乙女の幻を見ることはない
澄んだ風と揺れる木々、青々とした草花。涼しげな湖に、咲き乱れる薔薇の花…。
1910年。
イングランド北部の小さな集落、ハンフリー村。
どこからか薔薇の香りが漂うその村に足を踏み入れたとき、エドガーは不覚にも足を止めて、遥か昔に想いを馳せてしまった。
その村は、かつて妹と過ごしたポーの村によく似ていたから。
「…ねえ、どうしたの、エドガー」
エドガーが足を止めたからか、前を歩いていたアランは振り返りながら首を傾けた。
「いや…、別になんでもないよ」
エドガーは頭を横に振り、微かな苦笑を浮かべる。…その苦笑は随分と適当に取り繕ったものであったがしかし、アランはそれ以上追求するような無粋な真似はしなかった。
ふうん、という興味のなさそうなアランの返事を聞きながらエドガーはぐるりと村を見渡して言った。
「今度の村は静かそうなところでよかったと思ってね。前にいたところは随分と騒がしい場所だったから」
「ああ…」
アランはその言葉でつい数ヶ月前まで滞在していた町のことを思い出し、肩を竦めた。
…あの町は港のすぐそばにあるそれなりに栄えた町だった。アランはあの町も、あそこに住む人も嫌っていた。潔癖のきらいのあるアランには、下町のパブで油にまみれて酒を飲む男たちや夫がありながら羽振りのよさそうな男が通れば体を摺り寄せる女たちはどう見ても不潔にしか思えなかったから。
元より吸血鬼としては脆弱な方にあるアランがその町で体調を崩したのを機に二人はひっそりと町を後にし、この集落までやってきたのだ。
「ああ…。薔薇のいい香りだ」
鼻を鳴らして目を伏せるアランの姿を見て、エドガーは優しげな笑みを浮かべると彼の肩をゆっくり押した。
「さあ、アラン。しばらくは外で探索でもしているといい。その間に荷物を家に入れてもらうからね」
「…そうさせてもらうよ。今日のところはもう人には会いたくないから」
静かに頷き、人気のない道を歩いて行くアランの背中は心なしか疲れているように見えた。その後ろ姿を見ながらエドガーは静かに「やはり、あの町を早々に出てきたのは正解だった」とため息をついた。
ガス臭い町を歩くことをアランは嫌っていた。もともと体調も崩し気味だったのに、あのままあの町に居着いていたらストレスもたまって、それはもうたまらない事になったいただろう。
…この美しく、静かな村で数年の間は安らかな気持ちで過ごしてくれればいい。
そんなことを思いながらも御者の男から声をかけられ、エドガーは新たな新居となる屋敷へ向かい、アランとは反対の方向へと歩を進めたのだった。
**
…新しい移住地は美しく、そして静かな村だった。
近頃は子供たちの甲高い笑い声にさえいらついてしまうほどにささくれ立っていた心もここでエドガーと共に過ごすことができるのならば落ち着くのだろう…。アランはそう思いながら人気のない小道をゆっくりと歩いた。
見慣れていたはずの青い空が恋しくなるなんて、何年ぶりのことだろうか。
大きく息を吸って、ゆっくりと吐く。
…ああ、遠くから誰かが演奏するピアノの音が聞こえてくる。それから、小鳥のさえずりも。ふわりと匂い立ち、鼻腔をくすぐるのは高貴な薔薇の香りだ。
ちらりと香りのしてきた方へと目を向ければそこには大輪の薔薇がまるでレースの柄のようにしてお行儀よく並び、咲いていた。
誰かがきっと育てているのだろう。
アレンは薔薇の垣根へと近づき、そのうちの一輪へとそっと手を添えた。…しっかりと育っている。これだけたくさん咲いているのならば一輪くらい頂戴してもばれやしないだろう。
そうしてその薔薇を手折ろうとしたその瞬間。
甲高い少女の声が響いた。
「あ…だめ!そんな風に乱暴にしちゃ…!」
アランは薔薇から手を離し、反射的に体を退かせた。いったい誰なのだ、この声の主は!
自分の行動を人に見られたといういらつきから顔を歪ませたアランは勢いよく顔を上げ…そして、目を見張った。
…いま自分は今世紀最大に間抜けな顔をしているだろう。いや、それは誇張しすぎだとしてもおそらくそれぐらい驚いた顔をしているに違いない。
だって、自分に声をかけてきた少女は。
そこに立つ彼女はあまりにも。
「…あ……」
漏らした声はすうっと空気に溶けていく。
…少女が眉根を寄せて、どこか困ったような表情を浮かべた。多分そんな顔をするぐらいにアランの表情は驚愕の色に染まっているのだろう。
…彼女の着ているドレスの裾がゆらりと風に揺れた。
「メリー…ベル…?」
透き通った銀髪の巻き毛が愛らしくて、まるで何も知らないかのような無垢な瞳があまりにも懐かしかった。病的な白い肌の手が自分の方へとゆったり差し出される。
「あなた、大丈夫…?薔薇のとげ、刺さった…?」
そうやって心配げに紡がれた言葉も、その声音さえもまるで彼女の生き写しだった。アランはたまらなくなって、一瞬何も考えられなくなって。
それでも無理やり体を動かした。彼女に背を向け、走った。
まさか、いるわけがない。
だがその姿も声も、何もかもメリーベル、君にそっくりで。ああ、僕は一体どうすれば…エドガー。
青白い顔のまま金髪の少年は村を駆ける。
向かう先にいるのは茶色い巻き毛の少年だった。