Zet at zeT









朝起きたら頭が割れるように痛かった。ソファーで寝ていたらしく、少し喉の居心地も悪い。充電をせずに放置をしていた携帯電話は、アラームを鳴らしてもう起きる時間であることを知らせていた。
テーブルの上にある寝転がったワインの瓶と中身の入っていないワイングラスは、私が孤独である事を示唆しているようだった。

「……シャワー浴びよう」

アルコール臭の残る体で仕事に行くことは出来ない。取り急ぎシャワーを浴びて、出勤準備を整えることにした。
また、憂鬱な平日が始まる。

滅多につけないフレグランスをつければ、少しは臭いが緩和される事を祈るばかりだ。濡れた髪をドライヤーで乾かす。憂鬱な気分は晴れない。
身支度を整えれば、ちょうど家を出る時間だった。
テーブルの上に散乱した昨日の残り物は、また帰宅してから片付ける事にして家を出た。



「うっわ、先輩臭い!」
「あー……昨日一人でワイン飲み干しちゃってね。二日酔いなの」
「香水か何かで臭い誤魔化してます?」
「一応は」
「私のコロン使って下さい。そんなにきつくない匂いですけど、周りに匂い振り撒くれますよ」
「…有り難く使わせてもらいます」

私の入社した一年後に入社した後輩に、やはりと言うか何と言うか、アルコール臭を更衣室で指摘された。歳も一つしか違わないので、良くも悪くも仲の良い存在だ。
借りたコロンを首筋やら手首やらにつける。鼻につかない良い香りがした。

「先輩が一人で飲むなんて珍しいですね」
「そう? 普通だと思うけど」
「いや、珍しいです。…何かありました?」
「……何も無かったと言えば嘘になるのかな」

隠しても仕方ないのであやふやな答え方をすれば、フラれたんですね、と何やら確信めいた言い方をする後輩ちゃんにははは、と乾いた笑いを返した。
自分のデスクに向かえば、今日中に終わらさないといけない書類が大量に積まれていた。今日もこの量を終わらさないと帰れないようだ。書類を回してきた課長を睨みながらも席に座る。パソコンの電源を入れれば、先週の金曜日に出勤した時と変わらないデスクトップの画面が表示された。
専用のソフトを立ち上げて記入作業を済ましていく。タイピングは会社勤めが長いから慣れたものだ。右から左へ流すように作業をしていく。5年も経てば色々と後輩から頼りにされると言うもので、時折書類やら資料のチェックを頼まれたりもするが、急ぎではない限り自分の仕事を優先する。そうでもしないと終電ぎりぎりになるか、最悪終電を逃してタクシーで帰宅するという手痛い出費を喰らう事となるのだ。それは本当に避けたい。
一度集中をすれば周りが見えなくなるのは私の癖だと言った方が良いのかもしれない。頑張り過ぎだとデスクの端にメモ付きでチョコレートの包み紙が置かれているのに気付いたのは、昼休みが始まる数分前だった。
字を見ればすぐに同僚が置いて行ったものだと分かったので、社内メールでお礼と頼まれていた業務の資料を添付して送り付けておいた。それが終わると同時に、午前の業務が終わった事を告げるチャイムがフロア内に響き渡った。

「名前ー、久しぶりに外に行こうよ」
「んー、良いよ。最近は社員食堂ばっかりだったし」
「何食べたい? 仕事に追われるOLにはやっぱりフレンチでしょ」
「新しく出来たレストランでしょ? 行ってみたかったんだよね」
「目敏いなぁ、名前ちゃんも。じゃあ久しぶりに皆でそこに行こうよ!」

私の居る海外事業部の総務、経理課に居る同期入社は二人だけしか居ない。後輩も朝に声を掛けてきた子ともう一人だけという少なさで、他の部にある総務、経理課よりも極端に人数が少ない。
海外事業部とは主に海外貿易がほとんどの業務内容なので、自国の会社等と取引するのととは勝手が違うために、どんな些細なミスをも許されない事から少人数制にされているようだ。
また、新入社員をそんな大事な課にすぐ配属させるわけでもない。社内の各々違う部、課に居た社員の出来高で社長自身が配属を決めているのだそうだ。かく言う私も、入社当初は秘書室に属しており、社長とも面識があれば重役のスケジュールや書類処理など行っていた。それがある日、いきなり秘書室の室長に呼ばれて、気が付けば海外事業部の総務、経理課に転属となっていた。

  苗字さん、ちょっと良いかな?」

そう、こんな風に昼休みに呼び出され  て、え?
同僚と私の足が止まり呼び止めた課長に視線を移す。いつもの威厳のある態度とは打って変わって、少し何かに怯えているような、そんな雰囲気だ。
先に行ってるから何かあったら連絡して。と同僚達はフロアを出て行く。嫌な予感しかしないが、取り出した財布を鍵付き引き出しに戻し、鍵を掛けた。そしてそのまま課長の元へ向かえば、はぁ、と一度溜め息を吐かれた。

「……社長がね、今すぐ来てほしいんだそうだよ。社長室に」

嫌な予感はビンゴだった。社長がお呼びならば行かなくてはいけない。手早く同僚達に行けなくなった旨を携帯でメールを送信し、課長にどういう理由で呼び出されているのかを聞けば返答は知らないだった。

