バージンロード

 


お兄ちゃん、私がもし結婚して、ここから出ていくって言ったらどうする。

ソファの上でだらしなく寝転がって、新聞の番組欄をチェックする背に向けてそう言葉を放つ。一体この言葉を吐くのにどれほど私が勇気を出したのかなんてきっと誰にもわかるまい。
一瞬の静寂ののち、はっとしたように振り返った兄の顔に浮かんでいたのは焦燥であり、悲哀であったと思う。



「えー、マジでぇ?付き合って一年の記念日忘れるとかありえなーい!いくら忙しいからって…ねぇ?」
「でしょ!だからもう、言ってやったのよ。そんな仕事が大事なら仕事と結婚しろって」
「うわっ、ストレートー!」

きゃらきゃらと甲高い笑い声が響く。
社員食堂の一角を陣取った若い女性社員たちは今日も人の恋愛事情を聞いては手を叩いて楽しそうにしている。声がそれなりに大きいからか、話を偶然耳にしてしまった男性社員たちはなにやら気まずそうだ。そそくさとご飯を食べて去っていくその姿に若干申し訳なくなりながらも私は紙パックのジュースをずず、と啜る。

「せっかく記念日だと思って美容院にもまつエクにもネイルサロンにもいったのにさぁ、もうほんと…無駄な出費だったわ」
「まあまあ、そんなこと言わないで…。そのネイル、可愛いしいいじゃない」

最近別れた彼氏の愚痴を言ってため息を吐く彼女。派手な茶髪とキラキラとしたネイル、ばさばさの睫毛。一見派手で怖そうにも見えるが華やかな身なりを何万もかけて彼氏のために用意したというのだから見た目に似合わず一途で心の優しい子なのだ。
友人の嘆きにフォローを入れれば、彼女の視線がぎゅるんとこちらへ向く。

「まーさぁ、別れた私のことはいいのよ!別に…。それよりあんたはどうなのよ、横山さん。今の彼氏ともう長いんでしょ」
「え…まあ、…うん。そこそこ…」

話の矛先が私の方へと向く。
それと同時に複数の目が獲物を捕らえたかのように私を見つめる。女の子の目というのは大きくて、きらきらしていて、それでいてちょっと迫力がある。思わずどもりながら遠慮がちに頷けば「何年だっけ?5年?」と尋ねられたから「いや、…今年で6年目」と素直に応える。

「はー、長いねぇそりゃ」

別の同僚が6年という月日の長さに息を吐く。

「あれでしょ、大学の同級生。今入社3年目だから…大学1年生、ぐらいからの付き合い?」
「すごいよね、よく疎遠にならなかったね」
「まあ、職場も近いし…家も近いから」
「あ、職場近いんだ!この辺の会社なんだねー」

私の彼氏についてあまり知らない同僚たちがきゃっきゃと騒ぐのを横目に私の彼氏に一度会ったことがある彼女はつまらなさそうに言う。

「この辺の会社も何も、隣よ、隣」
「隣…ってことは伊勢谷コーポレーション!?やっだ、超大手じゃん!」

目を丸くしてオーバーリアクションに驚く同僚。「すごいねぇ、将来勝ち組じゃん」なんて口々に言う彼女たちに対して自分のことではないから自慢げにするわけにもいかず、結局言葉を濁しつつ笑うしかなかった。そんな私をじとりと見ながら最近別れたばかりの彼女は言う。

「横山さんってさ、可愛いし、将来有望な彼氏持ちだし、ほんとなんか…恵まれてるっていうか…あ、別に嫌味とかじゃないんだけど!なんかさぁ、…うーん…羨ましいって感じ!」
「……あはは」


…嫌味じゃない、なんていうけど。
半分くらい、嫌味というか妬み嫉みは含まれていたんだろうな。そんなことを感じながら私はなんとも乾いた笑い声を零したのだった。




「…羨ましい、かぁ」
「え?なに?なんか言った?」
「あ…ううん!なんでもないよ」


同僚の言葉を思い出して思わずぽつりと呟けば、彼はなんだなんだと言わんばかりにこちらへと視線を投げかける。それに愛想笑いで返してから「それよりさあ」と急いで話を変える。
彼は不思議そうにしながらも特段疑問にも思わなかったのか、すぐさま私の話へとのってきてくれた。

