Zet at zeT








先輩は、三日前、俺の目の前で事故に遭った。車に轢かれ、到着した救急車で病院に運ばれる道中で意識を失った。もう目を覚まさないと思ってしまった。だから、さっき先輩が目を覚ました瞬間の安堵と嬉しさは一生涯かかってもわからないものだろうと思った。

俺は今、目覚めた先輩の検査をした担当医からその結果を聞くために診察室へと来ていた。先輩は今頃自分の病室に戻っているんだろう。早く先輩に結果を教えて安心させたいと思った半面、なぜか押し寄せる不安が俺の中にあった。
先輩の脳を撮影した写真を何度も見る担当医の表情は相変わらず険しかった。

「…苗字さんのご親族は?」
「いま海外に行っとるみたいで、一人暮らししてるそうです。連絡は、俺の方からしました」
「そうですか。本来なら、こういう事はご家族の方を優先して話しをするんですけど、仕方がないですね。…苗字さんの言動は以前と比べてどうでした?」
「比べて? 全体的に標準語やし、意味のわからん発言してます、けど…」

低く唸る担当医がひどく長い間をとるものだから自分がキレると思った。それほど長い沈黙の間が場を占領していた。やっと口を開けた担当医の言葉は、俺の予想をはるかに超えていた。

「高次脳機能障害、ですね」
「こ、こう…? なんなんですか、それ」
「病気や事故などが原因で脳が損傷され、言語、思考、記憶、行為などに障害が起きた状態の事を高次脳機能障害と言って、今回の苗字さんの場合は、記憶障害にあたると思われます。健忘症とも言いますね。昔の事は覚えているのに、新しいことが覚えられないのが主な症状です。それと併用して、一部の記憶も喪失しており  

記憶障害。その文字が、言葉が、頭の中でループを繰り返す。担当医の説明が上手く聞き取れない。話が終わり、先輩にこの事を自ら伝えるかどうかを聞かれた。俺は頭を縦に振った。どうして頷いたのか、自分自身が理解できなかった。
俺は自分の中で何も整理できないまま、先輩の病室に足を進める。スライド式のドアを開ければ、窓の外を眺める先輩がベッドに腰掛けていた。

「あっ、…えっと、……誰、だっけ?」
「財前光っすわ、先輩」

腕と頭に巻かれた包帯がやや痛々しいが、車に轢かれたのに頭以外の外傷が擦り傷だけだったのは奇跡に近いと俺は思う。

「そうそう、財前光くん!」

笑った顔は以前の先輩と一緒なのに何かが違う。不安と呆れが俺の中を占領していった。

「財前光くんは、高校生…なんだよね? ってことは、私を先輩って呼ぶから私も高校生?」
「ちゃいます。俺は中二、先輩は中三」
「…え、」
「先輩…自分が記憶喪失してること、わかってます?」
「っ…と、やっぱり、そう…なんだ?」

意外にもあっさりと俺の口から記憶喪失という単語が出てきたものだから、先輩以上に俺が驚いてしまった。先輩は、だから何も思い出せないのか、とから笑いしながらベッドに座り直し、パイプ椅子に座るように言ってきた。

「高次脳機能障害っちゅーやつらしいっすわ」
「こ、こう? こうじの…?」
「先輩、車に轢かれた時に脳内出血して、要するに記憶障害になってもうて、新しいこととか覚えられへんみたいで。んで、リハビリをしたら思い出すとか、なんとか」
「へぇー」
「人事のようっすね」
「うん、人事にしか考えられないもん」

どこまで先輩は覚えているんだろうか、なんて聞けるはずもなく、俺は静かに足をぶらぶらと振る先輩を見ていることしか出来なかった。

「えっと…ざ、…ざ?」
「ざ?……俺の事っすか?」
「そう」
「ざ、い、ぜ、ん、ひ、か、る」
「そうそう! 財前光くん!」
「なんすか?」
「私の事、教えて?」
「は」
「私が目を覚ます間、ずっとお見舞いに来てくれてたんでしょ? さっき看護婦さんに聞いたらそう言ってたから」
「ま、まぁ…」
「私の事よく知ってるみたいだし。教えてほしいの」

先輩なのに、先輩じゃない笑顔。俺は戸惑いながらも、やはりなぜか首を縦に振るのだった。


(2010/08/04)