#07





朝起きて、お水と軽食を準備すれば変わらない時間に帰宅した晋助さんにそれを渡し、自室へと入っていったのを見届ければ朝のルーティンワークは終わる。
仕事から帰宅後に眠ると晋助さんはなかなか起きないので、洗濯機を稼働させ、掃除機とフローリングワイパーで晋助さんの自室以外を掃除。使い終わった食器を洗っていれば、洗濯機から終了の合図。そのまま乾燥ボタンを押して乾燥してもらう。乾燥機付き洗濯機は、文明の利器だと感じる家電一位かもしれない。
そうこうしている内にお昼の情報バラエティ番組が始まる時間になっていた。お昼過ぎには起床してくる晋助さんにサラダと軽めの昼食の準備を始め、廊下の方からドアの開閉音や浴室の水音が聞こえてきたら間に合うようにと準備に勤しむ。
リビングのテーブルの上にお皿に盛った昼食とミネラルウォーターを配置して、私がお世話になるようになってから壁に掛けられるようになったカレンダーを見遣る。――今日の晋助さんは同伴の日。夕方前には家を出るようだ。
帰宅してから5、6時間しか寝ていないと言うべきか、それとも、5、6時間も寝れていると言うべきか、夜の仕事は人それぞれペースがあるのでどれが正解とか言えないのだが、晋助さんのお仕事で言えば寝れている方なのかもしれない。
以前の自分の生活から考えると、1時間も寝れたら御の字だった――……いや、考えるのはやめておこう。
シャワーを浴びてさっぱりしたらしい晋助さんがまだ濡れた頭にタオルを掛けて、お仕事中の服装からは想像出来ない白いTシャツとスウェットという姿でリビングに現れる。
おはようございます、と声を掛けると、あぁ、と低い声で返事が返ってきた。
無言のまま革のソファーに座って、私が用意した昼食を口に運びながら仕事に必要になるかもしれない情報やネタをテレビ番組から仕入れ、スマホを触っている姿は子供には悪影響なのかもしれない。けれど、これが晋助さんのルーティンワークなのだから私が文句を言う訳ないのだ。
行儀が悪いとか、食事を準備してくれた人に感謝がないとか、そういうのはお仕事の邪魔になるわけで、お世話になっている私の立場上からも言えない。
傍から見たら家政婦同様の扱いなのかもしれないが、住まわせてもらっている以上、文句も無ければやるべき事は私がやり切るというスタンスを続けて、もうすぐで一年。
これが、私のいつも通り。

「今日、終わったら呑みに行く」
「ありがとうございます。江華さんにお伝えしますね。何人くらいですか?」
「未定。また連絡する」
「わかりました。連絡お待ちしてます」

空になった食器を片付けていると、食後の一服をしつつスマホの画面から目を離さずに晋助さんから声を掛けられた。
月に一回程度、私の勤めているお店に晋助さんがお店の方を連れて呑みに来店しくれることがあるのだが、今日がその日らしい。エプロンのポケットに入れていたスマホを使ってお店のママである江華さんへ、晋助さん達が呑みに来店する旨の連絡。すぐに既読が付き、今日は予約があるから人数分かったら早めにお願い、との連絡を受ける。
それをそのまま晋助さんへと伝え、私の役目は終了だ。
途中だった食器洗いを再開すれば、自室に行って着替えていた晋助さんがお盆に乗った朝のセットを持って来てくれる。受け取ると同時に、悪ィな、とバツが悪そうに言われたので、持って来てもらってありがとうございます、と返事した。
晋助さんの悪ィな、は、謝罪と感謝の2つの意味が含まれているのだ。だから私も、持って来てもらったことに感謝する。多分、同居させてもらってないと気付けない事なんだろうなぁ、と想像ながらに考えた。
自室で身嗜みを整え、スーツに着替えた晋助さんは家事に勤しむ私に行ってくる、と声を掛けて家を出て行く。見送りはしないのだけれど、聞こえるようにいってらっしゃいと声を投げかけて、私も自分の仕事に間に合うようにと準備を始めるのだった。


「そうかぁ。もう一年になるのか」
「ですね。早いものです」

相槌を打ちながらグラスの水滴を拭き取り、出来上がったばかりの焼酎水割りを常連の松平さんに渡した。
今日も今日とて、常連さんが席を埋め、お店での時間はまったりとゆったりと流れていく。慣れというのは凄いもので、今ではほとんどの常連さんの名前と顔を一致させたし、飲み物を手渡す時に零したりもしなくなった。一年も勤務しているのなら、流石に覚えろよという話なのだけれど。

