ひとときを

*純黒の悪夢のラストシーン

 私の上司は口調がとても厳しい。あれをやれ、これをやれ、何でも命令口調だ。でもその割には、あまり私に危険な負担を掛けさせない。どうやらそれは先輩にも伝授されていたらしい。彼は無口で必要以上に喋らない、でもあの時は違ったーー。
 黒の組織の一員、キュラソーの件でワケ合って東都水族館にある大観覧車に乗らなければならないらしく、同じ女性であるから、と同乗する事を志願した時だ。

"お前は大人しく下で待機していろ"

 その時の先輩、風見さんの口調、目つき、全てが上司、降谷零と重なった。わかりました、とふてぶてしく返事する事しか出来なかった。

 私は今、自車の後部座席に横たえて、現実から背ける様に腕で目を覆い、二人の男の事を考えていた。ーーその二人の男が無事生きているのか。

 風見さんがキュラソーと共に大観覧車に乗車して暫くしてからだ。
風見さんと唯一交信を可能にする無線機が切れたーーその瞬間、一台の黒いヘリが大観覧車に上空から近づいた。

 どうしようも出来ず、風見さんの無事を祈って大観覧車を見上げる事しか出来なかった。
 
 そして暫くして携帯の着信音が鳴ったーー液晶画面を見るとそこには"降谷零"と表示されていて直ぐに通話を押した。

「如月、遅い。」

受話口から聞こえてきた声に、じわじわと胸から何かが溢れてきた。確かにこの声は降谷さんだ。少し不機嫌そうな口調が更に"彼だ"と主張している。

「降谷さん…ごめんなさい!」

 今にも零れそうになる涙を堪える様に大観覧車を見上げた。風見さんはまだあの中にーー、どうにも出来ない自分が物凄く腹ただしかった。
 受話口の向こうから「如月」吐息混じりに呼ばれた。「降谷さん…」降谷さんだったらどうにかしてくれる…いつもみたいに縋る様に名を呼んだ。

「……また泣いているのか。」
「…泣いて…ないです…」

 少し間を置いて嘘を吐いた。でもきっと降谷さんにはお見通しなんだと思う。ただこれ以上の負担をかけたくなくて最優先の事項を伝えた。

「それより大変なんです!風見先輩が観覧車の中にーー」私の言葉を制する様に降谷さんの「生憎俺もだ。」強弱の激しい私のとは違って落ち着いた口調が重なった。
 瞬時に理解できなくて、え、と微かな吐息を零した。どうして降谷さんもあそこにーー?

「爆弾処理をしている」
「そんな…!大惨事じゃないですか…!どうして電話を…?」

 なぜそんなにも落ち着いているのだろうか、なぜ私に着信をかけたのか不思議で仕方がないーー時に降谷さんが恐ろしく思えた。
 すると受話口の向こうで、ふっと小さく笑い声が聞こえた。

「こうも手の掛かる部下がいると死ぬわけにはいかない、と思えるからか」

 そんな…、と降谷さんの言葉に思わず息が詰まった。相変わらず降谷さんは、くくく、と喉を鳴らして笑っていた。
 言葉を返せないでいると「如月」信じられない程、穏やかで優しい口調で降谷さんが私の名を呼んだ。今まで聞いたことがない。

「風見の事は俺に任せろ」

 心に突き刺さるぐらいに真っ直ぐな声色で降谷さんは云った。そして私の返事を訊くことなく通話が切られた。
 その瞬間ーー大観覧車に向かって無数の銃弾の雨が注がれた。私は力なく端末を手にした腕を落とし、漠然と揺れる視界でそれを見ている事しか出来なかった。






 車外の騒がしさが先ほどよりも増した気がするーー。目を覆う腕を少しずらして窓から外を覗こうとしたが、潤んだ視界で何も見える気がしなかった。

降谷さん…風見さん…

 二人の面影が妙に懐かしく感じられた。
はあ、と惜しみの籠った息を零した時だったーーサイドウィンドウをノックするガラスの乾いた音が車内に響いた。ハッと心臓が高鳴り、勢いよく体を起こし目をやると、そこには、不機嫌そうに眉を顰めて、辺りを警戒する様に一瞥する降谷零が立っていた。

