マティーニ


"久しぶりにマティーニでも作らない?"

 先程耳にしたベルモットの言葉の余韻が残っている。聞きたくて聞いたのではない。勝手に耳に入って来たのだ。
 ジンとウォッカと共に訪れたバーでの事だ。歌姫の美声に周りの客が魅了されている時ーー彼女がウェイターに扮して現れた。ウォッカと私はさっぱりそれがベルモットだと気づかなかったが、ジンは直ぐに気づいて指摘するなり、さすがね、と甲高く笑い声を上げ誠実そうな男を装っていたマスクを外し、ふわりとプラチナブロンドの髪を靡かせ余裕の表情で私たちを見下ろした。

 手短に組織間での情報の共有を行ったが、ベルモットが口にした事が100%なわけもなく、恐らく一つまみ程度なのは流石の私でも察知した。勿論、それをウォッカが、じれったく思い話す様に促すが、彼女は妖艶な笑みを浮かべるのみ。

「この女の秘密主義は今に始まった事じゃない・・・」

 ジンが煙草に火をつけ睨みを効かせてベルモットを見上げた。そんなジンの瞳に交わるベルモットの視線。この二人の間に淀めく雰囲気から密接な関係が漂うのを私は、もやもやと心が疼く思いがして嫌々と目を逸らした。

「A secret makes a woman woman・・・」

 歌姫の美声なんか耳に入らない程にベルモットが口にした台詞が全身に響き渡って来た。瞬時に私は勢いよく彼女を見上げた。そして彼女も私を見ていたーーまるで私だけに強く言い聞かせるかの様に。

「女は秘密を着飾って美しくなるのよ」

 ベルモットはマットな赤い紅を引いた唇を歪ませた。そんな彼女の顔は本当に美しかった。でも、女には分かるーーこの笑みでどれだけの人を騙してきたか、人を陥れる悪魔の仮面だという事を。
 でも私は彼女に何て言葉を返したら良いか分からず、僅かに開いた唇の隙間から吐息が零れるだけだった。

「・・・ヘドが出るぜ・・・」

 私の隣に座るジンが低い声で毒づいた。ジンの声に心臓が震えた。恐らくジンの台詞には何の意図もないと思うーーでも、私はジンが助け舟を出してくれたように思えた。ジンは口数が少なくて目つきも鋭い。私に指示する時だって命令口調であるし・・・はっきり言って人相の悪い人物だーーしかし、ジンはいつだって私をさり気なくサポートしてくれる存在だった。今だってそう・・・相手からしたら不愉快だと思うけどーーでも、そんなジンの隠れた優しさに私は心惹かれているかもしれない。

 知らずうちに私の視線はジンに向けていた。ハッとして瞳を泳がせるとベルモットが何か察した様子で怪しい笑みを浮かべながら、私の後ろを通り過ぎ、ジンのもとへーーそしてジンの肩に腕を置き、耳元へと顔を寄せた。
 そして彼女は囁いた。

「今夜、久しぶりにマティーニでも作らない?」

 囁きじゃないーー。
しっかり私やウォッカに聞こえる様にだ。そして彼女は更に、また私に強く言い聞かせる様に私を見ながら口にした。でも私にはベルモットが言っている事の意味が分からなかった・・・。それはウォッカも同じ様だった。そしてウォッカが不思議そうに「マティーニをですかい・・・?」疑問を投げた。
 するとベルモットは疑問を投げ掛けたウォッカではなく私に目配せ、にや、と笑みを浮かべた。思わず胸がドキッと鳴った。

「知らないの?ジンとベルモットが交わればーー。」

「フン・・・」ベルモットの言葉を制したのはジンだった。ハットが目に被っていて煙草を咥える口元しか見えなかったが笑っている。

「黒と黒が混ざっても・・・黒にしかならねぇよ・・・」

 ジンが意味深な言葉を囁くとベルモットは、んふふ、と徐々に込み上げる笑いを上げた。同時に歌姫の美声に対しての喝采が飛び交って、ジンの冷淡さ、そして何とも言えない様な味気ない表情のウォッカ、そしてベルモットの言った台詞の意味を理解し、煙たい気持ちの私ーー不穏な空気が私たち四人に渦巻いていた。

 徐々に笑いを制してベルモットは改めて傲岸な顔つきを貼り、私を見つめた。次は一体何を言うのかーー心臓がバクバクと脈打っていた。

「てことはジン・・・、ミモザ、貴女にはまだ白の割合が強いのかしら」

 ベルモットの台詞にハッと目を見開いた。一体どういう意味なのだろうかーーそれじゃ、私とジンの間に何かある様ではないか・・・ただ一方的に私がジンを良く思っているだけであるのに。これではジンに変な負担を掛けてしまうのでは無いか・・・。
 特に言葉を返すことなく、口をへの字に閉ざすジンを見て私は更に困惑して口を開いたまま言葉は出ず、必死で瞳で訴える事しか出来なかった。
 ベルモットは私のその反応に満足したのか、笑みを浮かべ「精々、黒に染められない事を祈るわ」私たちに背を向け軽く手を振りながら裏の方へと去っていった。




 そして現在、私、ジン、ウォッカの三人は店を後にし、ジンの運転するジンの車ーーポルシェ356Aに乗り、走行している。
 大体、助手席に座るのは私で、ウォッカは後部座席に座り、今は腕を組み顔を下に向け寝ている様だった。ある意味、ジンと私だけの空間。先程のベルモットの台詞が頭でぐるぐると渦巻いていて隣に座るジンを、何度も一瞥してしまっている。そして視線を逸らすたびに小さくため息を零していた。
 正直、ショックだったーー。ジンとベルモットが肉体関係である事に・・・。でもベルモット曰く、"久しぶり"と言っていたから暫くは無かったという事だーーだが、それでも二人が交じり合う姿が鮮明に脳裏に浮かんでしまうーーそれを消すように首を振って、眉根を寄せジンを見つめ、はあ、とため息を零す。

「さっきから何なんだ・・・」

ジンの鋭い双眸が私に注がれた。丁度車が停車し、ジンは煙草を手に取り火をつけ咥えた。そしてまた車が走り出す。

「あ・・・」

言葉が出なかった。何て言ったら良いか分からなかったのだ。私が言葉に詰まり視線を泳がせるとジンは「フン・・・」と何か察した様子で笑った。

「あの女の事か」

ジンの声が耳を揺さぶった。私は一瞬瞳を大きく見開き、ジンの横顔から視線を逸らし、それでもジンを見ていたくて、ジンの咥える煙草に目を注いだ。

「その通りです・・・」

 弱々しく返事するとジンは、ニタリと口元を緩め「やはりな」と口にした。私の感情を見据えてしまうジンーー何だか丸裸な気分になり顔が熱くなってきた。
 何も言葉を返せずに、車内にはエンジン音だけが響いた。

暫くして、その沈黙を破ったのはジンだったーー。
「安心しろ」ジンが煙草を灰皿に押し付け落ち着いた口調で囁いた。

「俺が黒く染めるさ」

ギラリとしたジンの眼光が私の瞳を捉えた。恐怖、怯え、ではないが身震いした。体中、芯まで揺さぶられた。
でも、私は直ぐに、はい、と口元を緩め返事をした。嬉しかったーー彼に黒く染められるなら・・・。
そして今ようやく思いついたーー先程ベルモットに何て言葉を返したら良いのか。
"私は、もうグレーがかっている"
そう返せば良かったな、とーー私の言葉に一体彼女はどんな表情をするのか、そんな事を考えながら外の流れる景色を眺めた。