wikipedia
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
宇藤ミチル(うどう みちる、1973年〈昭和48年〉4月12日 - )は日本の女優、タレント。アミューズ所属。
元女子プロレスラーであり、日本を代表するアイドルレスラーの一人。
90年代中盤には一大ブーム巻き起こし、女子プロレス界を牽引した。本名:宇藤美千留。
Udou Michiru |
![]() |
リングネーム 宇藤美千留 生年月日 1973年4月12日(52歳) 出身地 日本 福岡県朝倉市 身長 167cm 体重 64kg 血液型 O型 職業 俳優、タレント 元女子プロレスラー 所属 全日本女子プロレス LLPW スポーツ歴 空手 陸上(走り高跳び) トレーナー ジャガー横田 アジャコング 堀田祐美子 デビュー 1989年12月1日 引退 年 月 日 事務所 アミューズ 公式サイト 公式プロフィール |
映画 |
1 来歴 2 人物 3 出演 3.1 ドラマ 3.3 映画 3.4 バラエティ 5 主な受賞 |
来歴
デビュー前
1973年4月12日、福岡県朝倉郡杷木町(現朝倉市)に三人兄弟の長女として誕生。父は食品加工会社を経営しており、裕福な家庭で育つ。2歳の頃から気管支喘息の持病があり、喘息を克服するために5歳から空手を始める。剛柔流正剛館朝倉誠心道場の柄本泰祐師範に師事。そこから徐々に頭角を現していき、小学生の頃には全日本の大会にも出場を果たしている。
中学時代は空手部がなかったため、陸上部に所属。走り高跳びの選手として中学1年生時には県大会で2位に入賞するなど成績を残している。またこの頃には地元では美少女として有名で、校門前に出待ちのファンがついていたという。
中学2年生の頃に父親の会社が倒産したことで一家離散となり、兄弟たちとは別々に親族の家を数か月単位で転々と暮らすこととなる。半年後には母方の祖父母の計らいで引き取られ、兄弟そろって一緒に暮らせるようになるが以前とは程遠い生活状況に陥ることになった。
こうした家庭環境から中学卒業後には進学せず、就職することを決意。周囲に勧められる形で女子プロレスラーを志し、中学卒業後の1989年にオーディションに合格し、全日本女子プロレス(以下「全女」と表記)に入門。
全日本女子プロレス時代
1989年10月8日、東京・後楽園ホールにおける斉藤和枝戦でデビュー。同期には長谷川咲恵、伊藤薫、渡辺智子、バット吉永らがいる。
当初はアジャコングの付き人をしており、その流れで自身もヒールレスラーになると思っていたが、デビューしてから3か月後に突如会社から堀田祐美子の付き人になるように言われ、ヒールレスラーにはならずに終わった。だがその後もアジャコングとは交流は続き、新人時代のお金のない時代には食事を奢ってもらったりと大変世話になっていたという。
新人時代には、秋の1989年度新人王決定トーナメントにて優勝。翌年の10月には全日本ジュニア王座のタイトルを獲得するなど同期の中では出世頭であった。また会社の方針で1990年に同期の長谷川咲恵とともに「キャットガールズ」を結成し、「Virgin Love」でレコードデビューしている。
1991年3月、フジテレビ系列のバラエティ番組「とんねるずのみなさんのおかげです。」への出演をきっかけに世間に名が知られるようになり、同年7月には1stシングル「リゾラ」を発売し、単独で歌手デビューを果たす。同年11月、2ndシングル「待ちぼうけのLacrima」を発売。同曲はフジテレビ系列のドラマ「逢いたい時にあなたはいない…」の挿入曲としても使用され、オリコンシングルチャートで初登場1位を記録。同年第36回日本レコード大賞で新人賞を獲得。楽曲のヒットに伴いテレビ番組への出演回数が急増。全国的にその名が知れ渡り、ブロマイドが爆発的に売れ、一躍トップアイドルとして人気を博すことになる。
