Zet at zeT








――虚無。
その時間、日々を例えるなら、その言葉が一番合っているような気がした。
決まった時間に起床し、準備をしてから会社へと向かい一日の業務に取り掛かる。
普通の日常だ。
残業をして終電で家へと帰り、化粧を落として、お風呂に入り就寝。
これが私の普通の日常。
何かが足りないわけでもない。不足しているわけでもない。
いつもの毎日。いつもの私。――でも、何かが違う日常。
久しぶりにとワインのコルクを開ける。程良い香りが鼻を擽った。
ワインを飲むなんていつぶりだろう。きっと、あの男と別れた時ぶりだ。逆算すると二ヶ月ほど前になる。
その二ヶ月の間に色々なことが起きた。
再会と、別れ。
どちらも突然。そしてどちらも必然だったのだろう。――少なくとも、彼の中では全て決まっていたのだと思う。

社長に問い質しても何も教えてもらえず、彼が社内にいた時に所属を許されていた部署の社員からも何も教えてもらえなかった。
唯一分かったのは、教えてもらっていた連絡先は、社長から仕事用にと受け取っていた携帯の連絡先だという事だけ。彼の居た部署――薬品開発部に居る同期を脅してなんとか仕入れることが出来た情報だ。
電源の入っていないテレビに映る自分の顔がなんとも惨めで、そして哀れに思えた。
一夏の恋。そう称するわけではないが、期間的にそういうものだろう。
こうして、私はまた歳を重ねていくのだ。

「…ん?」

ふと、テーブルの上の卓上充電器に鎮座している携帯が光っていることに気がついた。
取り外して画面を見てみれば、メールだった。それも、社会人になってからあまり連絡を取らなくなった大阪の友人からだ。
内容は、小学校の同窓会を行う、というもの。
返事は一週間以内に。そして開催日は来月の初旬。
その為だけに大阪へ行くのは、正直旅費やら何やら考えると財布に大打撃を与えられてしまう。
往復の旅費、参加費、宿泊費、お土産代。
別に行きたくないわけではないのだが、実際問題、OLの給料で大阪に行くのは少し辛いのだ。
かと言って、少ない給料を貰っているわけでもないし、貯金も無いわけではない。
ただ、気にかかることが一つ。

「幹事……白石蔵ノ介、か」

気にするなと言われれば無理な話だ。
あんな事やこんな事があって、再び会えっていうのも気が進まない。……よし、行くのは止めにしよう。
メールの返信画面を開き、そのまま不参加の旨を文章にしだしたら、メールを送ってきた友人から電話がかかってきた。
拒否する事も出来ず、思わず出てしまった。

「…も、しもし?」
「まさか来んって言うんちゃうよな」
「え、は?」
「同窓会! 名前は強制参加やねんで!」
「え、いやいや、なんで? 私の事なんて皆覚えてないでしょ?」
「アホか。覚えとるに決まってるやん。ただ、東京は遠いから誘うのはーって皆気をつかっとってん。でも、白石くんが誘ってみてもええんちゃうか? って言うたから、ウチがメール送ったったのにホンマに来ぃひんつもりやったんか!?」

久しぶり――という程久しぶりではないが、大阪弁でまくし立てられるとなかなか迫力がある。関東地区に住んでいる人が、大阪人って怖いよね、と言うのも少しわかった気がした。

「……で、どうすんの? 来るん?」

一通り文句を言い終えたようで、友人は短い溜息のあとにそう聞いてきた。
行かない旨を伝えようとすれば、強気な声で、来るんやろ? と言われ、反論出来なくなってしまう。
友人は、凄まじい程に大阪のおばちゃんなるものへと進化を遂げているのだろうか。少し心配になってしまった。

「わかった。行く。行くけど、新感線があるうちに帰るよ。交通費も宿泊費もバカにならないし」
「そんなんやったらウチん家泊めたる。やから有休とって四日間ぐらいこっちおったらええやん」
「いやいやいや、同窓会が土曜日でしょ? 火曜まで休めって言ってるの?」
「せやで? 火曜に東京戻って、水曜は家でゆっくりして、木曜から仕事行ったらええやん」
「何その自分勝手な出勤…!!」

とりあえず話を聞くと、友人は一昨年に結婚してもう会社では働いてないらしい。専業主婦というものだ。正直、羨ましい。
精一杯の抵抗虚しく、同窓会へと参加する事となった私は、有給休暇の届け出書類を仕事用の引き出しから探さなければ。と、通話をしながら考えていた。




「駄目だね。せめて一日だけなら良いけど、こんなに有給休暇で休まれるとこっちも困るんだよ」

部長に書類を渡せば、すぐさま却下された。
友人からの入れ知恵で、同窓会は日曜日の夜中からと説明をして居るのだが、やはりこの上司の反応では有給休暇も取れそうにはないだろう。
これは仕方が無い。後できちんと友人に謝ろう。仕事なのだから仕方がない。

