聖女

 
神々しく、尊いその御声。初めてそれを聞いた時、私は自分の天命を悟った。

傷だらけの体も、女らしさを削ぎ落としたような肢体も、男のような装いも辛くなかったわけではない。町を楽しげに駆ける少女たちを見てはただの農夫の娘として暮らしていた日々を思い出し、故郷へ胸を焦がしたこともまた事実。
それでも誰にも弱音を吐くことなく厳しい戦場に立っていられたのはひとえに自分の為そうとしていることは必ずやこの愛する祖国の未来につながっていると信じていたからだ。

「ジャンヌ」
「…ランマルか」

紺色の空に輝く星々が美しい。夜の光を浴びたオルレアンの街並みを高台から眺めていると声がかけられた。振り返るとそこにいたのは桃色の髪をした美しい少年だった。私たちとは顔の造形や肌色がまるで違う、ものめずらしい容貌。彼と、彼の仲間たちは遥か未来の東の国からやってきたという。

「寝なくていいのか、ジャンヌ」
「ああ。私は別に平気だ。……それよりランマル、お前こそ早く寝たほうがいい。明日、立つのだろう」
「…ああ。そうなんだけどな、…でも、どうにも寝られなくて」

苦笑いを浮かべるランマルに私は隣に座ることを勧めた。石畳の上に腰を下ろしたランマルは夜空を一心に見つめている。そんな彼があまりにも純真そうな目をしているものだから、ランマルを横目で見ながら、私は少しばかり邪な思いを抱いてしまった。
…彼は、知っているのだろうか。この先の見えない戦の果てに一体何が待っているのか。この国が一体どうなるのか。そうならば、それを聞くことこそが正しいのではないのか。…私は、本当にただ、神からの言葉を待っているだけでいいのか?
そんな疑念が頭の中を巡る。…いや、何を血迷ったことを。それを聞くことは罪でしかない。それはあまりにも傲慢というものだ。知恵を持つことと、未来を知ることは同義ではない。来るべき時にはきっと、神が私の進むべき道を指し示してくれるはずなのだから。分不相応なことはしてはいけない。
開きかかった口をぐっと閉じて、私はランマルに習い、空を見上げた。

「…ランマル、勝つことができてよかったな。私は学がある人間ではないから、お前が為そうとしていることをよく理解はできないが、お前たちが何か、大きな試練に立ち向かっていることぐらいはわかる。人並みな言葉だが、…頑張ってくれ」
「ああ。…ありがとうな、ジャンヌ。でも試合に勝つことができたのも何もかも、全部ジャンヌのおかげだ。俺一人だったらきっと、勝つことなんてできなかった」
「ランマル、お前は謙遜してばかりだな。もう少し、勝利を誇ったらどうだ」
「…本当のことだよ。俺はいつも助けられてる、神童にも、狩屋にも、…ジャンヌにも」

ランマルと話すのはなんとなく心地がよかった。多分、根本的なところで私と彼はなんとなく似ているのだろう。だから彼と一緒にいると私は気持ちが楽になるんだ。

「ジャンヌは、これからどうするんだ」
「これから?」
「俺たちが帰った後のことだよ」
「…ああ。それなら、別に今までと変わらないさ。祖国のために旗を振り、剣を取る。イングランド軍と戦い続けるだけだ」

きっと、今でも遥か地平の先にはフランスの民たちが戦火に巻き込まれ、死に絶えている。彼らを救うことこそが私が神から与えられた使命であり、生きていく意味でもあるのだ。悲観することなどない、それは私の誇りだった。その言葉にランマルもきっと笑ってくれるとばかり思っていたのに。
彼は少し間を置いてから、沈んだ声で呟いた。

「…ジャンヌは」
「…ランマル?」
「ジャンヌはもし、…未来の自分が…決して、幸せになれないってわかっていたら、…そうしたら」

ランマルの目が私を見据えた。その目には、何かを決心したかのような光が宿っていた。私は先ほどまでの柔らかな雰囲気をまとったランマルとはまるで違う様子に少しばかり他じろきながらも、ランマルの言葉をじっと待った。
ランマルの言葉は途切れ途切れだったが、そこには何かを訴えるような強い力がこもっている。

「…俺はジャンヌに幸せになってほしいって思っている。…それは自己満足なのかもしれない。ジャンヌにとっては迷惑なものなのかもしれない。…わかってる、わかってる、けど」
「……」
「知っているんだ、俺は。君の未来も、この国の行く末も。知っていて、…それがあるべき歴史の姿だってわかっていて…でも、俺はジャンヌに一人の女の子として、幸せになってほしい…。…ごめん」