1992年4月発売の3rdシングル「ジレるハートに火をつけて」が45万枚、8月発売の4thシングル「Little Match Girl」が40万枚と立て続けにヒットを記録。同年7月にフジテレビ系列のドラマ「いつかまた逢える」でドラマ初出演。12月31日、第43回NHK紅白歌合戦に初出場を果たし、翌年の93年6月には5thシングル「Love∞Destiny」が80万枚を売り上げる大ヒットを記録する。しかし当人は多忙な芸能活動から練習する時間もとれない環境に不満を抱いていた。また当時、若手ながら注目を集めていた宇藤に対して嫉妬心を抱く選手は多く、その軋轢から当時、団体内では孤立していた。
1993年6月に発売した5thシングル「Love∞Destiny」が80万枚を売り上げる大ヒットを記録。また同年7月に堀田祐美子と組んでWWWA世界女子タッグ王座を獲得。
1994年3月、山田敏代の保持するWWWAのオールパシフィック王座に挑戦し、獲得。団体対抗戦によるプロレス人気の恩恵もあってアイドルとしてもレスラーとしてもそのキャリアは絶頂を達していたが、10月に突如として「負けたらLLPWへ移籍する」という過酷なルールの下でWWWA世界シングル王座を賭けて当時の女子プロレス最強、アジャ・コングと試合をすることが発表される。同試合は両国国技館で行われ、32分54秒にも及ぶ激闘の末、宇藤は体固めで敗れて移籍することが決定した。
これは当時、プロレスラーとしての活動よりも芸能活動に比重を置いた生活に耐え兼ねた宇藤がついに上役へ抗議し、「この状況が続くなら今すぐやめる」と言ったことが発端となって起こった出来事だという。またこの抗議をした翌日の試合を宇藤はボイコット。堂々と脱退発言をしたうえ、一試合のみとはいえ試合をボイコットした宇藤に対する選手たちの不満も爆発。当時上役たちは当時稼ぎ頭の宇藤を手放すことに難色を示していたが、選手内の騒ぎに収まりがつかなくなったことにより、宇藤に対して「シングル王座でベルトを勝ち取れたら言い分を聞く。ただ無理だったらやめろ」と退団勧告を告げた。
この話を聞き、「団体側があまりに勝手だ」と憤ったのが当時交友関係のあったLLPWの神取忍である。そして神取が宇藤に引退ではなく移籍を勧めたことをきっかけにして、LLPWと全女の談合の末、引退ではなく移籍を賭けたシングルマッチという体をとり、敗北後には宇藤はLLPWへ移籍することとなった。この試合は前例のない試合のため客足が増えるだろうという全女側の経営陣の考えから行われたものだが、実際にその試みは成功し、その話題性から後楽園での試合のチケットは5分でソールドアウトするほどであったという。アジャ・コングとの実力差は歴然としており、宇藤が負ける前提で組まれた試合ではあったものの、試合自体は完全なるシュート・マッチで宇藤曰く「本気で戦って完膚なきまでにぼこぼこにされた試合」だったという。
1995年2月3日、LLPWへ移籍後初めてリングへ姿を現す。
得意技
空手出身ということもあり、蹴り技を得意にしていた。
蹴撃技
竜巻旋風脚
代表技の一つ。
当初は「360°回転蹴り」や「トルネードキック」と呼ばれていたが、格闘ゲーム、ストリートファイターシリーズの竜巻旋風脚が登場すると似ていると話題になり、こちらの技名で呼ばれるようになった。
全身で回転しながら跳躍し、片足ずつ順番に相手を蹴り上げる技で高い跳躍力と滞空しながら姿勢を維持する体感能力が必要となる。習得に時間を要するためか、宇藤の引退後は使用している選手はいない。
かかと落とし
ドロップ・キック
延髄斬り
各種蹴り技
殴打技
ナックルパンチ
エルボー
バックエルボー
チョップ・スマッシュ
投げ技
ドラゴン・スープレックス
ハイアングルパワーボム
デスバレーボム
