思い出していないのね

 
生まれたときから自分に抱いていた違和感が一気に現実的になったのは中学に上がった時だった。
時には厳しいが、優しく、あたたかな父と母。生意気だが可愛い妹。恵まれた家庭環境。愛情を注がれて不自由なことなど何一つなく育ててもらってきた。
そんな幸せな世界に一体なんの疑問を抱くことがある?

「シュウ…!待って、君、シュウだよね!?」

そんな声をかけられ、手を強く掴まれた瞬間、満ち足りた自分の人生にヒビが入ったような、そんな気がしたのだ。
大きな違和感を抱きながらも振り返った先にいたのは茶色い髪の、同じ制服の男。随分と着慣れている様子から上級生であることがわかる。だけど、一つおかしなところ。自分はシュウ、なんて名前じゃない。自分の名前はなまえ。みょうじなまえだ。…人違いだろうか?そうだったらちゃんと訂正したほうがいい。そう思って、少しだけ苦笑いを浮かべて言った。

「あの…ボクはシュウ、って名前じゃないんですけど…」
「え…?」
「えっと、先輩ですよね。ボクはなまえです。今年入学した、新入生のみょうじなまえ…」
「だ、だけど…、だけど」
「人違いじゃありませんか?」

その上級生の顔が一気に真っ青になっていく。さっきまでは焦りと驚き、そして喜びが混ざったような、そんな表情をしていたというのに。…変な人だ。それにしても人違い、なんてされたこともないから急に声をかけられて驚いた。日本人にしては褐色な肌と、クラスメイトには女の子のようだと笑われることも多々ある前髪を結った珍しい髪型から誰かと間違えられることなんて一度もなかったから。
…それにしてもこの人、力強いなあ、なんて思いながらつかまれた腕を見て、それから学校内に取りつけられている時計塔を見てあっ、とした。そういえば、今日は両親の帰りが遅いから夕飯を作らなきゃいけない日だったんだ。
そして、妹と買い物をして行く約束をしていたことも同時に思い出す。きっと今頃、妹は家のソファで膝を抱えながら頬を含ませてるんだろうな、なんて自分とよく似た顔の妹が「お兄ちゃん、遅い!」と言ってくるのを思い浮かべながら、悲壮な顔の上級生に柔らかい物腰を心がけて声をかけた。

「…すみません、ボク、この後用事あるんですけど…。手、はなしてもらってもいいですか?」
「あ…う、うん。ごめんね、人違い、しちゃって」
「いえ、気にしていませんから」

上級生の手がバッとはなれたのを見てから校門へと足を進めた。早くしないと妹の機嫌が悪くなっちゃうなあ、なんて思いながら歩いていると後ろから「ねえ!」とさっきの上級生から声がかかった。振り返れば決心を固めたかのような彼の顔が映る。

「君、サッカーやるの!?」
「サッカー、…ですか?いえ、やってませんけど…」

サッカー。サッカー。…そうだ、そういえばこの学校はサッカーの名門校っていうので有名だったなあ。でも、自分はサッカーにはたいして興味もないし。そんなことを思って首を横に振れば、その上級生はしばらく黙ってから言った。

「俺、サッカー部なんだ!よかったら今度来てよ!それで、一緒にサッカーやろうよ」
「え…」

思わず眉を寄せてしまった。…うん、変な人だ。そんな思いを抱いていることは露知らないであろうその人はニッと口角を上げて、やけに明るい笑みを浮かべた。

「俺、松風天馬!サッカー部で待ってるから!」

松風、天馬。心の奥で名前をつぶやいて、それから胸の中に大きな違和感がよぎった。その名前を聞くのはこれが初めてじゃないような、感覚。
なんだ、これ。それにサッカー。今まで興味もなかったそれは、目の前の、松風天馬の口から放たれるとやけに胸の奥が焼きつくような、求めてやまなかったような甘美な言葉に聞こえてくる。
そんな違和感っを押さえつけるように服を強く握りしめ、目を瞑る。…サッカー、松風天馬。なんなんだ、一体。
いや、考えるな。考えたらさらにこの気持ち悪さは増大して行く。やめろ、やめろ…早くここから立ち去るんだ。
それは自分の脳が本能的に体に与えた、危険信号。俺の顔には苦し紛れに浮かんだような笑みが貼り付けられていた。

「…それじゃあまた今度、お邪魔させてもらいますね。松風、…天馬先輩」

それだけ言って走った。はやく、はやく離れろ。学校から、松風天馬から。忘れろ、忘れるんだ。なんなんだ、この違和感は。サッカー、松風天馬、雷門中、ゴッドエデン、フィフスセクター、エンシャントダーク、イケニエ、妹の死、孤独、寂しさ、痛み…。頭の中を駆け巡る言葉に胸が、脳が締め付けられ、走っている足を止めようとすると、「お兄ちゃん」という優しげな声が聞こえて、はっと顔を上げた。

「もー!遅いから来ちゃったよ」
「…あ……」

目の前に立っていたのは、妹。自分とよく似た黒い瞳がボクの姿をただ、映す。…ああ、そうだ。妹は生きているし、ボクはサッカーなんてしていない。松風天馬なんて人は今日が初めましてだ。

「お兄ちゃん?」
「…ああ、なんでもないよ。それよりごめん。ちょっとさ、先輩に呼び止められちゃってて」
「先輩に?…まだ部活の仮入部期間始まってないって言ってたじゃん。もうできたの?先輩」
「まあ、相手は人違いしてボクに話しかけただけみたいだけどね。サッカー部に誘われたんだ」
「…サッカー部に」
「うん。一応さ、また今度行きますって言ったんだけど…ボク、サッカーには興味ないしなあ」

そう言って笑えば、隣を歩く妹は「ふうん」と興味があるのかないのかわからない声を漏らした。

「松風天馬先輩っていうんだ、その人。…変な人だった」
「…。ね、お兄ちゃん」
「ん?何?」
「お兄ちゃんは、まだ…」

妹の声は随分と小さくて聞き取ることは叶わなかった。何?と聞けば、妹は笑みを浮かべて「なんでもなあい!」と声をあげながら小走りに河川敷を跳ねるように駆けた。そんな妹の小さな背を追えば、さっきまで妹が何を言おうとしていたのか、なんて些細な疑問はすぐにどこかへと消えてしまったのだ。