「んじゃあ、アレかい。まだあの野郎と住んでんのか」
「えぇ、まぁ。その、色々とお世話になってます」

衣食住や携帯とか、保証人や身分証明が必要なもの関連は未だに私は晋助さんにお世話されている。携帯代や光熱費は受け取るようになってくれたが、食費やら家賃やらは全く受け取ってくれない。
そんな話をポロッとすれば、カウンターで話を聞いていた江華さんが笑いながら会話に入ってきた。

「そりゃあ、名前ちゃんが心配なんだろうさ」
「私、大分更生出来たと思うのですけど……」
「確かにいっちょ前の女になっちまったなァ。いや、戻ったってのが正しいのか?」
「松平さんよォ、名前ちゃんは元々良い女だぞ。境遇が向かい風だっただけでな」
「お前はいつになったら追い風になるアルか、マダオ」
「こいつは一本取られたなァ。ダハハハハハ……ハハ……ぐすん」
「まぁまぁ。長谷川さんは突然のクビから這い上がってきてるんですから、お互い頑張りましょうね」
「名前ちゃんだけだよォ……俺に優しいのはァ……」
「おっと? 私は優しくないってのかい?」

江華さんの一言で店内が笑いに包まれた。常連さんばかりの時は常連さん同士も顔見知りだからか、テーブル席やカウンター関係無く話が盛り上がるのは楽しい時間だ。
去年の今頃は、この楽しい時間を実感することなんて難しかった。今の笑える私が居るのは、お客様を含めた江華さんの影響が強いのだろうと考えれば、この大切な日常を手放さないようにどうしたらいいのか、なんて思考を巡らしてしまいそうになる。地獄から身一つで這い出たのだから、今は一生懸命に人生を謳歌すれば良いだけなのに出来ない。
最近は少なくなったが、未だに去年までの生活がフラッシュバックして闇の中を必死にもがいてしまうのだ。息が、苦しくなるのだ。
閉店作業を慣れた手順通りに進ませながら、ふぅと一息。最後のお客様を見送った江華さんも店内に戻ってくるなり一息ついたので、今日は常連さんばかりだったとしても少し忙しい一日だったのかもしれない。
かもしれないと私が感じてしまうのは、感覚がまだ抜けきれてないからなんだろうなぁ、と他人事のように考える。

「お疲れ様、名前ちゃん」
「江華さんもお疲れ様です。今日は忙しかったですね」
「珍しいこともあるもんだねぇ」

平日の中日にここまで常連の方が勢揃いするのは珍しい。神楽ちゃんは早々に帰る為、まぁまぁな人数のお客様を二人で接客するのは流石の江華さんでも疲れてしまったのだろう。表情に疲れを滲ませながらカウンター席に座ったので、コップに入れたお水を渡した。
ありがとう、と渡した水を飲み切り、まるでアルコール飲料を体内に入れたかのように、プハーッと声を出す。それを聞きながら、私は今日は完全に閉めるかどうかを聞き倦ねていた。やはりイチ従業員なので、店長であるママの江華さんが開けると言ったら開け続けるし、閉めるならレジの締め作業も始めなければならない。
どうしようかと使用済みのコップを洗いながら思考を巡らせるが、疲れと格闘しながら天井を仰ぐ江華さんが何を考えているのかは分からない。
使用済みのコップを洗い終わり、一通りの洗い物が終わったので意を決してお伺いしてみようと口を開こうとすれば、カランカラン、とお店の扉が開き、お客様の来店を知らせるアンティークベルが鳴った。

「今日はもう終いなんだ。他に行ってくれないか?」
「お袋、疲れてるね。そんなんじゃまた皺が増えちゃうぞ」
「……なんだ、神威か。いくら身内でも出す酒は無いよ」
「そんな冷たいこと言うなよ。予約はしてるはずなんだけど」

晋助が。と言いながらいつも通りの爽やかな表情で店内に入ってくる神威さんの肩には、珍しく項垂れている晋助さんの姿があった。酩酊しているのか、僅かに見える耳や顔はほんのり赤く染まっている。
神威さんの言う予約という言葉に思い出し、すっかり忘れていたとスマホの画面を確認するが、人数が確定したら連絡をすると言っていた晋助さんからの連絡は無く、その旨を江華さんへ伝えた。

