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仰げば、尊し。
尊くなんてならない空の色は、汚れた私からすれば仰いでも感情を揺さぶる事はなく、ただの曇り空の中に小さい光がちらほらとあるだけだった。
雨が降るかもしれない。鼻孔をくすぐる湿気の臭いに気が遠くなり、意識を戻そうと頭を振った。
――早く、この場から離れなければ。
この歌舞伎町において、帰る場所のない女が身を寄せるところなんて数少ない。この辺りを仕切っている組織にとって私のような女は数多と居るだろうが、今回限りは別の問題だ。簡単に切って捨てれる女ではあったけれど、客の要望を断って逃げ出した女は違う。どんどん下の方にランクが落ち、最終的には動画系の仕事で死ぬまで働かされるかもしれない。
いや、実際問題そんな事は無いかもしれないのだけれど、確実に無いとは言い切れないのがこの業界の怖いところだ。
今まで何度も脱走を企てた私自信に問題もある……と思う。しかし、ふと、思ったのだ。自分と同じように自由の無い同じ女性を見る度、外を飛び回る蝶のように、私も飛び回りたい、と。
この界隈が賑わうのは夜中から。もうすぐで道も人で溢れかえるだろう。それまで耐え忍ばなければ、と、暗い路地裏にあるゴミ箱から外の賑わいを観察する。出勤前の男女が歩き出す時間が近付いてきている。
……大丈夫だ。人が増えてから警察署に飛び込もう。そうすれば、私は晴れて自由の身になれる。
その後をどうするかなんて考えていない。それは自由になってから思考すればいい。今だけ、今だけの辛抱なのだ。
少しずつ夜中の装いへと変わっていく街並み。改めてそれを見れば電飾の無駄遣いで、初めて訪れた時の感動なんて消え失せていた。
誰かが言っていた、この街には夢がある、なんて嘘八百。その夢を掴んだ人間はほんの一握りと気付くのは遅過ぎたのかもしれない。
惨めな姿になっている自分に笑えてくる。20半ばで家を飛び出し、着の身着のまま逃げ込んだこの歌舞伎町で、私はまた逃げ回っているのだから。
流れ出た涙は自嘲の証。次こそは、次こそはと自立を先延ばししてしまっていた自身のせいで、今の状態に陥ってしまったのに涙が流れるなんて馬鹿らしいにも程がある。
乾燥していた瞳に水分が溢れた影響か、とても眼球が痛かった。涙は胸に滲みるのではない、直接眼球に滲みるんだ。
全身が、心が、頭が、全てが痛い。痛みでどうにかなってしまいそう。
それでも、私は行動しなくてはならない。人通りが増えてきた。後はタイミングだ。
この路地を出て左に直進。全力で走る。交番までは遠いけれど、全力なら5分とかからないはず。
まだそんな体力が自分にあるのかは分からない。もしかしたら途中で見つかってしまうかもしれない。――いや、駄目だ。常に最良の未来だけを頭に描こう。
自分を叱咤する。いくら人が増えようとも、人混みに隙間はある。その隙間を見極めて、私は自由への一歩を踏み出した。
「……っ」
やって――しまった。曲がり角を曲がればイケメンとご対面。そんな少女漫画的展開なんて今一番必要の無いのに、歩いていた人にぶつかってしまった。
しかし、たった一つのミスだ。今から挽回は出来る。適当に謝罪をして走り去ればいい。この人混みで他人にぶつかるなんてよくある事なんだから、相手も許してくれるだろう。
「すみません。急いでいたもので。失礼します」
時間が惜しい。早めに謝罪と意志を伝え、そのまま走り去る。完璧だ。
踵を返して左に曲がる。走れ、走れ。と念じて足を動かせば、私の体はその場から動くことは無く、むしろ腕を掴まれて止められてしまっていた。
「おい、お前」
声を掛けられる。まさか、ぶつかった相手が悪かったのだろうか。アイツらの仲間だったのだろうか。そうであれば、私のこの計画は終わりだ。もう二度とこの世界から飛び立つなんて出来なくなってしまう。
離して下さい、と腕を振り払うが、相手は男で私は女だ。簡単に離してはくれない。終わった、と思った。そうとしか考えられなかった。
しかし、私を掴んだ男性は、何故か気味悪く笑う。それは嗤いなのか、それとも哂いなのか。男の表情を見ていない私には理解出来ない。
振り向くのが怖い。もしこの男がアイツらの仲間なら、私の未来は呆気なく崩れ去る。全く関係の無い一般人なら、巻き込んでしまったという罪悪感に苛まれてしまうだろう。早く、早くこの手を離してくれないだろうか。強い力で掴まれているという事もあり、自分の手首の感覚が痛さを通り越して感覚が無くなってきていた。
「……――俺だ。悪ィが、今日はキャンセルさせてもらう。……事情は説明するから安心しろ」
誰かに電話をしている――? 昔と違ってボタン式の携帯電話ではなくなった世の中で、電話をしているかどうかなんて姿を見なければ判断が出来ない。多分、話し声から電話をしていると考えるが、その相手が誰かなんて知る術なんてない。だが、アイツらでは無さそうだ。
人通りが増えた事によって、男の会話を上手く聞き取る事なんて容易ではない。しかし、喧騒の中でも男の声は低く響いて、私の耳に届いていた。
「おい」
会話が終わったのか、改めて私に声を掛けてくる男。掴まれている腕を引かれ、私は男と初めて対面した。
「何か入用の様だな。助けは必要か?」
吊り気味の目を細め、左目が眼帯で覆われた男――服装からしてこの街で働くホストの類いだろうか。彼は、私にはっきりとそう言った。
私の姿を一瞥して状況を察したのか、返事を待たずに歩き出す男は私の腕を掴んだままなので、私も前を歩く背中についていくしか逃げ場がない。
交番が遠く、自分の未来が離れていっているはずなのに、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
人混みを抜け、歌舞伎町を象徴する門構えを抜け、客待ちの行列が出来ていたタクシーの中の一台へと乗り込んだ。
地名を運転手に伝え、ゆっくりとタクシーが発進する。なるべく窓を見ないように背中を丸め俯いていれば、隣に座る男がまた口を開いた。
「……お前、名前は」
「――貴方は、今から私を買うの?」
「だったらどうする」
「源氏名を言うわ」
「ククッ。安心しろ、ンなつもりは無ェよ」
身の安全を確保出来たかもしれない安堵感が押し寄せてきた。あれほど練っていたはずの計画が潰れてしまったのに、簡単に門から出ることが出来たのだ。実に呆気ない。不測の事態が一変してこんな形で好転するなんて、思ってもいなかった。
自身をまとっていた緊迫感が消え去っていく。気持ちが弛めば全ての神経が緩んでしまい、押し込めていたはずの涙が、また、流れ出して眼球に痛みを走らせた。
「……名前、」
「それは源氏名か?」
「違う。れっきとした、私の名前よ」
「そうか」
短い返事だった。男は他に何も喋らず、ただ少なくなっていく電飾の明かりを眺めているだけで、その心意は分からない。
私はこの男に助けられたのか、救われたのか判断は出来ず、対向車のライトに照らされる眼帯を横目に見る事しか男の反応を探る方法はない。
一つ、また一つと窓に水滴が当たる。それは私の眼球を痛める涙と同じように、激しくなっていくのだった。
(2019/09/25)