「とにかくすぐに来てほしいそうだ。ほら、さっさと行った行った」

半ば追い出されるような形でフロアから出てエレベーターへと向かう。昼食を食べるために下へ降りる社員が多い中、空腹を堪えながら社長室のある上の階へと向かった。
会社の自社ビルは、社長が自ら考案した間取りになっているらしい。一階には広いエントランスホールに綺麗な受付嬢。そして警備員室が奥まった場所にある。ちなみに床は天然物の大理石だそうだ。
二階以降に各部署があり、ほぼ、丸々一階分の広さが部の統括するフロアとなっている。各部署内には営業課であったり総務、経理課であったりと様々な課があるのだが、部署が違う為に課目は代表的なものしか分からないのがこの大手企業ATBコーポレーションの実態だ。
流行りのITやら衣類ブランド。はたまたスポーツブランドまで立ち上げたりと、幅広い業界に手を出し、全てにおいて成功をしているのでただの数打ちゃ当たる作戦ではないらしい。
15階建てのビルの14階に社長室と以前所属していた秘書室がある。15階には重役しか出ない会議に使用される会議室を筆頭に、簡単な会議や少人数で行う為に使用される小会議室から100人以上は入れるだろう大会議室まで、会議室が密集している。
ちなみに壁は完全な防音対策をしているようだが、悪用されない為にも会議室を報告無しに借りれるのは課長以上の人間で、普通の社員等が借りる際は部長にどのような理由で借りるかの書類を提出し、受諾してもらわなければいけない。部長がその書類を受諾すればパソコンで会議室の予約を取ってくれるのだ。すぐに使用したい際も、課長以上のパソコンには会議室の使用状況が分かるようになっているので、用途に応じたものを借りる事が出来る。
このシステムも知った入社したての頃に、さながらラブホテルみたいだと言っていたどこかの部署の営業課の社員は今、何をしているのだろうか。
チン、とエレベーターが目的階に着いた事を教えてくれる。社長室へ行くには秘書室に一言声を掛けなければいけない仕組みになっている為、秘書室の禁断の扉と言われている扉を軽くノックした。秘書室は他の部署のあるフロアとは違い、廊下から室内が見えないようになっている。それなりに重要な役割を担っているのだから、当たり前なのだが。
ノックしてから数秒程遅れて、中からくぐもった返事が聞こえてきた。

「社長に呼ばれました、海外事業部、総務、経理課の苗字です。只今社長は社長室にいらっしゃいますか?」

扉越しに伺いを立てれば、ガチャ、と扉がすぐに会いた。
出て来たのは、私が秘書室から転属になって以来、なかなか交流のとれていない元同僚だった。口元には秘書と表現するにはだらしなく、米粒がついている。

「久しぶりじゃん。どういう風の吹き回し?」
「わかんない。前みたいにいきなり社長室に来るように呼ばれたから」
「そっかー。苗字が戻って来たら良かったのに」
「なんで? そんなに私が恋しいの?」
「今のとこに転属になって3年でしょ? こんなに長い片思いは初めてだっつーの」
「ありがと。で、社長は居る?」
「居るも何も来客中なのにアンタを呼んだんでしょ? 早く行ってきなよ。また予定が合ったら久しぶりにお茶しよ。話したいこと沢山あるし」
「了解。ありがと。またメールする」

このまま長話になりそうだったので、早々に話を切り上げて社長室へと繋がる扉の前に立った。一回、深呼吸。昨日とはまた違う緊張感が扉から漂っている気がした。
ノックをする。そしてすぐに声を出して室内に入る許可を請えば、やけにあっさりと入れ、の三文字を貰えた。

「失礼します」
「……どうだ、海外事業部ではうまくやってるのか? アーン?」
「はい。お蔭様で、充実した毎日を送らせていただいております」
「そうか」

私と同年齢のふかふかの椅子に座って踏ん反り返っている男性こそ、一代でATBコーポレーションを大きく成長させた若手の敏腕社長、跡部景吾その人だ。なんでも、親もどこぞの会社の社長らしいのだが、親の仕事を継ぐよりも自分で会社を起こす方が良いと践んだらしい。頭の良い人の考える事はよくわからない。
社長のデスクの手前に来客をもてなす、これまたふかふかのソファーや椅子に高級感漂うテーブルが置いてあるのだが、来客中に訪問したともあって、ソファーには一人、スーツを着た一言で言ってしまえばイケメンが座っていた。そのイケメンは何も言わずに私をじっと見て、言葉を紡ぐ。
久しぶりやん  と。

「……失礼ではありますが、どちら様でしょうか?」
「俺やん、俺! 小学校ずっと、同じクラスの幼なじみ! 覚えてないんかっ?」

ずんずんと詰め寄って来るイケメンから後退りしながら思考を巡らす。
関西弁を喋っている事から、自分が小学校の途中まで関西に居た時代に遡ってはみたが、詐欺紛いの自己紹介なんてする幼なじみなんて居ただろうか。

「あぁもうほら! 白石や! 白石蔵ノ介! 思い出したかっ?」
「白石……く、くーちゃん!?」
「そう! くーちゃん! やっと思い出してくれたか、良かったわー」
「わ、わかったから離してってば…! 社長も見てるから…!」

蔵ノ介なんて今時の珍しい名前なんて詐欺で名乗るものではない。私が小学校の五年だっただろうか。家庭の事情で東京に引っ越す事になったのだが、それまで仲良くしてくれた近所の可愛い幼なじみは、驚くほどイケメンに成長していた。年齢は私と同じなのに感じさせない風貌をしている。それは、彼の行動を窘める社長にもあるのだが。

「感動の再会は終わったな。ここからが本題だ」

その声に、私から離れたくーちゃんは元々座っていた来客用ソファーに座り直し、私はというと上司の前なので姿勢を正して話を聞くことにした。

「苗字、お前にはこれから白石のパートナーになってもらう」

説明をぶっ飛ばした社長のいきなりの言葉に、絶対的な上司なのにも関わらず、は? と聞き返してしまった。


(2012/02/19)