陥れたのは貴方


 ジンとの出会いは最悪だった。
あれは今から三年前ーー母と父、私の三人でアメリカ旅行に行った際の出来事だ。街の煌びやかな景色を一望できるホテルのカウンターでチェックイン手続きをしている時だったーー突然、銃声が鳴り響いて、恐らく撃たれたのであろう男が呻き声を上げた。その場にいた者皆が銃を発砲した人物に目を向けて更に銃声を鳴り響かせた。同時に人々の悲鳴で包まれた。
 この場から逃げようと走り回る人々は次々と射殺されて、止まっていても撃たれる様な本当に無差別な殺人事件だったーー。
 平和ぼけした日本で育った私は、目の前で血を流し浅い呼吸を繰り返す人々に愕然とした。そんなあり得ない状況の中、母と父は私を庇う様に私に隙間なく抱き着いた。恐怖で震える私に、大丈夫、大丈夫、と母は優しく囁いてくれた。
 
 しかし、その母の声が次第に聞こえなくなり、銃声が鳴りやんだ頃、私を包む込んでいた母と父の体が力なく、どさっと音を鳴らし床に倒れた。その二人のうつ伏せに倒れた背にはじんわりと真っ赤な血が滲んでいた。

「お母さん…?お父さん…!」

 名を呼んでも何も言葉は返ってこなかった。揺さぶっても、私の手の動きに合わせて揺れるだけだった。
 そしてふと顔を上げた時ーーカウンターからほど遠くない出入り口の方で二人組の黒ずくめの男が佇んでいた。二人とも此方には目を向けていなくて、片方のがたい良い男は何やら端末を耳に当てて通話していた。そしてもう片方の銀髪で長髪の長身の男は煙草をふかして、足元に転がる死体を冷酷な目で見下ろしていた。

 私は込み上がる怒りと共に、傍に転がる先ほど男が乱射していた際使われていたであろう銃に恐る恐る手をかけた。
 そして、通話を終えた片方の男がもう片方の男に何やら告げた後、立ち去ろうとする二人の男に銃口を向けた。

「待って!」

 しんと静まり返ったロビーに私の声が響き渡った。すると二人の男が私に顔を向け、片方のがたいの良い男が私に銃を構えた。

「アニキ、あの娘も殺っちまいますかい?」
「ふんっ、放っておけ…奴らの始末はもうついた。」

 がたいの良い男が訊くと、銀髪の男は、にやりと口元を緩め私を一瞥した。私にはそれが、お前にはその引き金を引くことが出来ない、と云われている様な気がした。 

「私…撃つわよ!」

 私は狙いが、ぶれない様に両手で銃を握った。すると銀髪の男は「ああ」と伺う様に睨みを効かせて私の方にゆっくりと歩み寄ってきた。
 殺されるーーそう思って目を閉じ力いっぱい引き金を引いた。耳に銃声が鳴り響き、その後は鼓膜が破れたみたいにピーっと耳鳴りがした。同時に発射の勢いで手から銃が離れ、後方に飛んでいった。

 恐る恐る目を開けると、銀髪の男の右腕から微かに赤い血が滲んでいた。どうやら銃弾が男の腕を翳めたみたいだ。

「アニキ!…この女…!」

すぐに血相を変えて、がたいの良い男が私に銃を向けた。しかし、それを「待て…」と低い声が制した。銀髪の男の声だ。

「でも…アニキ…」

 渋々がたいの良い男は懐に拳銃をしまった。そして銀髪の男は何の痛みも感じていない様な素振りで私の目の前にやってきたーー鋭い瞳が怯える私の瞳をじっと捉えた。

「お前、俺が憎いか」

 男の短い問いに私は涙で溢れた瞳で睨みつけ首を縦に振った。すると男は口を緩めて、ふっと短く笑った。

「そうか…それは良い」

 私は、カッと目を見開いた。一体この男は何を言っているのだろうーー酷く不気味なその男の笑いと鋭い殺気に満ちた瞳が私を見下ろしていた。ぞくぞくと全身が震えた。
 そしてその刹那ーー私は腹部に強い痛みを感じ、意識を手放した。薄れゆく視界で男が私を抱きかかえた事だけが目に留まった。