「降谷さん…!」

 私は直ぐにドアのロックを解除した。すると降谷さんは「遅い」と毒づき、軽く舌打ちをして私を押す様に車に乗り込んできた。
 ふう、と息を吐いて、シートにもたれかかり瞼を閉じる降谷さん。確かに私の隣に降谷さんがいるーー夢じゃない、生きている。
 込み上がる気持ちを抑えながら見つめていると、降谷さんが瞼を上げ鋭い瞳を私に向けたーー思わず心臓がドキッとした。

「お前は、呑気に寝ていたのか」

 少し棘のある口調。私はいつもの降谷さんに胸が一杯になり、言葉が出ず首を左右に振ろうとした時ーー降谷さんの少しゴツゴツとした手が私の頬を撫でて、ふっと笑った。私は降谷さんらしからぬ行動に思わず身を屈めた。

「いや、寝ていない様だな…隈が酷い。化粧も酷く崩れているな」
「…そんな事言わないで下さい」

 ちょっと優しい…とドキッとしてしまった自分を恨んだ。やっぱり降谷さんは意地悪な降谷さんだーー。
 ふて腐れた様子で視線を落とした。

「…やはり泣いてたのか」

 降谷さんの言葉にハッと顔を上げた。やっぱりこの人にはなんでもお見通しらしい。

「風見も生きてる」
「良かった…」

 思わず安堵の笑みが零れた。降谷さんならやってくれると思った。流石降谷さんだな、と思いながら感謝も込めて降谷さんに顔を向けると、何故か不機嫌そうに眉根を寄せていた。

「上司の俺の心配はしないのか」
「あっ、えっと…降谷さんも無事で何よりです…!」

「ふっ本当に思ってるのか」何処か嬉しそうに口元を緩める降谷さんを私は思わず、じっと見つめてしまっていた。今日の降谷さんは何だか柔らかい様な気がした。
 そんなことを思っているとまたもや降谷さんが訝しげに私を睨んだ。

「なんだ」
「いえ…やっぱり降谷さんだなって…」

 こうやってまともに会話をしたのは久々な気がして、嬉しさが込み上がり照れかしげに口元が歪んだ。すると降谷さんは「相変わらず分からない奴だ」なんて呆れた様に呟いた。私はそう言われても何にも不愉快では無かった…寧ろ心地良かった。

 暫くして降谷さんは、はあ、と息を零し、瞼を閉じ、開けた時には目つきがキリッと別の人物の様に変わっていた。そしてそれを私に向けた時ーー思わず胸がドキっとした。

「手の掛かる部下の様子も見れた事だし、俺は行くよ」

 え、と吐息が零れた。そうか、降谷さんは黒の組織の一員を装って捜査をしているんだったーー
 車を出ようと背を向けた降谷さんのシャツを控えめに掴んだ。降谷さんの動きが止まり私の方に頭を傾げた。

「…嫌です、行かないでください…」

 声が凄く震えた。抑えようにも抑えきれない。下瞼に涙が溜まっているのを悟られたくて、掴んだシャツの部分に視線を落とした。

「…如月…」
「心配です…やっぱり組織に潜り込むなんてーー」

 吐息混じりに降谷さんの声が車内に零された。
この空間から出てしまったらもう降谷さんではない。組織に紛れる組織の一員だ。私は不安で仕方がなかったーー今回の風見さんの事もあってその不安は更に募った。私は、胸の内を素直に吐き出した。

 するとーーふわりと降谷さんの香りが私を包み込んだ。突然の事に顔を上げると、更にぎゅーっと力強く私の背に回る降谷さんの手が私を引き寄せた。

「降谷さん…?」

 恐る恐る呼んでみると、降谷さんが「如月」何とも切ない、消え入りそうな声で私を呼んだ。
 今まで聞いたことのない降谷さんの声色に胸が苦しくなった。同時にとてつもなくこの人の事を愛おしく感じた。
 すると降谷さんが私の耳元に唇を寄せた。

「すまない…暫くこのままでいさせてくれ…」

 私は、はい、と小さく返事をし、ゆっくりと降谷さんの背に腕を回した。