テイクアウト
机に散らかっていた酒缶の残骸の始末をし、灰皿交換、掃除機がけ、そして今週の依頼内容の整理、メール受信箱の確認、全てを終わらせて時計を見ると、いつの間にか秒針が一時を過ぎた時間帯になっていた。
ソファに寝転び競馬中継と新聞紙に夢中な、この探偵事務所の社長さんを一瞥しため息を零した。
「毛利さん!…お昼ご飯どうなさいますか?」
イヤホンをつけた耳に大きな声で訊くと、疎ましそうな顔をして私に目配せ「何でも良い」と軽く言い放った。その直後、自分が賭けに出た馬が良い転機を迎えた様で「いけ、いけ」と力のこもった声を上げている。私は更に溜息をつき呆れた、と云う様に視線を浮かせた。
冷蔵庫には、ろくなものが入っておらず、どうやら蘭ちゃんが学校帰りに買い出しに行くらしい。出前を頼もうかとチラシを探そうとしたが、その行方も蘭ちゃんしか知らない…更に息の塊をついた。
さて、どうしようと思った時ある事を思いついた。
「ポアロってテイクアウト出来たっけ…」
私の呟きに毛利さんが耳を傾けているわけもなく、自己判断した結果実際に行ってみるのが早いと思い、「下に行ってきます」とだけ伝えて事務所を出た。その際、毛利さんが燃え尽きた様に頭を堕落させていたのが印象深い。
トントンと階段を駆け下りて大窓からポアロを覗くと、ランチタイムのピークが過ぎた様で、一人客の人がちらほらといる程度だった。
「いらっしゃいまーーユメ子さん」
カランコロンと客の入出を知らせる音が鳴ると、カウンターの奥の方から安室さんが爽やかな笑顔を浮かべて出てきたのだが、私を見るなり人懐っこそうにはにかみながら挨拶を言い終える前に私の名前を口ずさんだ。
「安室さん、こんにちは」
「こんにちは…えっと…」
安室さんは、私が毛利探偵事務所で働いていることを知っている為、勤務中であるはずだ、と思ったらしく不思議そうに首を傾げた。
「実は…毛利さんと私、お昼がまだで…冷蔵庫に食材も無く、出前を頼もうと思ったらチラシもなくーーで、ポアロはテイクアウト出来るかなって…」
私は苦笑しながら恐る恐る訊いた。すると安室さんは丸くしていた目をぱちりと瞬かせ、「なるほど」と笑みを浮かべた。
「テイクアウトはしていないですけど、僕からの差し入れという事で事務所までお届けしますよ」
「梓さんには内緒です」人差し指を唇に当て、片目を閉じながら小声で云う安室さんに私は微かにドキッとした。更に安室さんは私の耳元に顔を寄せる。
「ユメ子さんにだけのサービスです」
ひっそりと囁く安室さん。私は思わずハッとして、顔を離した安室さんを目を丸くしてじっと見つめた。安室さんは何だか悪戯心の溢れる表情を浮かべている。
「あっ、ありがとうございます!…では上で待ってますね!」
私は無性に恥ずかしくなり、サッと頭を下げ、逃げる様にアポロを後にした。安室さんって凄く女心を弄ぶのが上手だと思うーー言葉、表情、仕草、全てに、もしかして私の事が好きなんじゃないかなって変な錯覚に陥れる術を持っている。
それに、安室さんが働き始めてからポアロの女性客の割合が増えた気がする。それを考えるとちょっとふくれっ面をしてしまうのだが、先ほどの安室さんの私に言った言葉には、他の女性達よりも一歩上をいっている様な気がして優越的な気持ちになった。
「昼食、お持ちいたしました」
私がポアロを後にし、暫くして安室さんが爽やかな声と共に、ずらりと彩の良いサンドイッチをお皿に乗せてやって来た。勿論それが彼の手作りだという事は知っているーー以前、梓ちゃんから、安室さんのサンドイッチは格別です、と顔を近づけられてまで言い聞かせられたから。