大学生の頃、同じサークルだったことをきっかけに出会った彼。
特段イケメン、というわけではないが清潔感のある容姿と何事においても真面目な性格にはとても好感を抱いていて、だからこそ彼に告白されたときも私は考える暇を開けずにすぐさまOKを出したのだった。
あれから6年。彼とはなんだかんだうまくいっていると思う。
それもこれもお互いの趣味や交友関係を尊重して、つかず離れず、寄りかかりすぎずにいたことが良かったからに違いない。

「今日は仕事、どうだった?」

特にする話がなかったのか、投げ込まれたありきたりな質問に私は「うーん、いつもと変わらずって感じ」とこれまたありきたりな答えを返す。それから「そっちは?」という言葉も付け加えて返せば、彼は「こっちも、まあ変わらずかな」と苦笑いを浮かべて言った。

「あ、でも。そうだ。そう言えば、前にお世話になっている先輩がいるって言ってただろ?なんかさぁ、…あの人、今度結婚するらしいんだよ」
「結婚?おめでたいことじゃない。え、その人いくつなの?」
「今年で27だった気がする、確か。相手の子さぁ、うちの受付嬢でそっちはまだ24ぐらいだって聞いたよ」

27と24。
晩婚化が進む昨今においてはなかなかに若い…と評しても良い年齢なのではないだろうか。
なんて思いながらも彼氏の話に耳を傾ける。彼は生き生きとその先輩がプロポーズするときの

「でも本当におめでたいよなぁ。なんか俺も、プレゼントとか上げたほうがいいのかな。結婚おめでとうございます…的なヤツ」
「えー、とりあえず言葉だけでいいんじゃない?」
「いやいや…でもお世話になってる人だから!なんかお祝いしたいなって…」

そういって何がいいかなぁ、名前も考えてくれよ、なんて目をきらきらさせる彼。
…彼のこういう、素直なところが私は存外好きだったりする。
グラスとか使うかな、…あ、お揃いのお茶碗とか…なんて引き出物か!と思うようなものを提案する彼の話に相槌を打っていると、ふと彼は口にする。

「でも、結婚するって先輩に言われたときさ、俺思ったんだよね。…あ、なんか俺もそろそろ結婚を考えるぐらいの歳に入ってきたのかも…って」
「ええ?まだ早いでしょ、入社3年目じゃない私たち」
「そうだけど!…でも、…なんかさあ、結婚するって報告してくれた時の先輩の顔…本当に嬉しそうだったから」
「えー?」

冗談めかして相槌を打ち、彼を見上げる。
そして私は、そこで見た彼の目を見て固まった。
口を一文字に結んで、どこか緊張した面持ちをした彼がそこにはいたから。

「…ちょっと、なに」

思わず憮然とした口調で尋ねる私。
しかし彼はそれに対して無言で返し、何度か口をぱくぱくと開閉させてから静かに言った。

「…なあ、もし…俺が結婚してほしいって言ったら、お前、どう思う」
「……え」

それに対してきちんと答えを返せなかったのは、まさか彼がこんなことを言ってくるなんて予想にもしていなかったから。それと、…それにただ頷くだけのことができない自分がいたから。何も言えずに固まる私に何を思ったか、彼は焦ったように「なーんて」とおどけて見せた。

「冗談だよ、冗談!…あはは、先輩がほら、結婚するなんて言うから…ちょっと影響されたっつーか…あはは」

笑い声を二度漏らし、そういう彼は明らかに動揺していた。
だけどそれに突っ込むこともできず、私もまた愛想笑いでその場を流す。
その日はいつも以上に彼と早く別れ、私たちは帰路についた。
帰り道、ただ頭の中で彼の放った「結婚してほしいと言ったら…」と言う言葉がぐるぐると回っていた。