「予約も何も、お前が背負ってる飲んだくれが人数の連絡をしてきてないんだ。予約は無効だよ」
「そんな硬いこと言うなよー。ちゃんと客が帰った時間に来たんだからさ」

多少なりともアルコールが入っているからか、実母の言葉をヒラリと躱しながら肩に担いでいた晋助さんをボックス席のソファーに下ろす神威さんは、ふぅと一息つきながら自身もソファーに座った。
その行動と言動に何を言っても無駄だと悟る江華さん。これはもう仕方がないと私にお冷の準備を託けそのまま立ち上がり、お店の扉を施錠した。
江華さんに言われた通りにグラスにお水を注ぎ、ボックス席に居る神威さんと晋助さんに持っていく。やや暖かいおしぼりと冷たいおしぼりも渡せば、神威さんからわかってるね、と言われた。

「ほらー、晋助起きなよー」
「……全く反応無いね。酒は強い方だと思っていたが、ここまで潰したのはどんな客なんだい?」
「あー、あれだよ。贔屓にしてくれてるオカマのお店の従業員が来て、一気に飲まされたみたい。まぁ、ここに飲みに来るつもりだったし、連絡無いと名前ちゃんが心配すると思って一応連れてきたんだけどね」
「ありがとうございます、神威さん」
「良いよ、気にしないで。お礼なら今度デートしてくれたら――アイタッ」
「店の子を口説くんじゃないよ」
「ちぇー」

拳骨はクリティカルヒットしたらしく、少し涙目になりながら神威さんは頭を擦っている。
さて、これからどうやって帰宅しようかとソファーで静かに寝息をたてる晋助さんの、滅多に見られないであろう寝顔を横目で確認しながら思考する。
タクシーでマンションまで帰ったとしても、私に晋助さんを運べるだろうか。大人の男性だし、私より体格は大きいので悩みどころである。ちらりと江華さんと話をしている神威さんを見れば、私が考えていることを理解しているのか、一緒に運ぶよ、と言ってくれた。

「なら私も行く」
「なんでお袋も来るんだよ」
「酒の回ったアンタじゃ送り狼になりかねないからね」
「ならないっての。晋助の家でヤッた事がバレたら俺、殺されるじゃん」
「さぁ、どうだかね。名前ちゃん、今日のタクシー代はバカ息子の奢りだよ。好き勝手に乗り回しな」
「あ、ははは……それは、ちょっと悪いというか……。あ、でも、私じゃ運べないと思うので、玄関まで送って下さると嬉しいです。家の中は、なんとか頑張ります」
「そう? 残念だなぁ」
「あわよくばを狙ってんじゃないよ。ほら、お前も酔ってんだからさっさと水飲んで頭回しな。帰るよ」
「ちぇー」

私から見れば大人っぽく見える神威さんなのだが、江華さんが居ると途端に年下になってしまうのは不思議だと思った。母は強し、なのかもしれない。
二杯分のお水を飲みきった神威さんからグラスを渡され、それを持ってカウンター内に戻り洗う。それが終わってから江華さんと一緒にレジの締め作業。そして日払い分のお給料を頂いた。少し多い金額だと思ったので伺えば、今日の分のタクシー代だ、と。今日は受け取れないと話をしたのだが、元々のその約束だと譲ってくれず、私は丸め込まれて受け取ってしまった。本当に、母は強し。
帰る準備を済ませると、神威さんが再度晋助さんを担いでくれていた。体格的には同じくらいなのに、男性が男性を担げるのは普通なのだろうか。筋肉の仕組みとかなのだろうか。ちょっと気になってしまったけれど、また今度聞けばいいやと納得させて全員でお店を出る。
鍵で施錠をして防犯システムを起動させれば、後は帰るだけだ。私と江華さん、そして神威さんと担がれてる晋助さんという不思議なメンバーではあるが、神威さんが饒舌なお陰でタクシーに乗り込んでからも退屈な思いをすることは無かった。
暫くしてマンションの前に到着。運転手さんには少し待ってもらう事にして、また四人でマンションのロビーへと入って行く。オートロックを解除し、エレベーターに乗り目当ての階層を目指してゆっくりと地上から離れていった。
その間も神威さんは一緒に居る江華さんに文句を吐露していたが、私を守るためだと言い返してプチ親子喧嘩が繰り広げられている。それでも起きない晋助さんは本当に泥酔してしまったのだろう、身動ぎをするものの起きる気配はない。
このまま担がれた状態で家に帰ってきたと知ったらどう思うのだろうか。神威さんに借りを作りたくないのなら、後ほど存分にイジられる晋助さんの不機嫌な顔を想像してみて、思わず笑みが漏れた。
玄関の前まで来てもらい、鍵を開けて家の中へと二人を招き入れる。神威さんにはそのまま部屋へ晋助さんを運んでもらい、江華さんは息子を監視するように玄関から様子を伺っていた。
折角手伝っていただいたのだからお茶でも、と言いたかったのだが、マンション下にタクシーを待たせているわけなのでまた後日御礼することを約束して、玄関から二人を見送る。下まで見送りをするつもりだったが、ここまで送った意味がないと言われてしまったので渋々玄関からにした。