そして安室さんがテーブルにサンドイッチの乗ったお皿を置くなり、毛利さんは待ってましたと言わんばかりに一つ手に取って、がぶりついた。それを私は呆れた様に苦笑し、安室さんは微笑ましそうにして眺めた。
ふと安室さんの視線を感じた。
「ユメ子さん、御帰宅は何時ごろになりますか…?」
何の前触れもなく訊かれた。私は首を傾げ「五時上がりですよ?」と顔を見上げた。すると、安室さんは、ほっと息をつくようにニコッと笑みかけた。その少年のような笑みに微かに心がくすぐられる。
「奇遇ですね、僕もです」更に安室さんは言葉を続ける。
「ユメ子さんが良かったら、自宅まで送りますよ」
私はハッと息を飲んだ。
「迷惑じゃないですか…?」
恐る恐る訊くと、安室さんは小さくかぶりを振った。
「はい」心の底から嫌気のない爽やかな口調だ。そして私は10秒ぐらい間を置いてから口を開いた。
「じゃあ…お言葉に甘えさせて頂きます」
もじもじと申し訳なさそうに上目遣いに安室さんを見ると、にこっと微笑んだ。彼の笑顔に対する免疫がまだ備わっていないーー照れ隠しする為に視線を逸らした。
「では、店の前でお待ちしてます…後ほど」
安室さんは真摯な、それでいて何処か喜ばしそうな口調で云い、私に目配せ、事務所から出ていった。安室さんの車に、安室さんと私、二人きりで、と想像したら、心臓が騒がしくなった。時計を見ると後何時間後…と、ささやかなカウントダウンが始まった。
不思議なもので、楽しみで仕方がないのに緊張で、その時が近づかないで欲しいと矛盾な思考になると時間は、とてつもなく早く過ぎるみたいだ。
「毛利さん、お疲れ様です」
退勤時間を迎え、夕方のニュースに目配せる毛利さんに軽く挨拶をし、ドアを開けると丁度蘭ちゃんがドアを開けようとしていた。食材が沢山詰められたスーパーの袋を両手に持ち「お疲れ様です」と笑顔を向けた蘭ちゃんに「蘭ちゃんも」と同じ様に微笑みかけ、階段を駆け下りた。
歩道に出ると、すぐ目の前の道路にホワイトカラーのRX-7が停まっていた。なんて彼らしいんだ、と思った。
サイドウィンドウから顔を覗かせると奥の運転席に安室さんがいて、私に気づくなり笑みを浮かべた。つられるように私も笑みを浮かべ、ドアを開けた。
「今日は本当にありがとうございました。」
場所を告げて、走行し始めてから直ぐにサンドイッチのお礼をした。
「いえいえ僕の勝手なサービスですから」
控えめに云う安室さんを一瞥し「助かりました…」と心の底から穏やかな口調で呟いた。更に私は言葉を紡いだ。沈黙の間が気まずいとかいう理由では無くて、二人きりの空間で誰よりも多く繋がっていたかったからーー。
「普段は私が作ったりしてるんですよ」
サイドウィンドウから外を見ると、すっかり街灯の明かりが街を包み込んでいた。安室さんは、そうなんですか、と少し驚いた様子で声を上げた。
「毛利さん羨ましいなあ…ユメ子さんの手料理をご馳走になれるなんて…」
「そんな…!たいしたものじゃないです…」
さらに此方の気分を上げる様な言葉をごく自然に呟く安室さんを一瞥し、勢いで上がってしまいそうになった声を慎む様に抑えた。
その後、少しの沈黙の時間が始まったーー私はそれを埋める様に息を吸った。
「今から食べに来ますか?」
息を吐くのと同時に言葉にした瞬間、驚いた。まさか自分が、そんな事を口にしてしまうとは思わなかった。
丁度、信号待ちで停車し「良いんですか」と少し驚いた様子で、でも何処か嬉しそうに目配せる安室さん。