 



 目覚めた時、私は唖然としたーー。何処かもわからない一室のベットの上にいたからだ。辺りを見回しても、そこにはテレビもなければ時計も無い、まるで生活感のない部屋だった。でも確実に分かっている事は、私はあの銀髪の男にここに運ばれたという事。

 そして次目覚めた時ーー銀髪の男がいた。怯える私を見てあの人は一言「ジン」そう零した。銀髪の男の名前なのだろうと私は解釈した。

 それから私とジンの奇妙な同居生活が始まった。初めの頃はジンの瞳を見る事も出来ず常に怯えていたけど、次第にそれは無くなっていたーージンが私に危害を加える事が無かったからだ。

 だから、ジンと共に過ごす時間は不快ではなかった。あの人は必要以上に言葉を発しない、どれくらいの頻度で帰ってくるかなんて分からなかったが、帰って来ては、いつもソファに座って煙草に火をつけ、それを咥え、立ち上る煙を眺めていた。その時のジンの瞳は私が初めて見た鋭い殺気溢れる瞳ではなくてーーとても淡白な瞳をしていた。
 
 そして暫くしてジンは私を抱くようになったーー抵抗する気力も無かった私はされるがままに抱かれたーーでも、ジンとのセックスは嫌いじゃなかった。寧ろ好きだったーー手つきは物凄く繊細に扱う様に丁寧で、でもとても胸が熱くなるほどに情熱的なものだった。ジンの動きに合わせて揺れるベッドの軋む音にあんなにも快楽を覚えたのは生まれて初めてだったと思う。
 行為の後だってジンは私を優しく包み込んでくれた。時折、ジンは本当はとてもいい人なのではないかと、寧ろジンが敵と見なしている存在が悪役なのではないかと、変な錯覚に落ちていったけど、私の大切なものを奪ったのは確かにこの男だった。

 私はあの時ーージンに出会った時、"喪失"と"獲得"が同時に起きたのだと思う。だから私の心は意外にもプラマイゼロな状態で何のマイナスも感じなかった。





「もう行くの…?」

 私に背を向け玄関の方へと向かうジンの大きな背中に抱き着いた。ジンはそんな私に頭を傾け「ああ」と短い言葉を返した。ジンの低くい声色が愛おしく思えた。

「ジン…これあげる」

 私は手にしていたモノをジンに渡した。ジンはそれを怪訝そうにまじまじと見てから私に目配せした。私は、ふっと微笑みかけた。

「貴方が私から奪った両親は物理学者だったのよーーそれ私が作った時限爆弾…ジンの為に作ったの」
「ふっ、随分と秀才な女だったんだな」

 正直自分の言動に驚いた。こんなにも軽い口調で両親の事を語れたんだからーー本当に私の心はジンだけによって埋められてしまったみたいだ。
 そしてジンも何処か満足気に口元を緩めた。そして懐にそれを仕舞って、私に体ごと向けた。ジンを見上げ、まるで縋る様にジンの服をキュッと握ると、それが合図だったかのようにジンの唇が私の唇に触れた。
 ジンとのキスも好きだったーー甘いもの深いのも。とろけてしまう程に優しくて時に意地悪で、心地良いものだった。

「ん…ジン…もっと…」

 更に次の行為を求める様に縋ると、ジンの唇が離れていった。いじけた子供の様にジンを見上げると相変わらず鋭い殺気満ちた瞳が私の瞳を射抜いていた。そのジンの瞳に私の胸中はぞくぞくと疼いた。

「終いだ…大人しく待ってろ」
「…意地悪…」

 ジンは私の髪をひと撫でして私に背を向けた。そんなジンの背に私は笑みかけた。どうせこの人は帰って来るーーそう信じていたから。だって私の生活の中心はジンであったし、ジンがそうさせたのだから。

「ジン…いってらしゃい」

 私は去っていくジンの背に優しく囁いた。ジンは少し顔を私に向けたけど、ハットのつばが顔の殆どを覆っていて表情なんか見えやしなかった。
 そして、それが私が最後に見たジンの姿だった。