「今、優秀な君に休まれると、この部署は困惑する。数多くある取引も停滞を余儀なくされるだろう。それくらい、君はこの部署に必要で、私は君を高く評価しているのだから、急にこれ程長く休みを貰いたいなんて言わないでくれ」

上司の言葉に生返事をしておいた。
結局、この上司は、自分がサボりたいが為に部下に仕事を押し付けていく。これは悪口ではなく、実際の話だ。
営業も兼ねているお局だって、結局は定時に上がりたいので私に仕事を押し付ける。そして私は自分の意見を押し込めて、終電間近までオフィスに篭もり、仕事を終わらせるのだ。
残業をするくらいなら、秘書をしていた頃の方が良かった。跡部社長は人一倍、二倍、三倍と働いているのに、部下を労う事を忘れない。良い指導者だと思う。
まぁ、指導者が良くてもその部下がこれじゃあ、その部下の下にいる下っ端は嫌な目に遭うのだけれど。
最近卑屈っぽいのかな。なんだか疲れてしまった。
上司の言葉はまだ続いている。そこまで言うなら話を終わらせて部下に仕事をさせてくれ。

「何の騒ぎだ? アーン?」
「っ、しゃっ、社長っ!?」

社内を巡回していたらしい社長様のご登場だ。
君は仕事に戻りたまえ、と上司に言われ、一礼してから自分のデスクに戻る。
隣に座っていた後輩ちゃんは不服そうな表情で私を見た。

「最近態度悪くないですか? あの人」
「ん? あ、部長?」
「はい。自分は仕事してないくせに私達には働けーって、おかしいでしょ。上司である事をいい事に、接待でもないのにキャバクラの支払いとかを接待代として経理に出してるらしいですよ」
「それは初耳」
「経理部長って、私の同期が通っていた大学の先輩だったらしいです。そこから仕入れました」

それも初耳だ。
パソコン画面から、何やら社長と話し込んでいる上司を見遣る。最初はそんな人ではなかったのだけれど、仕事が軌道に乗り出したら人間って怠慢やら何やらでそうなるようだ。
全ての人がそうだとは言ってはいないが、箍が外れると人間は誰しも怖いものである。

「何を話しているんですかね?」
「さ、さぁ…」

多分、社長は部長の話を聞いているようで聞いていない。社長の視線は部長のデスクに注がれている。そこにあるのは、置きっぱなしにしてある私の有給休暇の書類だ。

「おい、」
「はい、なんでしょうか?」
「これは、許可を出したのか?」
「いえいえ! とんでもございません! これ程長く休まれますと仕事も滞りますし、他の社員のやる気にも関わりますので、」
「却下した……って事だよな? アーン?」
「ええ。はい。そうです。さすが社長、分かっていらっしゃる」

ほら、やっぱり私の話だった。
後輩ちゃんのイライラは増しているようで、それが爆発しないのかと心配だ。
パソコンのキーを叩く音が激しい。それは後輩ちゃんだけではないようで、同僚達も苛立ちを隠せないようだ。
きっと、当事者のうちの一人であろう私は、どうして皆がそんなに苛立っているのかが理解出来ない。
部長が言っているのは正しくその通りで、私自身も無理だと思ってはいたし、さっきは言い方に腹が立っただけで今は何とも思ってはいない。
切り替えが早いと言われるのは、私の性格がこうだからなのだろう。

「おい、苗字」
「は、はい!」
「休暇、俺様が承認してやる」
「しゃ、社長っ? 突然何を仰って…」
「この様子だと、休暇を潰された社員も居そうだな。樺地、早急に全社員へアンケートを取れ。今すぐにだ」
「…ウス」

社長第一秘書の樺地さんがオフィスから出ていく。
困惑している上司を一瞥した社長からは、出来る人間のオーラが出ていた。

「近々人事異動があるだろうな」

それはもう、覚悟しておけ、とでも言っているような、氷の笑み。――私にはそう見えた。

「……苗字」
「あ、はい?」
「秘書課で一人寿退社する社員が居る。人手が足りなくてな。また俺の元で働いてくれるか? アーン?」
「あ、えー…と……」
「ふん。まぁいい。考えとけ」

すぐに返事が出来なかった。私にだってやり掛けの仕事があるし、秘書課の異動は別に気にしないのだが。今この場を離れていいものかと。
とりあえず、社長が去った後、その後を追いかける上司がオフィスから出ていったのを見計らってかは分からないが、誰からともなく歓声が響いた。
あぁ、皆さんあの上司に不満を持っていたのですね。
少し不安がっているお局の顔は見なかった事にしよう。

私の膝元には、いつの間にか跡部と判の押された有給休暇の書類があった。


(2013/10/01)