「はい!今日のお詫びです!」
私は安室さんの少年の様に好奇心に満ちた瞳に笑みかけた。
暫くして、マンションに到着した。駐車場付きにも関わらず使われていないそこに車を停め、横に並んで歩き、エレベーターの上向き印のボタンを押し、乗り込んだ。その時私は、いろいろな事を考えていたーー例えば、今朝食器は洗ったけとか、寝室の扉は閉めていたっけとか、下着を室内干ししていったけとかを。
扉の前でカバンから鍵を取り出し、それを差し込み回し、ガチャッとロックの外れる音が耳にジーンと響き渡ってきた。
そして扉を開き、「どうぞ」と安室さんを招いた。安室さんは「お邪魔します」と挨拶し、私の家に入った。
「適当にくつろいでください」
玄関から短い廊下を抜けて、リビングダイニングキッチン、すべてが一つの空間に詰め込まれた部屋に通し、安室さんの前を通り過ぎようとした時だったーーふいに腕を掴まれた。
え、と少し動揺しながら安室さんを見た。安室さんは、どこか不機嫌そうに眉根を寄せていた。
「一つ聞いても良いですか」
真っ直ぐ私の微動する瞳を捉えて、腕を引かれた。私は、少しよろけながら、安室さんに向き合った。何を訊かれるのだろう、と息を飲んで頷いた。
「君は…そうやって簡単に男の人を部屋に呼ぶんですか」
「…え?」
間抜けな声が零れた。安室さんはかぶりを振って、はあ、と溜息をついた。
「探偵の僕から言わせてもらうと少し、警戒心に欠けていると思います」
安室さんの言葉がずっしりと私に圧し掛かって来た。確かに安室さんの言う事は正しいのかもしれない…お詫びだからといって簡単に部屋にあげてしまうのは危機感がないーーしかし、私は掴まれた腕を振るって顔を上げた。
「安室さんだからですよ…」
少し声が震えた。それと顔が物凄く熱い。恐らく赤面しているだろう。
「安室さんだから呼んだんです…」
まるで下心丸出し、というか、もう安室さんのことが好きだと伝えている様なものだった。
安室さんは私の言葉にグレーの瞳をパッと見開いてから、ふっと笑みを浮かべた。そして突然、グッと腰を引かれ、さらに距離が縮まった。
目を細めながら、私の唇を指で撫でた。
「もしかしたら僕が君を襲うかもしれない…そう考えたりしないんですか」
囁きに近く、身が震えてしまう声色だった。さらに安室さんの指がいやらしく私の唇を弄んでいる。
安室さんの言葉は本当に正しい。男と女が二人きりで同じ空間にいたら何があってもおかしくない状況であると理解していた。
それでも私は、安室さんならーーと。
「…しました…でも、安室さんだったら良いです」
照れ隠し気に下げていた目を上げて、安室さんの瞳をじっと見つめた。
「私、安室さんのことがーー」
最後まで言い切る事が出来なかったーーなぜなら、安室さんが私の唇を塞いだから。思わず目を見開いた、すぐ目の前にある安室さんの顔。そして、ゆっくりと離れていくーー。
ちゅっと軽く触れるだけの優しい口づけだった。
「駄目です…僕から言わせてください。」
唇に安室さんの吐息が注がれる。安室さんは真剣な顔つきで私を見つめている。
「ユメ子さんのことが好きです。」
トクンと胸中で何かが落ちる音がした。信じられない、と言う様に耳を疑った。安室さんが私を好き…?、夢なのか現実なのか困惑した。
しかし安室さんの眼差しが、夢じゃない現実だ、といっている。私は恥ずかしさのあまり視線を逸らし、一度深呼吸をしてから安室さんの真剣な眼差しを見上げた。
「私も好きです。」