関節技
腕ひしぎ十字固め
飛び技
タイフーン・スプラッシュ・エルボー
代表技の一つ。
ムーンサルトに90度の横捻りを加え、エルボーで打撃を加える技。
ダイビング・ニー・ドロップ
ジャンピング・ニー・バット
フライング・ニールキック
トルニージョ
フォール技
サムソン・クラッチ
冬木弘道直伝。
ローリングクラッチホールド
がぶり返し
タイトル歴
WWWAのオールパシフィック王座
WWWA世界シングル王座
UWA世界女子タッグ王座
AAAWシングル王座
女子プロレス大賞
入場曲
「冬の散歩道」(A Hazy Shade of Winter)/サイモン&ガーファンクル
ディスコグラフィ
シングル
中学2年生(14歳)の頃に父親の会社が倒産し、一転して多額の借金を背負うことになる。会社がつぶれたショックから父はギャンブルや酒に依存するようになり、お酒に酔うと母に暴力を振るうようになった。その後、暴力に耐えきれなくなった母は蒸発、父も滅多に家に戻ってこなくなり、最終的に一家は離散。宇藤は弟妹たちと共に父方の祖父母の家に引き取られて育てられる。
「兄弟と引き離すのは可哀想だ」と全員を引き取ってくれた祖父母は優しく、生活は楽しかったが一方で突然3人の子供を養うことになったために家計は厳しい状態となり、食うに困るほどの極貧生活を送ることになる。宇藤自身も家計を助けるために中学時代には牛乳配達のアルバイトをしていた。
中学3年生の頃には弟妹たちには苦労をさせたくないという思いから、卒業と共に就職を決意する。当時は女子プロレス全盛期の時代であり、もともとクラッシュギャルズのファンだったことから女子プロレスラーを志す。
当初は全日本女子プロレスへ入門したいと思っていたが、当時は福岡の片田舎に住んでいたことからオーディションを受ける方法がわからなかったという。
そのことを中学校の担任教師に相談をしたところ「全女ではないが、ジャパン女子のプロモーターなら知り合いにいるからそっちなら口利きができる」と言われ、その伝手で入門テストを受けさせてもらうことになる。テストには見事合格を果たし、1989年、中学卒業と共に上京。ジャパン女子プロレスに入門する。
練習生時代は3つのバイトを掛け持ちしながらも、実家への仕送りを行う日々を送っていた。食費に回すお金がない状態であったがバイト先がお弁当屋さんだったため、廃棄処分のお弁当を食べて食いつないでいたという。
同年12月1日、後楽園ホール大会での対小林知美戦でデビュー。同期にキャロル美鳥、GAMI、コマンド・ボリショイ、福岡晶らがいる。
当時の宇藤はデビューしたら当然にそれなりの給料がもらえると思っていたが、実際団体の経営不振などから給料が未払いの月も少なくはなかった。寮生活だったため衣食住には困らなかったが、バイトの時間も満足にとれず家族への仕送りを送れなくなったことに焦り、ファイトマネー欲しさに団体側に「少しでも多くの試合に出してほしい」と掛け合ったことが原因で先輩レスラーに目をつけられ、生意気だといじめの標的にされた。
デビュー後は先輩レスラーとの軋轢や金銭的に苦労をしながら活動していたが、1992年1月26日の熊谷大会を最後にジャパン女子プロレスは解散。この出来事に失望感を覚え、一度は引退を決意するがその矢先に新団体を旗揚げするから参加しないかという勧誘を神取忍から受ける。当初はその誘いを断ろうと思ったものの、神取にはデビュー当初から非常に可愛がられており世話になっていたことから断り切れずに入団を決意。1992年8月29日LLPWの旗揚げに参加。LLPW所属のプロレスラーとして活動を開始。
1993年11月、ジャパン女子時代の縁から当時LLPWの広報を務めていた近見幸太郎に招かれて後楽園ホールの試合に訪れていた音楽プロデューサー、作詞家の秋元康と出会う。リングで戦う宇藤の姿を一目見て、秋元はすぐに「この子を芸能界に引っ張り出したら売れるぞ」と確信したといい、その場ですぐに近見へ宇藤のデビューを打診した。
