始まりは必然


 朝なのか夜なのか分からない時間帯に目が覚めた。薄いシーツと共に気怠い体を起こした。自分一人では、やはりこのベットは大き過ぎる。
 はあ、と深くため息を吐き、もう一度、身を倒した。ぎゅっとシーツを抱き寄せても、何も埋められやしない。前に目覚めた時ーー同じ様にシーツを抱きしめた時にはあの人の匂いも私を包み込んでいたのに、今はもう、懐かしいーーって記憶に蘇る程度までに落ちた。

「ジン・・・」

今は、もうないーー愛おしくて仕方のないあの人の名を囁いて瞼を閉じた。


 次に目覚めた時には、誰かが私を見下ろしていた。瞼を軽く擦りながら身を起こすと

「お目覚めかしら・・・"眠り姫さん"」

 耳に良く通るソプラノ音の声色ーーベルモットだ。ベルモットが腕を組んで、少し困った様に眉を下げ私を見下ろしていた。彼女はとても美しい人だーーでも、あの人が死んでから少しやつれた様な気がする。多分気のせいでは無いと思う。流石の彼女でも、それ程の影響があったのだろうなって思いながら、ひんやりとする床に足をつきキッチンの方へと向かった。

 横を通り過ぎる私を目で追いながらベルモットが「しっかり食事は摂っているの?」と訊いてきた。私は冷蔵庫を開けて牛乳を取り出しそれをコップに注いで、ん、と返事をした。

「そう・・・」

 相変わらずベルモットは子供を宥めるお母さんの様な表情で一言呟き、口を閉ざした。暫くどちらも言葉を交わすことは無かった。でも、ベルモットとの沈黙の時間は不快ではなかったーーそれほど彼女との付き合いに年月が積み重なったのだと実感する。

「"あの方"も流石に今回の事態にはショックを受けていたわ」

 コップにたっぷりと注いだ牛乳が無くなりかけた頃、何の前触れもなくベルモットが、まるで独り言のように云った。

「だからって組織の動きが止まるわけじゃないけど」

 彼女は更にバイオレット色のマットな紅を引いた唇を歪ませ、皮肉染みた口調で言い放った。でも、顔つきに傲岸さは一つも無くて。とても単純に言ってしまえば哀しそうな表情だった。

「でも・・・ジンを失ったことは、組織にとって大きな損失だわ」

"ジン"ーー。
あの人の名前を訊いた瞬間、胸中がチクリと痛んだ。

「貴女にとってもかしら」

 ベルモットが口元を歪めながら私を一瞥した。きっと、うんと返事をしなくてもいいと思ったーーだから静かに視線を落とした。
 すると彼女の脚が私の視界に入ってきた。顔を上げるとベルモットが目の前にいて、憂いの帯びた瞳を私に向けていた。

「これから貴女、どうするの」

 少し間を置いて、口を開いたけど言葉が出ないかった。これからどうするか、分からなかったーーだってそれは全てジンが決めていたのだから。私の生活の中心はあの人だった・・・だから自分の意思でどうするかなんて分からなかった。

 一体誰が私の生活の中心を奪ったのか。 
無性に込み上がる怒りに、震えるぐらい拳を握った。

「ジンは誰に殺られたの。」

ベルモットのライトグリーンの瞳に睨みかけると、彼女はその瞳を一瞬見開いて直ぐに眉根を寄せ、伺う様に顎をひいた。

「貴女まさか・・・」
「ベルモットお願い、教えて。」

如何やら私の考えを察した様でベルモットは首を横に振った。

「駄目よ、貴女にそんな事ーー」私はベルモットの言葉を制する様に彼女の服の襟元を縋る様に握りしめた。

「ベルモット!・・・私にはあの人しかいなかった・・・あの人が私の世界のすべてだったの!・・・それを失った私はーー」込み上がる感情と涙で息詰まり、私はベルモットの胸に顔を埋めた。
 そんな私をベルモットは優しく繊細に包み込んでくれた。

「ユメ子・・・貴女の気持ちは分かるわ。」

 ベルモットの同情の言葉に私は更に呻き声を上げた。彼女はただ黙って私の背を撫でた。

 息の上がった呼吸で鼻を啜りながら顔を上げると、ベルモットが私の頬に零れる涙を拭いながら、しなやかに伸びた長い指先で私の顔を包み込んだ。
 真っ直ぐライトグリーンの瞳が私の瞳を射抜いている。

「・・・覚悟はあるの」

 力のこもった言葉に私は大きく深呼吸をして、何度か首を縦に振った。するとベルモットは、はあ、と一つ息を吐き「分かったわ」と一言呟いた。そして私の髪に顔を埋め、抱き寄せた。 

「ありがとう、ベルモット・・・愛してる」

 精一杯の感謝の気持ちを込めて云った。
初めてだったかもしれないーー彼女に"愛してる"なんて言ったのは。そして最初で最後の別れの挨拶なんだと思った。

「私もよ、ユメ子・・・愛してるわ」

そして彼女も最初で最後の別れの挨拶を呟いた。