一言一句つまづかない様にはっきりと伝えた。すると安室さんは顔を綻ばせ、鼻と鼻がぶつからない様に顔を傾けながら近づき「良かった」と私の唇に言葉を注ぎ、もう一度、口づけを交わした。
ソファに寝転び競馬中継と新聞紙に夢中な、この探偵事務所の社長さんを一瞥しため息を零した。
「毛利さん!…お昼ご飯どうなさいますか?」
イヤホンをつけた耳に大きな声で訊くと、疎ましそうな顔をして私に目配せ「何でも良い」と軽く言い放った。その直後、自分が賭けに出た馬が良い転機を迎えた様で「いけ、いけ」と力のこもった声を上げている。私は更に溜息をつき呆れた、と云う様に視線を浮かせた。
冷蔵庫には、ろくなものが入っておらず、どうやら蘭ちゃんが学校帰りに買い出しに行くらしい。出前を頼もうかとチラシを探そうとしたが、その行方も蘭ちゃんしか知らない…更に息の塊をついた。
さて、どうしようと思った時ある事を思いついた。
「ポアロってテイクアウト出来たっけ…」
私の呟きに毛利さんが耳を傾けているわけもなく、自己判断した結果実際に行ってみるのが早いと思い、「下に行ってきます」とだけ伝えて事務所を出た。その際、毛利さんが燃え尽きた様に頭を堕落させていたのが印象深い。
トントンと階段を駆け下りて大窓からポアロを覗くと、ランチタイムのピークが過ぎた様で、一人客の人がちらほらといる程度だった。
「いらっしゃいまーーユメ子さん」
カランコロンと客の入出を知らせる音が鳴ると、カウンターの奥の方から安室さんが爽やかな笑顔を浮かべて出てきたのだが、私を見るなり人懐っこそうにはにかみながら挨拶を言い終える前に私の名前を口ずさんだ。
「安室さん、こんにちは」
「こんにちは…えっと…」
安室さんは、私が毛利探偵事務所で働いていることを知っている為、勤務中であるはずだ、と思ったらしく不思議そうに首を傾げた。
「実は…毛利さんと私、お昼がまだで…冷蔵庫に食材も無く、出前を頼もうと思ったらチラシもなくーーで、ポアロはテイクアウト出来るかなって…」
私は苦笑しながら恐る恐る訊いた。すると安室さんは丸くしていた目をぱちりと瞬かせ、「なるほど」と笑みを浮かべた。
「テイクアウトはしていないですけど、僕からの差し入れという事で事務所までお届けしますよ」
「梓さんには内緒です」人差し指を唇に当て、片目を閉じながら小声で云う安室さんに私は微かにドキッとした。更に安室さんは私の耳元に顔を寄せる。
「ユメ子さんにだけのサービスです」
ひっそりと囁く安室さん。私は思わずハッとして、顔を離した安室さんを目を丸くしてじっと見つめた。安室さんは何だか悪戯心の溢れる表情を浮かべている。
「あっ、ありがとうございます!…では上で待ってますね!」
私は無性に恥ずかしくなり、サッと頭を下げ、逃げる様にアポロを後にした。安室さんって凄く女心を弄ぶのが上手だと思うーー言葉、表情、仕草、全てに、もしかして私の事が好きなんじゃないかなって変な錯覚に陥れる術を持っている。
それに、安室さんが働き始めてからポアロの女性客の割合が増えた気がする。それを考えるとちょっとふくれっ面をしてしまうのだが、先ほどの安室さんの私に言った言葉には、他の女性達よりも一歩上をいっている様な気がして優越的な気持ちになった。
「昼食、お持ちいたしました」
私がポアロを後にし、暫くして安室さんが爽やかな声と共に、ずらりと彩の良いサンドイッチをお皿に乗せてやって来た。勿論それが彼の手作りだという事は知っているーー以前、梓ちゃんから、安室さんのサンドイッチは格別です、と顔を近づけられてまで言い聞かせられたから。
