Zet at zeT








人は、数多の自己犠牲の上に立っている。
そう言ったのはいつの時代のどの哲学者だろうか。そんな知識は歳を取る度に消え失せていった。
白石くんの仕事の手伝いという名の東京観光は幾日も続いた。
たまに会社内で会い、それこそ廊下ですれ違う程度だが、挨拶を交わし、私は自分の仕事を、白石くんは  何をしているのかは分からないが、お互いが仕事を終わらせる。
そして私が定時に上がると、一緒に夜の街へと繰り出していく。そんな日々が日課となっていた。
何度か、白石くんに会社で何をしているのかと尋ねたが、その答えは全て内緒だった。
いや、男は少しミステリアスな方が云々と言葉を並べ立てられたりもしたが、その辺は聞き流すようにしていたから、本当に、何の為に東京へ来たのか真意が分からない。
昔から相手の先を読む人だとは思っていたが、ここまでわけがわからない人物に成長してるとは。

「苗字さん、頼んでおいた会議の資料なんだけど、」
「はい、このファイルに大まかなものは纏めておきました」
「そう。ありがとう」

営業アシスタントも兼務しているお局から急に声を掛けられて、いきなり現実に引き戻された気がした。
先程やっと纏め終わった資料を容れた手元のファイルを渡す。
本当に感謝をしているのか、さらりと言ってお局は少し離れた自分のデスクへと戻って行った。
先輩、と隣のデスクに座る後輩ちゃんが声を掛けて来る。何かの質問だろうと、一度作業を中断して向き直れば、仏頂面をしながら私を見ていた。
……はて。私は何かミスをしただろうか。
聞いてみれば、後輩ちゃんは盛大な溜め息を吐いた。

「苗字先輩ってどんだけ人が良いんですか…」
「え、な、なに……?」
「お局って先輩にばっかり仕事を押し付けてるんですよ? ちゃっかり自分は定時に退社出来るように仕事量を調整して、残った分は全部先輩にモロ投げなんですよ? ムカつかないんですか?」
「ムカつくとかは全く無いけど…?」

そう言えば、また後輩ちゃんは溜め息を吐く。呆れたように口を挟んできたのは同僚達だった。

「名前に何言っても意味ないって。仕事人間なんだから」
「そうそう。どんだけ仕事を押し付けられても、秘書課に居た時の方がもっと忙しかったって言ってかわされちゃうの」
「いつも残業してるしね。サービス残業なんて何の得にもならないんだし、止めたら良いのにね」

言いたい放題言われるが、以前にも言われた事があるのであまり気にしない。
お局が仕事を押し付けてきているのも知っているが、私自身、苦に感じているわけではない。
仕事をして気を紛らわすのが好きなのだ。
こう言ってしまえば、また仕事人間だと悪態つかれるのだろう。だが、私はそういう性分だから仕方がない。今更それを止めろと言われても止めれるわけがないのだ。

「今日こそは定時に退社しなさいよ」
「どうして?」
「あーあ。朝言ったこと、もう忘れてるよこの人」

何の事だか皆目検討もつかない。何か予定があっただろうか。
記憶を掘り下げてみるが、全く分からなかった。
そんな私に、これまた呆れたように同僚が口を開く。

「今日は合コンだって言ったでしょ!」

  あ、そうか。
納得がいった。そういえば、朝、出勤した際に頭数合わせだと言われて合コンに誘われたんだった。
この歳で合コンなんて似合わない事この上ないが、仕方なく承諾したのを思い出す。確か相手は医者やらの病院勤めの方々だったはず。
だからさっきから息巻いて仕事をしていたのか、こいつらは。と、再度パソコンのディスプレイ画面と見つめ直した同僚達を見遣った。
腕時計で時間を確認すれば、午後の勤務時間も残り2時間をきっていた。
今日のアフター5は白石くんに誘われているわけもない。久しぶりの一人の時間だったのだが、最近付き合いが悪いと言われ続けていたし、まぁ、いっか。
同僚達よりも量のある業務に定時までに終わるのかという一抹の不安を抱きながらも、私も同じようにディスプレイ画面へと向き直った。

