉を待ってどうする」
「そこは、ほら、まだ乙女で居たいのですよ」
「乙女で居たいなら簡単に股を開くもんじゃなか」
「うるさいやい。酔った勢いだったんだい。それが、こう、ずるずるしちゃってるんじゃい」
「おまんがそういう態度だからこそ、奴も煮え切らんのじゃ」

本日二回目のシャキッとせんかい、だった。
だし巻き玉子をつまみながら、残り少なかったビールを飲み干す。私だって考えてますよ、多分。ぶつくさ言いつつ枝豆を黙々食べる事に専念しよう。
アルコールの飲み過ぎは前科があるので、気を付けなければ。
陸奥のハイペースについていっていた何人かの社員は自力で帰れる者は全員帰り、残るは私と潰した本人と潰されて座敷に転がる数人のみ。飲み会開始前に気をつけてと注意を促していたのだが、私の作戦は失敗に終わっていた。

「帰らんで良いのか?」
「今日遅くなるって言ってる。勝手にご飯食べててって」
「はぁ。難儀な関係じゃの」
「恋人じゃないのにね」

ビールに枝豆は凄く合う。あと、アルコールを分解する手伝いをしてくれる、らしい。詳しくは知らない。
追加のビールと枝豆のお代わりを頼めば、喋らんかったら美人なのにな、と陸奥が悪態づいて言ってきた。

「何の話」
「名前の話以外無かろう」
「喋っても美人ですー」
「ビールを何杯も飲む女がか?」
「これくらい飲めないと、うちのチームリーダーとは渡り合えないので」
「よく回る口じゃ」
「褒め言葉として受け取っとくね」

店員がビールが並々注がれたジョッキと枝豆を持って来てくれたのでそれを受け取り、再度陸奥と乾杯した。
今日のプレゼンお疲れ様です、と開始時に言った言葉をまた言えば、次までに資料の一発チェックを頼まれたので丁重にお断りしておく。

「しかしなぁ、」
「なに?」
「まさか高杉の奴と関係持つとはな。世も末じゃ」
「高杉ってそんなに駄目なの?」
「坂田と仲良うなるとばかり」
「えー、坂田は無いよ」
「じゃあ桂か?」
「それも無いし、坂本も無いからね。というか、高杉と関係持つの、私も考えてなかったから」
「それがなぁ、こうなるとはなぁ」

感慨深く喋る陸奥の顔はほんのり赤く色付いてきていた。そろそろ解散になるかもしれない。
チェイサーとして、お冷やを倒れている人数と陸奥の分を頼み、だんだんと近所のおばさんらしくなってきた陸奥に帰る事を提案する。
残りのビールを飲み干してから後輩達を起こせば、少しだけ寝た事によって少しアルコールの抜けた三人を除き、一人はまだ夢の中だった。
このまま寝ゲロされてしまえばお店にも迷惑がかかる。
陸奥に関しては私がなんとかするので、と三人に起きない一人を任し、気をつけて帰るようにと見送った。

「なんじゃ、若いのに根性の無い奴らぜよ」
「陸奥のペースにアテられたんでしょ。ほら、帰るよ。支払いは会社カードで良いんだよね」
「頼む」
「わかった。お水飲んで、帰る用意しておいて」

一応自制心は保っている陸奥を座敷に置き去りにし、自分の荷物を持って会計をする為にレジへと向かった。
チームの予算で飲み会代が賄えるので、会社関係の飲み会はお財布に優しい。プライベートの飲み会よりも飲めるし、食べれる。だからこそ若い子程潰れやすいんだろうなぁと他人事のように思った。
会計を済ませば、少しだけフラついている陸奥がやって来たので、女子二人で店外へと出ると、見慣れた人影が複数人。
この近くで飲んでいたらしい、先程名前が上がった四人が歩いていた。

「おー。お前らも飲み会?」
「チームのプレゼン祝勝会って感じだけどね」
「お前達だけか。寂しいな」
「アハハハ。陸奥ぅ、いつもみたいに他を潰したんじゃろ? ほら、怒らんから言うてみ?」
「早う黙らんとその頭ぶん回して道路に投げ入れるぞ、このもじゃ頭」

同期入社の六人が揃えば、なんだか入社時を思い出してしまって懐かしくなる。いかんいかん、昔を懐かしむなんて本当に歳をとっているみたいになってしまう。気を付けなければ。

「皆は今帰り?」
「まだ終電には間に合っからな。このままオールでも俺的には良いんだけどよ、てっぺん近くなると眠くなってくんだわ」
「わかるー。オールでカラオケとかもうしんどいよね」
「徹マンならするがな」
「桂、おまん麻雀出来るんか?」
「朝まで徹子のマントヒヒ講座の略だが?」
「そんな講座誰が見るんだよ。おめーくらいだろ」