そして安室さんがテーブルにサンドイッチの乗ったお皿を置くなり、毛利さんは待ってましたと言わんばかりに一つ手に取って、がぶりついた。それを私は呆れた様に苦笑し、安室さんは微笑ましそうにして眺めた。
ふと安室さんの視線を感じた。
「ユメ子さん、御帰宅は何時ごろになりますか…?」
何の前触れもなく訊かれた。私は首を傾げ「五時上がりですよ?」と顔を見上げた。すると、安室さんは、ほっと息をつくようにニコッと笑みかけた。その少年のような笑みに微かに心がくすぐられる。
「奇遇ですね、僕もです」更に安室さんは言葉を続ける。
「ユメ子さんが良かったら、自宅まで送りますよ」
私はハッと息を飲んだ。
「迷惑じゃないですか…?」
恐る恐る訊くと、安室さんは小さくかぶりを振った。
「はい」心の底から嫌気のない爽やかな口調だ。そして私は10秒ぐらい間を置いてから口を開いた。
「じゃあ…お言葉に甘えさせて頂きます」
もじもじと申し訳なさそうに上目遣いに安室さんを見ると、にこっと微笑んだ。彼の笑顔に対する免疫がまだ備わっていないーー照れ隠しする為に視線を逸らした。
「では、店の前でお待ちしてます…後ほど」
安室さんは真摯な、それでいて何処か喜ばしそうな口調で云い、私に目配せ、事務所から出ていった。安室さんの車に、安室さんと私、二人きりで、と想像したら、心臓が騒がしくなった。時計を見ると後何時間後…と、ささやかなカウントダウンが始まった。
不思議なもので、楽しみで仕方がないのに緊張で、その時が近づかないで欲しいと矛盾な思考になると時間は、とてつもなく早く過ぎるみたいだ。
「毛利さん、お疲れ様です」
退勤時間を迎え、夕方のニュースに目配せる毛利さんに軽く挨拶をし、ドアを開けると丁度蘭ちゃんがドアを開けようとしていた。食材が沢山詰められたスーパーの袋を両手に持ち「お疲れ様です」と笑顔を向けた蘭ちゃんに「蘭ちゃんも」と同じ様に微笑みかけ、階段を駆け下りた。
歩道に出ると、すぐ目の前の道路にホワイトカラーのRX-7が停まっていた。なんて彼らしいんだ、と思った。
サイドウィンドウから顔を覗かせると奥の運転席に安室さんがいて、私に気づくなり笑みを浮かべた。つられるように私も笑みを浮かべ、ドアを開けた。
「今日は本当にありがとうございました。」
場所を告げて、走行し始めてから直ぐにサンドイッチのお礼をした。
「いえいえ僕の勝手なサービスですから」
控えめに云う安室さんを一瞥し「助かりました…」と心の底から穏やかな口調で呟いた。更に私は言葉を紡いだ。沈黙の間が気まずいとかいう理由では無くて、二人きりの空間で誰よりも多く繋がっていたかったからーー。
「普段は私が作ったりしてるんですよ」
サイドウィンドウから外を見ると、すっかり街灯の明かりが街を包み込んでいた。安室さんは、そうなんですか、と少し驚いた様子で声を上げた。
「毛利さん羨ましいなあ…ユメ子さんの手料理をご馳走になれるなんて…」
「そんな…!たいしたものじゃないです…」
さらに此方の気分を上げる様な言葉をごく自然に呟く安室さんを一瞥し、勢いで上がってしまいそうになった声を慎む様に抑えた。
その後、少しの沈黙の時間が始まったーー私はそれを埋める様に息を吸った。
「今から食べに来ますか?」
息を吐くのと同時に言葉にした瞬間、驚いた。まさか自分が、そんな事を口にしてしまうとは思わなかった。
丁度、信号待ちで停車し「良いんですか」と少し驚いた様子で、でも何処か嬉しそうに目配せる安室さん。
「はい!今日のお詫びです!」
私は安室さんの少年の様に好奇心に満ちた瞳に笑みかけた。