当時、立ち上げたばかりで経営が厳しかった団体の状況を憂いていた近見としてもその提案は僥倖であり、代表である風間ルミや宇藤にすら話を通すことなくその場で提案を吞んでしまい、当人の預かり知らぬ場所でデビューが決定した。
1994年6月に1stシングル「リゾラ」を発売し、アイドル歌手デビュー。この時つけられたキャッチコピー「タイフーン・プリンセス」は後にレスラーとしての愛称ともなっている。同年11月、2ndシングル「Nebula Sky」を発売。同曲はフジテレビ系列のドラマ「あすなろ白書」の挿入曲としても使用され、オリコンシングルチャートで初登場1位を記録。同年第36回日本レコード大賞で新人賞を獲得。楽曲のヒットに伴いテレビ番組への出演回数が急増。全国的にその名が知れ渡り、ブロマイドが爆発的に売れ、一躍トップアイドルになる。またアイドルとしての活動で急増したファンがプロレス会場にも数多く訪れるようになり、クラッシュ・ギャルズ以来の大ブームを作り出す。
1995年3月、WWWAのオールパシフィック王座を獲得。4月発売の3rdシングル「ジレるハートに火をつけて」が45万枚、8月発売の4thシングル「Little Match Girl」が40万枚と立て続けにヒットを記録。同年7月にフジテレビ系列のドラマ「いつかまた逢える」でドラマ初出演。12月31日、第46回NHK紅白歌合戦に初出場。
1996年6月に発売した5thシングル「Love∞Destiny」が80万枚を売り上げる大ヒットを記録。9月にハーレー斎藤とともに
1997年6月、横浜アリーナで全女以外の所属選手としてはダイナマイト関西に続いて2人目となるWWWA世界シングル王座を獲得。
プロレスラーとしてもアイドルとしてもそのキャリアは絶頂に達していたが、同年12月に突如として「敗者引退」という過酷ルールの下で神取とLLPW認定シングル王座を賭けて勝負することが発表される。同試合は両国国技館で行われ、32分54秒にも及ぶ激闘の末、宇藤は体固めで敗れて引退が決定。改めて引退興行をやる意思はないこと、今まで支えてくれたファンへの感謝の意を述べ、宇藤はリングから降りて去って行った。その後は引退と共に芸能活動も休止が発表される。
この試合に至った理由として当時宇藤の芸能活動に関して団体内で揉め事が起きたことが一番大きな原因というが詳細は語られていない。
芸能活動休止後は暫く実家に戻り、女子プロレスラー時代の人間関係を断ち切って一般人として生活していたが、引退から2年経った頃に偶然地元の福岡に興行で訪れていたライオネス飛鳥と出会い、彼女から「会社の揉め事とか周りのいざこざとか、そういうことでやめちゃって本当によかったの」と言われ、不完全燃焼のままプロレスを引退してしまったことに心残りがあることに気づき、もう一度現役復帰を目指すことになる。
2000年1月16日、GAEA JAPANの後楽園ホールでの興行に飛鳥が団体内ユニット「DorA」へ招き入れる形で参戦。フリーで現役復帰。復帰後はヒールに転向し、流血沙汰を起こし相手を病院送りにするなどかつてのアイドルレスラー時代とは一転した立ち振る舞いを見せ、再び人気レスラーとして返り咲く。2002年にはAAAWシングル王座を獲得するなど活躍を見せるが、首の故障(頸部椎間板ヘルニア)により現役を続けることが困難となり、2003年1月に年内のプロレスラー引退を宣言。2003年10月3日に行われた「宇藤美千留引退興行 GEA JAPAN in 横浜アリーナ大会」を最後に現役を引退した。対戦相手は神取忍だった。
2004年からは芸能事務所アミューズに所属することを発表し、芸能活動をスタートさせる。同年10月「」で引退後ドラマ初出演。
Top▲