「お疲れ様でした。お二人共、お気をつけて。ありがとうございました」
「気にしないでいいよ。じゃあ、また次の出勤日にね」
「晋助が起きたら連絡頂戴ねー! おやすみ、名前ちゃん」
「はい、わかりました。おやすみなさい」

ゆっくりと扉が閉まっていく。なんだか寂しいような、変な感じだ。
とりあえず、着替えたり化粧を落としたりする前に、台所でお水をコップに注ぎ、それを晋助さんの部屋へ運ぶ事にする。
晋助さんの部屋に入るのは、実は初めてだ。入るな、とも言われていないのだが、入る用も無かったのでそれが普通となっていた。
起こさないように、ゆっくりと、扉を開ける。カーテンの締まりきっていない窓から外の明かりが部屋に入ってきて、豆電球も点いているので極度の鳥目でない限りは部屋の様子が伺えた。良い意味で整理整頓されている、悪い意味で生活感の無い光景。
初めて侵入する領域に、ちょっとだけ胸が高鳴る。一歩、また一歩と晋助さんの眠るベッドへ向かえば、気配を感じてなのか、少し動いた。
ベッド脇のサイドテーブルにコップを置き、今なら意識を取り戻してくれるかもしれない、と声を掛けてみるが意味がないようだ。ただ、苦しいのか首元のネクタイに右手を這わせ、解こうという手の形で止まってしまった。
――これは、手伝うべきなのだろうか。
もしかすると、寝返りや寝相でネクタイが絡まり、首が絞められてしまうかもしれない。私が知らないだけでそんな事件や事故があったらどうしようか。責任はとれないし、可能性からすれば私が殺人者になってしまうかもしれない。そうなれば冤罪なのだが、冤罪を証明しようがない。
覚悟を決めるんだ、名前。このまま恩人を見殺しになんて出来ない。

「晋助さん、失礼しますね……?」

聴こえていない可能性しかないのだけれど、一応声を掛ける。ネクタイに添えられた右手を退かし、起こさないように、音を立てないように、静かにネクタイを解く。
衣擦れの音が部屋に響いて、自分の心臓の音が段々と大きくなっていって、わけのわからない恥ずかしさで息が止まりそうだ。
シュル、とネクタイの独特な質感が奏でる衣擦れの音が止まる。あとは、首からネクタイを抜けばいい。ここまで来て逃げることは許されない。やるんだ、名前!
思い切ってネクタイを抜き取れば、いつの間にか止まっていた呼吸が再開し、全身が熱く火照るのを感じた。……やり遂げたのだ。私は、今日、恩人の命を救えたのだ。等と達成感に浸っているのは、私も多少なりともアルコールが体内に残っているからだろう。
さて、手元にあるネクタイをサイドテーブルに置いて、この部屋から立去ればミッションコンプリートだ。今日はゆっくり眠れると思う。良い夢を見れそうだ。
コップから少し離して、皺にならないように丸めたネクタイを置く。安堵の深呼吸を繰り返した。
おやすみなさい。――と小声で話し掛け、晋助さんの部屋から立ち去る。なんて事は叶わず、私のミッションは失敗を告げると共に、目の前には薄青く光る天井から月明かりのせいなのか仄かに金色に揺らめく瞳が視界を占領していた。

(2021/02/25)