暫くして、マンションに到着した。駐車場付きにも関わらず使われていないそこに車を停め、横に並んで歩き、エレベーターの上向き印のボタンを押し、乗り込んだ。その時私は、いろいろな事を考えていたーー例えば、今朝食器は洗ったけとか、寝室の扉は閉めていたっけとか、下着を室内干ししていったけとかを。
扉の前でカバンから鍵を取り出し、それを差し込み回し、ガチャッとロックの外れる音が耳にジーンと響き渡ってきた。
そして扉を開き、「どうぞ」と安室さんを招いた。安室さんは「お邪魔します」と挨拶し、私の家に入った。
「適当にくつろいでください」
玄関から短い廊下を抜けて、リビングダイニングキッチン、すべてが一つの空間に詰め込まれた部屋に通し、安室さんの前を通り過ぎようとした時だったーーふいに腕を掴まれた。
え、と少し動揺しながら安室さんを見た。安室さんは、どこか不機嫌そうに眉根を寄せていた。
「一つ聞いても良いですか」
真っ直ぐ私の微動する瞳を捉えて、腕を引かれた。私は、少しよろけながら、安室さんに向き合った。何を訊かれるのだろう、と息を飲んで頷いた。
「君は…そうやって簡単に男の人を部屋に呼ぶんですか」
「…え?」
間抜けな声が零れた。安室さんはかぶりを振って、はあ、と溜息をついた。
「探偵の僕から言わせてもらうと少し、警戒心に欠けていると思います」
安室さんの言葉がずっしりと私に圧し掛かって来た。確かに安室さんの言う事は正しいのかもしれない…お詫びだからといって簡単に部屋にあげてしまうのは危機感がないーーしかし、私は掴まれた腕を振るって顔を上げた。
「安室さんだからですよ…」
少し声が震えた。それと顔が物凄く熱い。恐らく赤面しているだろう。
「安室さんだから呼んだんです…」
まるで下心丸出し、というか、もう安室さんのことが好きだと伝えている様なものだった。
安室さんは私の言葉にグレーの瞳をパッと見開いてから、ふっと笑みを浮かべた。そして突然、グッと腰を引かれ、さらに距離が縮まった。
目を細めながら、私の唇を指で撫でた。
「もしかしたら僕が君を襲うかもしれない…そう考えたりしないんですか」
囁きに近く、身が震えてしまう声色だった。さらに安室さんの指がいやらしく私の唇を弄んでいる。
安室さんの言葉は本当に正しい。男と女が二人きりで同じ空間にいたら何があってもおかしくない状況であると理解していた。
それでも私は、安室さんならーーと。
「…しました…でも、安室さんだったら良いです」
照れ隠し気に下げていた目を上げて、安室さんの瞳をじっと見つめた。
「私、安室さんのことがーー」
最後まで言い切る事が出来なかったーーなぜなら、安室さんが私の唇を塞いだから。思わず目を見開いた、すぐ目の前にある安室さんの顔。そして、ゆっくりと離れていくーー。
ちゅっと軽く触れるだけの優しい口づけだった。
「駄目です…僕から言わせてください。」
唇に安室さんの吐息が注がれる。安室さんは真剣な顔つきで私を見つめている。
「ユメ子さんのことが好きです。」
トクンと胸中で何かが落ちる音がした。信じられない、と言う様に耳を疑った。安室さんが私を好き…?、夢なのか現実なのか困惑した。
しかし安室さんの眼差しが、夢じゃない現実だ、といっている。私は恥ずかしさのあまり視線を逸らし、一度深呼吸をしてから安室さんの真剣な眼差しを見上げた。
「私も好きです。」
一言一句つまづかない様にはっきりと伝えた。すると安室さんは顔を綻ばせ、鼻と鼻がぶつからない様に顔を傾けながら近づき「良かった」と私の唇に言葉を注ぎ、もう一度、口づけを交わした。