  どれくらいの時間が経ったのだろうか。まだ終業のチャイムが鳴っていないから、定時の時間では無いが、積まれていた記入書類や、海外にある支社とのやり取り、そしてお局に渡された仕事の終わりが漸く見えた頃、一通のメールが届いた。
業務を一時中断し、マウスを動かして届いたメールを見る。英文だった。
いや、海外とのやり取りが多いので、文面が英文なのは毎度のことなのだが、気になったのは件名だった。

「……白石くん?」

メールアドレスは知らないものだったが、件名にはクーちゃんやで、と。そこだけ日本語で表記されていた。
内容を読めば、久しぶりに会えて良かったという事と、東京観光や視察等も充実したという事と、最後に、今日の最終の新幹線で大阪に帰る事が書かれていた。
……今日帰るというのは知らなかった。
その内容に少なからず衝撃を受けたようで、終業を知らせるチャイムが鳴っても私は画面を食い入るように見つめていた。

「名前?」
「え、あ、うん、な、何?」
「まだ仕事終わってないの?」
「あ……ごめん」

溜め息を吐かれる。
まぁ、私達とか比べものにならないくらいの量だしね、と。厭味なのか、同僚がぽつりと言ったのが聞こえてきた。

「大丈夫です。私がこれ、肩代わりしますよ」

そう言ったのは、隣に座る後輩ちゃんだった。

「先輩、この間彼氏さんと別れたんだし、今日は新しいパートナーをゲットする為に合コン行ってきて下さい」
「いや、でも  

後輩に自分の仕事を任せるのは、先輩として悪い気がするし、そもそもこれは私が任された仕事なんだし……と続けようと思った言葉は、後輩ちゃんの力強い目に打ち失せられた。
なんとまぁ先輩想いのいい子なんだ、なんて喜ぶ同僚達を尻目に、本当に良いのかと聞く。後輩ちゃんは笑顔で、任せて下さいと言ってくれた。
私的には仕方なく、なのだが、後輩ちゃんに仕事を任せてタイムカードをきり、同僚達に少し遅れて女子更衣室へと向かった。
張り切りながら化粧直しをする同僚に急かされ、急いで着替え始める。
合コン向きの服装ではなく、出勤時に着て来たのは単純でラフな服装だったのだが、事前に知らされていたわけではないし乗り気ではないので気にしない。
案の定、同僚達には不平を述べたが、気にしなかった。
白石くんは私の着飾りしない所も褒めてくれた。  って、何を考えているんだ、私は。



「着いたー!」

電車に乗り三駅ほど。同僚の気合いを入れた声が辺りに響く。
帰宅途中のサラリーマン達に何事かと訝しげに見られたが、本人達は何事も無かったかのように道を歩いていく。
その合コン会場が何処なのかも知らない私は、彼女達の後ろをついて歩くしかないのだが。
ふと、赤信号で立ち止まった時。何か忘れているような気がした。
何を忘れているのかも分からないのだけれど、大切な事を忘れている気がする。  何を忘れているんだろう。
いつの間にか信号が赤から青に変わり、同僚に声を掛けられ正気に戻った。顔を上げれば、洒落たイタリアンレストランの入り口が目の前にあった。

「もうあっちは来てるみたい。気合いをいれるぞー!」
「目指せ玉の輿ー!」
「イケメン医師をゲットだー!」

おー! と、さながら体育祭当日の小学生みたいな掛け声をしてレストランへと入っていく。合コン前の女性らしいと言えばそうなのだけれど、生憎、私の今のテンションでは三人に追い付けなかった。
元々乗り気では無いし、タダ飯が食べれると思えば少しはテンションも上がるし、良いのかもしれない。
一番最後にレストランへ入れば、奥の敷居の立てられたテーブル席に座る男性が手を挙げて立ち上がるのが見えた。……今回の相手のようだ。