高杉と坂田を除いて、二人は完全に出来上がっているようだ。早く帰れ酔いどれ共。と思ったが、私も酔いどれの内の一人か。
終電がまだある内に全員で駅に向かっていれば、背後から視線を感じて思わず振り返る。立ち止まった高杉が、私を、見ていた。
まさか、こいつも酔っているのかと声を掛けようか悩んでしまう。駅はもうすぐそこ。改札も見えて来ているのに、やっぱりこの男の考える事は理解が出来ない。

「高杉……? ちょ、うわっ」
「もっと女らしい声出せねェのか」
「私に女を望むなんて、本当に酔ってる?」
「ほざけ」

背後から肩に頭を置かれ、少し熱い温度がスーツ越しに伝わってくる。
私達が離れた事に気にもとめず、前の集団はどんどんと先へ先へと歩いて行き、終電前の人混みで見えなくなった。
いつまでこの状態なんだ。伝わる温度と共に少しだけ体重をかけられて、膝が震えてきそう。

「お前さ、」
「……なに」
「足首痛ェんじゃねーの?」
「靴擦れの事? ちょっと酔ってるからね。あんまり気にしてなかった。というか、なんで高杉が知ってんの」
「プレゼンの時、歩き方がおかしかった」
「よく見てるのね」
「お前だからな」
「なにそれ。お転婆じゃじゃ馬女でごめんなさいね」

私の返しが面白かったのか、くつくつ笑いながら震える肩に乗せられた頭からは表情を読み取る事は出来ない。
一頻り笑い終えた高杉は私から離れ、駅ではない方向へと歩いて行く。手を引っ張られたので反転してしまった私の体も、彼について行くしかなくなった。
こうやって、何も言わなくても分かるだろ、と主張するような行動は嫌いだ。特に高杉は余計な言葉を言わない。無口ではないのだけれど、基本的に単語で話しているイメージ。だからこそ、主語述語が抜けた発言から意図を読み取るのは難しい。
どこに行くのかと問えば、帰る、の一言しか帰って来ない。駅から離れるという事は、とこちらが考えなければいけないのだが、大体理解してしまえるのは私も酔っているからなのだろうか。
着いた先のタクシー乗り場では、まだ電車が動いているからか人は並んでおらず、すぐに乗車出来た。
マンションの場所を運転手に伝え、緩やかに発進したタクシーの後部座席では会話は無い。知ってた。高杉が自分から話さない事くらい、知ってた。
無言のままタクシーはマンション付近に到着し、支払おうとしたら高杉に先を越され、タクシーから降車する。また支払われてしまった事に、自分の不甲斐なさを感じてしまった。
オートロックの鍵を開けて、何も話さないのは変わらずにエレベーターホールへ。
歩きながらホールの壁に掛けられている時計を見遣れば、時刻はてっぺんを回って数分経っているようだった。
エレベーターが降下する音が静寂を誤魔化してくれているが、気まづい事この上ない。高杉との無言の時間を今まで気にした事が無かったのに、今更気にしてしまうのは、きっと、陸奥のせいだ。今日一日中、陸奥が変なことを言ってきたからだ。私のせいではない。責任転嫁してやろう。
エレベーターのドアが開き、二人で乗り込む。一緒に住む部屋の階まで十数秒。何か会話を、と口を開いたり閉じたり。その様子がドアガラス越しに見えていたようで、変な顔、と言われてしまった。
――なんだろう、この緊張感は。銘打つ事が出来ないこの関係に、私が口を出してしまってもいいのだろうか。何かを言ってしまえばすぐに壊れそうな関係のまま、もう暫く甘えた方が良いのではないか。
混乱する。アルコールが体内で巡っていた事もあって、思考がなかなか定まらない。普段から働かない脳みそが、普段よりも自身の仕事を放棄している。
為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人の儚さ。――余計なモノが出てきた。そうじゃないんだよ。弱いなんて理解しているんだよ。だってこの関係を、まだ、壊す覚悟なんて出来ていないのだから。

「おい」
「……うあ!?」
「着いたぞ。何してんだ」

いつの間にか階に到着していたようだ。開くボタンを押しっぱなしの高杉が、怪訝そうに私を見ていた。
ごめん、と謝りエレベーターから降りる。そのまま部屋へと向かいたいのに、足が進まなくなった。
どうした、と体調を気遣ってくれるのは、関係を持った最初の日を思い出させる。あの時だけは、確かに、私は高杉へ好意を寄せた。だから、身体を預けた。それは、間違いではない。

