絶望的な朝



 朝、目が覚めるとやることがある。
布団から手を出してそれを天井に向けて見つめる。たったそれだけ。そしてまた昨日、一昨日と同じ様に、はあ、と朝のカラッとした空気にため息をついた。

「赤ちゃんみたい…」

 今日で一体何回目だろう。こうしてみずみずしい小さな手を見るのはーー。肌年齢とか目覚めの良さとかは申し分ないけど、幼児化した自分のこの体はどうにかしたくて仕方がない。

 まあ、生きるか死ぬかの選択に迫られたのだから、仕方がないのだけど。ふと、もそりと隣で眠る人物が寝返りをうった。私の方に顔を向けた彼ーー降谷零は長い睫毛を下げて静かに寝息を立てていた。随分と呑気なこと。
 すっかり目の覚めてしまった私は零を跨いでベットから降りようとしたのだが、突然腕を引かれ、見事に阻止されてしまった。私は、わっと短く悲鳴を上げながら倒れ込んだ。

「…零」
「ユメ子…」
「…おはよう」
「おはよう」

 本当に小さな小さな私の体をギュッと抱き締める零。苦しい、と顔を歪めると零はそんな事お構いなしに、ん、と返事するだけで私の短い首元に顔を埋めて肺一杯になるくらい匂いを吸い込んでいる。こんなにも彼はゴールデンレトリバーだったけ、と思いながら私は黙って彼がそれに飽きるのを待っていた。


 零がエプロンをつけて台所に立ち、朝食を作る後ろ姿を私は黙って見つめていた。零の広い背中に穴が開いてしまうんじゃないかってぐらい。時折、私の視線が痛いのか振り返ってパッチリとした瞳に笑みを浮かべる。

「ねえ…零」

 朝食の開始と共に、コーヒーを啜りテレビに目を向ける彼に私は、こんがり焼けたトーストに目を注ぎながら呟いた。

「いつになったら私は元の体に戻るのかしら」

 無機質な瞳を零に向けると彼は、一瞬ピクッと片方の眉を上げて私を見た。私は彼に変な圧をかけてしまったような気がして、ふっと笑い、視線を逸らした。

「なんちゃって…私、結構この縮んだ体、気に入ってるのよ」

 まるで自分に言い聞かせる様に、彼が作ったふんわりとろとろのスクランブルエッグを突きながら呟いた。

「映画も子供料金で見れるし…働かなくていいもの」
「僕は嫌だ」

 零のちょっと不機嫌な、いじけた子供の様な口調が私の言葉を遮った。トーストに歯を立てながら彼を見つめると、零は、はあ、と大きな溜息をはく素振りをして椅子の背もたれに寄り掛かった。

「そうなってから君は僕とのキスを拒否するじゃないか」

 予想だにしていなかった台詞に思わず目を丸くした。はっきり言ってそんな理由でなのか、と唖然とした。零は、私がキスを拒否するワケを訊くように黙って私を見ている。彼の真摯な眼差しに視線を落とした。

「だってそれは…」口籠りながらうじうじとする私は、見た目通り少女そのものに見えるのだろう。

「私じゃないみたいなんだもん…」

 顎をひいて上目遣いに零を見ると、私の答えに納得していない、と言わんばかりに眉根を寄せていた。私は可愛い少女を演じる気がサッと消え失せた。

「アラサー男が、こんな幼児といちゃいちゃしてたら…気持ち悪いでしょう?」

 語尾に力を込めて云いやった。一瞬彼はキョトンとした表情をしたが、「生意気だな」と一言呟いて緩めた口でコーヒーを啜った。

「それより例のーー"頭の切れる坊や"はどうなの」

 新たな話題を投げ掛けた。もうお腹は十分に満たされていた。毎日美味しいご飯をありがとう、と心の中で呟きながら彼を一瞥すると、彼の目は獲物を見つけた肉食獣の様にぎらぎらとしていた。

「ええ…恐ろしい男ですよ」

 ずっしりと、その反面、どこか楽し気な口調だった。まるで難解な事件の鍵を見つけた時のように。私は彼を一瞥し、手元のコーヒーを見つめた。

「そろそろ私も動くべきかしら」

 ニヤリと笑みを浮かべながら云うと零は目を丸くして驚いた様子で私に目配せた。彼の反応を見る限り、如何やら私は今までそんなに働きを見せていなかったみたいだ。

「彼と"お友達"になろうかなって」

 大胆かつ挑む様なものだった。今まで彼から聞いた"頭の切れる坊や"の話はとても興味深いものだった。普通の少年が出来る事じゃない。彼と話してみたい、そう思った。さらにそこから彼と私の似通った部分を探ろう、そう思ったーー。