「初めまして。こんばんは」

爽やかに挨拶する男性の笑顔に、前列の三人はキャピっと、本当に今時の高校生でもしないようなキャピキャピさで挨拶をしていた。
語尾のハートマークがやたらと癪に障ったのは内緒だ。
席に座り、飲み物を注文してから簡単な自己紹介をする。程なくして運ばれてきたグラスを持ち、乾杯した。
喉越しの良い、言ってしまえば飲みやすい白ワインだった。もう少し、今の気分では辛口の方が良かったかもしれない。
時間が経ち、そのワインを飲んでいくうちに私の顔がだんだんと歪んでいったからか、対面に座る男性が気を遣ったように声を掛けてきた。

「美味しくない?」
「あ、いえ、そうじゃないんですけど……甘いなって思って」
「あぁ、確かにね。俺、こういう店で飲むこと無いから緊張しててさ。居酒屋通いの俺からしたら気難しく感じちゃって」
「意外です。お医者様だったら、こういうお店に通い慣れてるものだと」
「皆が皆そうじゃないよ。少なくとも、俺はこういう処よりも居酒屋で生をジョッキでぐいっと呑む方が好きかな」

本当に意外だった。医師の知り合いなんて居ないから、そうだと思っていたのに。
隣を見れば、愉しそうに会話を弾ませる同僚の姿がある。そういえば、合コンってこんな感じだったな。  なんて、学生時代を思い出してしまった。

「この店はアイツのセレクトでさ」

男性の視線を追えば、店内に入った際に爽やかに微笑んだ男性が居た。

「両親も医者やってて、坊ちゃんなんだけど、どうも凡人と意見が掛け離れてるって言うか……」
「へぇ。……どうしてお医者様になろうと思ったんですか?」
「うーん、なんでだろう。  ガキの頃から外で遊んでよくケガしてきてて、その度にばあさんや母さんがアロエとか薬草とか塗ってくれて……多分それがきっかけかな」
「優しいお母様達ですね」
「でも花とか草とか摘んで来たら、それは毒だから止めなさいって、超怒られてさ。あん時は怖かったなー。田舎育ちだから、その辺にいっぱい生えてるんだもんな」
「確かに毒草とか見分けつかないですしね」

  はて。何かが自分の中で引っ掛かった。
そういえば、毒草がどうたらとか、色々詳しい人物が居たような気がする。…誰だ?
思い出そうとするが該当する人物が居ない。気のせい……?

「どうかした?」
「いえ、大丈夫です。少しお手洗いに行きますね」

心配をしてくれる男性にそう言って、鞄を持ち、店員に手洗いの場所を聞くなりすぐに向かった。
あの場から逃げたかったわけではないが、なんとなく、一人で考えたかったのだ。

「誰だっけ……」

思い出せ、思い出せ。
一人だからか、それともレストラン内に流れるクラシック音楽が促してくれたのか。脳裏に浮かんできたのは、私とよく遊んでくれた幼なじみの少年の顔だった。

      っ、」

勢い良く踵を返す。
テーブルに戻るなり帰る事を告げて、不満げな顔をする同僚達の言葉を聞き流し、レストランを出た。
  向かうは東京駅。
急ぎ足で大通りに出てタクシーを停める。それに乗り込み、すぐに発車してもらった。
間に合え、と祈りながら到着するのを待つ。その時間がもどかしかった。

今更だが、私は彼と連絡先を交換していた事に、本当に今更ながら忘れてしまっていた。
だが、電話をしてもメールをしても、使われていないものだという機械音が鳴り、送信できませんでしたと感情のないメッセージが送られてくるだけだった。
どうしてあのメールを返信しなかったのだろうと悔いる。それこそ後の祭りなのだが、そうせずには居れなかった。


    やっとの思いで着いた東京駅に、もう人の波は無かった。


(2012/08/21)