要領をえない物言い。そうしてランマルは顔を膝に埋めてしまった。彼がこのときどんな顔をしていたのか、どんな思いを持っていたのか。私にはわかりやしない。…わかりやしない、けど。ただ一つわかったことは彼が触れないようにしている言葉の本当の意味だった。彼が言いたいことはどうして、私にはよく理解することができた。

「…私は、死ぬのか」

零した言葉は静謐に包まれた空間に広がり、そして緩やかに溶けていく。はっと顔を上げたランマルの目に偽りはない。ああ、本当なのだ。きっと私は、この先の…戦でか、他の何かでかはわからないが、きっと死ぬのだろう。それはきっと普通の死ではなく、もっと悲惨なもの。

「どうして…」
「ランマルと私は、よく似ているからな」
「……。ごめん、…ごめん、ジャンヌ」
「なんでお前が謝るんだ、お前のせいでもなんでもない」

カラカラと笑えば、反対にランマルの顔は歪んでいく。どうして笑っていられるのか、とでも言いたそうな顔。それに何も言わず、首を横に振ればランマルは私の肩につかみかかってきた。

「俺がここで未来を教えれば…ジャンヌ、君は…!」

その言葉に心が揺れたのは真実だ。神を信じ、御使を信じ、それでも死ぬことへの恐怖が拭えることはない。きっとこの先も私はこの恐怖を切り離すことはできないだろう。生きるというのは、そういうことなのだ。
彼の言葉は私の心の奥に蓋していた感情を強く揺さぶった。…あまりにも甘美な言葉。でも。それでも。

「ランマル、お前は優しいな」
「……悪いことだってわかってる。それでも俺は、君に生きて欲しいと思う」
「…ありがとう。お前の気持ちは嬉しい。だがランマル。その気持ちを受け取ることはできない。それは主の御心に背く行為だから」
「ジャンヌ…」
「この身は主と、愛する祖国に捧げると私は救国の旗を取った時に誓ったのだ。そして、そうすると決めたのは他ならぬ私自身。主の声に従うことも、フランスのために戦うことも…全て私が決めたこと」

自分で告げたその言葉はランマルに告げると同時に自分へと向けた言葉でもあった。…そうだ、そうなのだ。
愛する家族と別れ、村を出たことも、旗を手に取ったことも、剣を持ち、戦場で戦ったことだって、全て、私が選んだ道の果てのこと。だからこそ、その道の先で私が例え死ぬことになろうとも、そこに後悔などあるはずはない。

「…そうか、ジャンヌは強いんだな」

目を静かに伏せたランマルに私は思わず笑ってしまった。強いわけがない。ただの農夫の娘だ。学もなければ力もない。秀でたところなどどこにもありやしない。それでもここに私がいられるのはひとえに神と、そして多くの人々の支えがあるからこそなのだ。

「ランマル、良き人生を。きっとお前なら平気だ。お前も、お前の道を歩め」
「…ありがとう、ジャンヌ」
「いや…。…なあ、ランマル。最後に一ついいか」
「…なんだ?」
「どうか、…私のことをなまえと呼んでくれないか」
「なまえ?」
「ああ。…お願いしてもいいか?」
「…もちろんだ。…本当にありがとう。俺は、君に会えてよかった…なまえ」

その名を呼ばれた瞬間、頭の中をよぎったのは懐かしき故郷。母の焼いたケーキの香り、干草の柔らかなベッド、父の大きな手、兄弟たちと通った教会。

なまえ。それはもう呼ばれることはない、オルレアンの乙女でもジャンヌ・ダルクでもない農夫の娘だった頃の名前。最後にその名を呼んでくれたのが彼でよかったと、心の底からそう思う。


**


薄らと瞼を開けた先に見えるのは青い空。体を激しい炎が焼き尽くさんとする中で私は泡沫の夢を見ていた。
頭に浮かぶのは、刹那に出会った不思議な少年たち。

「ランマル…」

もうずいぶんと長い間口にしていなかった名。あのとき出会った桃色の彼は今、良き道を歩めているのか。わかることなんて何もない。だけど私は信じている。彼が、彼らが自分らしく生きられる未来を。こんな時だというのに胸に浮かぶのは祖国と仲間たちへの抱えきれない感謝の念と、主への敬愛の思いばかり。
そう、私は私らしくいればいいのだ。決して後悔などしない。私がここで死んだとしても、私が残してきたものは決して消えはしない。
救国のために旗を振り、そして仲間たちとともに駆け抜けてきた。我が身をいくら否定されようともその人生を否定されることだけはないのだから。

ただ、最後に一つ。
未来を生きる尊い命の旅路に祝福あれと願おう。

「Que Dieu te benisse.」

美しき祖国フランスに幸福あれ。そこに根付き、生きるすべての人々に幸福あれ。

「主よ、全てを委ねます…」

ああ、主よ。ただ今を生き、未来を生きるすべての人に幸福を与え給え。