「ね、ねぇ、高杉」
「なんだ。入んねぇのか?」
「いや、入るよ。入るけど。そうじゃなくて、その、……い、いつまで、この関係、続けるの……?」

言った。言ってしまった。
ガラガラと崩れ落ちていくのが分かる。どちらかがこの関係に銘打つ事を望めば、この関係は潔く終わりを迎える。それを理解していたのに聞いてしまった私は、相当飲み過ぎてしまったらしい。

「飲み過ぎちゃったかな。ごめん、今の忘れ――っ、い゙った」

忘れてと言いたかった。ズブズブと沼に落ちていく方が良かったと判断したかった。今ならまだ間に合うと思った。
なのに、高杉は私の腕を引き、玄関の先へと放り込んだかと思えば、私は廊下に尻もちをつく。
買ったばかりのパンプスが足から脱げて転がったのが視線の端に見えた。
がチャリ。と締まったのは玄関の鍵の音。ドクンドクンと波打つのは私の心臓の音。じゃあ、仁王立ちする高杉からは、何の音が流れているのだろうか。

「おめーは一端の大馬鹿野郎だな」
「ちょっと、それ、どういう意味よ」

高杉の顔が近付いてくる。このまま流されてしまうと考え、両手で高杉の口を塞いだ。が、指から伝わるにゅるりとした感覚に身じろいでしまい、力が抜けた手首を掴まれた私の抵抗は何の意味も無くなってしまう。
手首を掴んだまま、私の指を舐める仕草に妖艶且つ扇情的で、ゾクリとした感覚が背中を駆け巡った。水音がやけにリアルで、体の熱が上がっていくのが分かる。
強ばっていた身体の力が抜け、床に組み敷かれた私は何も出来ない。先程の、高杉の舌の感覚がまだ指を這っている気がし、快楽というものが物体化されて襲って来ているような錯覚。

「お前、なんつった」
「飲み過ぎちゃったなぁって……」
「その前だ。いつまで続くのかって、聞いてきたよな?」
「えっと、はい、そうで――ひっ、」

指ではなく、今度は首筋に這わされた舌。それは上へ上がり続け、耳元で止まった。刹那、高杉の熱の篭った吐息と共に聴こえる、低く、心臓を抉るような声。

「この関係、なんだと思ってんだ? なぁ、教えてくれよ、苗字さん」
「ひ、あ……だめ、耳は、だめっ、てば……!」
「御教示、願えますかね」
「っ、――だって、ァ、これ、ただの、ッ! セ、フレ……で、しょ!」
「あぁ?」

一層、声が低くなった。耳からダイレクトに聴こえてきたその音に、下腹部が疼いてしまう。
駄目だ、絆されるな。意識を保て。
呼吸が荒くなっているのが自分でも分かって、そして、目の前の私を組み敷く男に自分が欲情してしまっているのも理解出来て、脳の処理が追い付かない。
このまま、やっぱり流されてしまうのか。もう思考することを放棄しようとする。
が、高杉は私の耳元から顔を離し、組み敷いたままなのは変わらず、上体を起こしていた。

「た、かすぎ……?」
「……お前はガキか?」
「――は、?」
「なんも想っていない、むしろ身体しか必要無い女と住む男が、何処に居るんだよ」
「え? いや、目の前に……」
「違うわ阿呆」

じゃあなんで、と口走る前に、その回答の意図を理解してしまって、更に熱が上がる。
熱い、と疑問ではなく状態の感想を述べ、口角を上げて嗤う高杉の顔が近付いてきて、唇同士が引き寄せ合うかのように重なった。

「……知らなかった」
「あ?」
「高杉が、私を好きだなんて」
「何を今更」
「そんな素振り、見た事ない」
「俺ァ好いた女以外抱かねェ」
「節操無しだと思ってた」
「どっかのもじゃもじゃ頭と一緒にすんじゃねぇよ」
「坂田ってそうなんだ」
「……知らねぇ」

他人の秘密を言ってしまった、子供のようなバツの悪い表情は、案外好きだと思ってしまった。
なんだ、私、高杉の好きなところって結構あるじゃないか。嫌いなところも、それなりにあるけれど。

「ねぇ、背中、痛いんだけど」

フローリングに接したままの背中は、自分の体温も相まって生温い。
何を考えたのか、私を横抱きして運ぶ高杉の思考は変わらず理解出来ないまま。
寝室に移動してシーツの冷たい感覚が背面を包み込む。酔いに任せて、否、好意の大きいさを確かめ合うように、私達は肌を重ね合った。


(2019/10/04)