吹奏楽部員の人垣の先に、わずかに見える海咲の姿。それが最初の出会い。音楽室はえらく賑やかで、聖司はピアノが使えないことを悟るとすぐに踵を返したが、野次馬の声が静まりギターの音色が聞こえた瞬間、足を止めた。
再び音楽室に入り、壁にもたれて海咲の演奏に聞いた。人と人の隙間から見えた海咲のサラサラと揺れる髪に、気づけば釘付けになっていた。

文化祭実行委員にステージ発表への出演を依頼された海咲。ギターを触りに音楽室へ向かっていると、流れるようなピアノの音に足を止めた。先客だ。別日にすべきかと思いつつ、なんとなく忍び足で音楽室まで進むと、顔の整った男子の姿に動揺して顔を引っ込める。これは交渉の余地なし。踵を返して2、3歩進んだ時だった。突然ピアノの音が止まり、背後で「おい」と声がした。「何か用か」その冷ややかな口調に怯んだと思われないよう平然とする海咲。「いえ、誰もいなければ使おうと思ってたんですが」「ギターの練習か」「、えっ」聖司の胸元のクラス章を確認する。緑色ということは上級生のはずだ。なぜ知っているのか、目をパチクリさせていると聖司が答えた。「前にここで弾いてるのを見た」「ああ、そうだったんですね…」「練習か?それともまたリサイタルでもする気か」妙に棘のある言い回しに、会話を終わらせる方向で舵を切る海咲。「いや、練習しようと。でも家でも出来ますので。お邪魔しました」と少々強引に打ち切るも「言ってない」と何故か逆ギレされて思わず足を止める。「邪魔なんて言ってない。好きに使えばいいだろ」そう言って聖司は音楽室に戻ると、ピアノの蓋を閉めカバンを手に取るとスタスタ海咲の横を素通りして行ってしまった。

何なんだあの人。それが海咲の第一印象だった。

海咲の演奏は、中学時代の屈辱をフラッシュバックさせる。楽器が違ってもこんなに明確に分かるものなのかという驚きもあった。それは模倣できない、テクニック以外の何か。それを持つ者と比べられると、人格を否定されたようにさえ思える。弾けば弾くほど遠ざかる。なのに何故か、頭に浮かぶのは挫折や屈辱ではなくあのサラサラ揺れる髪のことだけだった。

その日、聖司はいつもより遅く音楽室に向かった。想像通りそこにはギターを構えた海咲がいて、聞けば文化祭のステージ発表用に選曲しているらしく聖司は楽譜を手に取り一緒になって考えた。ディズニーやジブリといったポピュラーな音楽を知っていることに驚かれたのが癪に障った聖司がピアノに座り演奏を始めると、海咲が見たことない表情を見せるのでつい気が良くなる聖司。「お前も弾け」「え?私そういうのは…」「適当にやればいい。俺が合わせる」この時、海咲はここ数ヶ月<天才ギタリスト>なんて呼ばれ自分が天狗になっていたことを痛感した。ピアノのテクニックを抜きにしても演奏ジャンルの幅、アレンジの豊富さ、音感やリズム感、そのどれも海咲の比ではなかった。ギターは中学まで。そう思っていた心がどこかで揺らぎ始めていた。

翌日、担任の氷室に呼ばれて教室を出ると、廊下に聖司の姿があり目を丸くした。すでに一年女子の間で認知され始めている聖司は廊下を行き交う女子生徒の注目の的だった。「彼には事前に話をしているが、私から提案がある」「文化祭のステージ発表は、二人のデュエットにしてみないか」海咲はすぐにアレを聞かれていたのだと察したが(吹奏楽部の部室は、音楽室の真上)まさかそれを聖司が了承すると思えなかった。「設楽からは了承を得ている。あとは君次第だが」「え、本当に?」思わず声に出てしまった。聖司は勘違いするなとばかりに「条件ならある。2曲までだ」と付け加える。2曲もいいんだ。「先輩がいいなら…よろしくお願いします」「よろしい。では文化祭実行委員には私から伝えておく」正直、共演自体はなんの異論もなかったが、海咲にはひとつ恐れていることがあった。それはそう、圧倒的な顔面格差。

掃除場所で話しかけてきた蘭子の顔をまじまじ眺めた海咲が「お肌綺麗だね」とぼやくと、ついさっき海咲が廊下で噂の上級生と話していたことを思い出した蘭子は、海咲の手を取り「任せて」と目を光らせた。放課後、聖司が海咲のクラスを覗きに行くと教室はもぬけの殻で、海咲が蘭子にドラックストアへ強制連行された後だった。

「遅い」音楽室に行くと、聖司が険しい顔して五線譜を渡した。海咲が蘭子に美容を指南されている間に候補をリストアップしてくれたらしい。曲を決め、練習日の話になると聖司は海咲が写真部に所属していると聞き耳を疑った。「写真部?」「はい。といっても作品撮りはほとんどしていなくて、部活とか行事の広報ばっかりですけど。なので木曜日は」「ギターは続けなかったのか」聖司の言葉に海咲は顔を上げた。

「お金がなくて」

家庭の事情で専門には通えないこと、この学校も奨学金を使って通っていること、今は趣味で弾いていること。聖司は最後まで表情を変えずに聞いた。「挫折したことは」「ないです」潔い即答だった。「挑戦しなかったからだと思います。先輩に会ってそう思いました。上には上がいて、私は上限を決めてたんだなって。美味しいとこだけ食べたって感じです」思いがけず海咲の考えに触れた聖司は、その冷静な自己分析と、それを的確に言語化できる能力を羨ましく思うと同時に、彼女にはいつか自分の心情も話してしまうような、そんな気がした。


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