結婚。
結婚。
確かに、考えなかったわけではない。
入社3年目。まだまだ若くて、新人で。結婚なんて考える必要のない歳ではあると思っている。仕事だってこれから精を入れて頑張っていく、という頃だし。
…でも、それと同じように彼との未来だって考えないわけではないのだ。
だって大学から合わせて6年。6年もの間、彼と付き合ってきたのだ。社会人になって、周りの人が徐々に結婚するようになって…。もし結婚するなら、それは彼とに違いない。そんなことを思う自分がいることも、真実。

今日、あんなことを彼が言ったのは別に今すぐ私と結婚したい、とかいうわけではないのだろう。きっと先輩が結婚するから影響されたというのは本当だと思う。
ただ彼からその言葉を聞いてまるで心臓がひっくり返るような衝撃に襲われた。
なんだか彼から結婚の言葉を告げられると、途端その将来がリアルに浮き上がってきたかのような気がして…。

そこまで思ってはっとしてから私はぶんぶんと頭を横に振る。
結婚。
結婚、なんて。
まだ私には早い話だ。それに、なにより私にはまだ結婚できない理由があるではないか。

都内一等地の高層マンション。コンシェルジュの人に頭を下げてから幾重ものロックを解除して、エレベーターに乗り込み階層を指定する。

「…結婚、なんて…」

そんなもの、第一あの人がいるのにできるはずがない。

ちん、という音を立てて止まったエレベーター。
ゆっくりと開いたドアから外へ降りて、私は自分の家へと足を進める。カードキーを使って鍵を開け、ドアをゆっくりと上げる。

「…ただいま」

そう言って、靴を脱ぎ、長い廊下を歩いてリビングへと進む。
一体いくらしたのだろうか、私なんかの給料じゃ一生かかっても払えきれないような額なんだろうななんて自宅を他人事のような目で見まわしつつ、私はリビングへと足を踏み入れた。

ソファに寝転がる後ろ姿。
床に投げ出されたTシャツと靴下を拾って、私はため息を吐きつつそこに寝転ぶ人へと声をかける。

「…ちょっと、やめてって言ってるじゃない。脱ぎっぱなしにするのは…」
「………」
「…聞いてるの!きみ兄ちゃん!」

大きな声を出してそう言えば、ソファから乗り出すようにこちらを見たその人は腰をぼりぼりと掻きつつ、なんとも締まらない顔で私へと言った。

「ほいほい、すまんな。おかえり、名前」
「…ん、ただいま。じゃなくて!これ!洗濯物は洗濯籠に入れてよねもう!」
「謝っとるやろ、わかったって。…うるさい妹やなぁ、今兄ちゃん、仕事から帰って疲れとんの。ちっとほっといてくれや」

そういってごろりと再びソファに寝転ぶその人には全く、頭痛がするばかり。
…この人を置いて、一人で結婚するなんてできるわけがない。
せめてこの人にもまともに長続きするような彼女の一人や二人、いたらどれほど……。
はあ、とため息をついて顔を横へ向ければ飾り棚の上に置かれた雑誌が目に入る。目を惹く金髪と端正な顔立ち。表紙の男は誰が見てもイケメンと評する容姿をしている。
…ああ、全く。
あれとこれが同じ人間とは思えない。
思わずソファの上にいる人と雑誌の表紙の男を見比べてしまう私は悪くない。そう、決して悪くない。

「おーい、つか腹減ったんやけど。夕飯作ってくれー」
「……」

自分で用意しろ!
と言えないのは彼に養ってもらっている身の上故。
何も言わず冷蔵庫に向かう私。バラエティ番組を見てゲラゲラ笑う彼。
…人はなんというだろう。
この男…私の兄のこのだらしのない40代のおっさん然とした姿を見て。幻滅するだろうか、それとも「私生活のこの人のことを見れて感激!」とでもいうのだろうか。
どちらにせよ、この場において真実は一つ。

いわゆる有名人。
いわゆるアイドル。
いわゆるジャニーズ。


関ジャニ∞というグループに所属しているアイドル、横山裕こと横山侯隆(40)は私、横山名前(25)の兄である。