星組
「結婚すんねん、私」
左手の薬指に輝くダイヤモンド。
彼女の柔らかな微笑みからは隠そうとも隠しきれない喜びと幸せが滲み出ていた。店内に流れるバッハの音楽が耳に残る。
…ああ。その時、私はなんて言ったんだっけ。
もはや記憶はほとんどない。でも、彼女が最後まで幸せそうに笑っていて、帰り際に「結婚式の日程が決まったら招待状、送るから」と言っていたからきっとうまくやれたんだと思う。これでも役者の端くれで、これでも星組のトップスターだ。取り繕うのは慣れていた。
私たちの関係を、一体どう言い表せばいいのだろう。
音楽学校から彼女が卒業するその日まで、私たちはずっと一緒にいた。同期であり、友人であり、時には相手役であり、ライバルでもある。互いに切磋琢磨して夢を叶えるためにもがき続けてきたあの日々を私は今でも鮮明に思い返すことができる。
最初はただの憧れだった。その気持ちは恋心へと変わったのはいつのことだったか。
同期だから、女同士だからと胸に秘めていた想いはその日、誰に伝わることなく静かに私の内で終わりを迎えたのだった。
「あっ!ことさん!やっと見つけたぁ」
千秋楽が明け、東京公演に向けての自主稽古中、自販機の横に備え付けられたベンチに座る私に向けて底抜けに明るい声が飛んできた。
「なまえ…」
赤茶色の髪がふわふわと揺れている。八重歯をにっと見せた笑みを浮かべ、彼女は私の方へと駆けよってきた。
3期下の後輩であるなまえはかつて私のお手伝いをしていたこともあり、プライベートでもとりわけ仲のいい下級生のうちの一人だった。
「どうしてここに」
彼女も休憩で飲み物でも買いに来たのだろうかとも一瞬思ったけれど、彼女の口ぶりから察するにどうやら私を探していたらしかったようだ。
「いやー、実はさっき先生からことさんにこの楽譜渡しといてって頼まれちゃって!」
なまえはそう言って、手に持ったクリアファイルからクリップでまとめられた数枚の紙の束を取り出し、それを私へと差し出した。五線譜に描かれた音符を見て、ああそういえば先生に新しい楽譜が欲しいってお願いしていたっけと思い出す。
こんなの急ぎじゃないし、あとでだっていいのに。わざわざ練習を中断して届けに来てくれたのかな。相変わらず妙に律儀な子だ。そんなことを思いながら「ありがとう」とその楽譜を受け取れば、彼女はへへ、とはにかんで「はい」と頷いた。それから彼女はごく自然な動作で私の隣へと腰を掛ける。
「そういえばことさん、この前ことさんが貸してくれた漫画!あれこの前、ようやく読み終わりましたよ!」
漫画とかあんま興味なかったですけど、あれは面白かったです!それで続きが気になるんですけど…あれって最新刊なんですか?もし続きあるなら貸してほしいなーって…。
目を輝かせ、言葉を次々放つなまえ。
相槌を返しつつ、相変わらずよく喋る子だとその姿を見て思う。いつだって明るく、一人でも賑やかななまえ。同期の瀬央なんかはいつだってこのマシンガントークにうまくついて行っているものだが、比しておしゃべりが得意ともいえない私は相槌を打つぐらいしかできなかったりする。
…そういえば彼女も。
在団中はなまえとよくこうして話し合って、ゲラゲラ腹を抱えて笑っていたっけ。生粋の関西人である彼女はなまえのことがお気に入りで二人はよく飲みの場でコンビを結成し、宴会芸を披露していた。
懐かしいな。…でもあれももう、5年以上も前のことになるのか。
「…ことさん?」
ぴたり、と先ほどまで賑やかに話していた言葉が止まる。
横を見ればなまえが目を丸くして、私をじっと見ていた。
「……あの、…ことさん。…なにかあったんですか」
心配げに寄せられた眉にがつんと頭を殴られたような気になった。
ああ、まずい。変に思われたんだ。
私、そんなにぼんやりしてただろうか。感傷的な態度が表に出ていただろうか。
なまえの大きな目が私をじっと見つめている。
…本来であれば私はきっと「なにが」って笑いながら返すべきだったんだと思う。上級生が下級生に心配をかけるなんて、そんなのありえないこと。
だけどさっきまで笑顔を浮かべてきゃらきゃらと笑っていたなまえがあまりにも真剣な顔をして、真っすぐな目を向けてくるから。
「……あの、私でよければ、なんでもお話聞きますよ。役には立たない…かもしれないけど!でも、なんだって聞きますから」
組内でもムードメーカーで明るいなまえ。昔から上級生に「何にも考えてない呑気そうな子」だと言われていたが、実際はその真逆で、この子が人のことをよく見て気を遣える優しい子だということを私は知っていた。
…その優しさが今はただ、痛む胸に沁みる。
「……なまえ」
「はい!」
…己一人では抱えきれない大きな想い。消化できなかった恋心。
なまえがあまりにもいいやつだから、彼女になら打ち明けてはいいのではないかと心が揺れる。
「…なまえ、あのさぁ…」
私。
私さぁ。
「…失恋した」
ぽつり、とこぼした言葉。
静かな廊下に響いたそれは声に出したらあまりにも生々しくて。
私は自分の膝から目線をもう、上げられなかった。
「……」
何を言えばいいのか、迷っているのだろうか。それもそうだ。私だっていきなり仲のいい上級生に「失恋した」なんて打ち明けられたらどうしようか悩む。
でも、言葉を探すその間が今の私には少し辛くて。私は畳みかけるように言葉を発する。
「結婚しちゃったの。相手の人が」
気持ちはさぁ、伝えていなかったし。相手は私が好きだったってことなんて知りもしないし。わかってたことなの、…そう。わかってたこと。でも、でもさぁ。
「…あの時気持ちを伝えていたらってそればっかり考えて。なんで急に結婚なんて…って裏切られたみたいな気持ちになって。全部、自分勝手な思いだけど、それでも…」
ああ、組子にこんな姿を晒すトップスターがどこにいる。途方もない自己嫌悪と失恋の苦しみで頭がおかしくなりそうだった。
我慢できずに涙がこぼれる。ズボンの上に落ちたそれは、染みになってじわりと消えて行く。
…情けない、不甲斐ない。なにがトップ、なにが上級生。こんな自分が嫌いだ。大嫌いだ。
「…ことさん」
…なまえの声。
「ことさん、顔…上げてくださいよ」
そう言った彼女の声はいつもの声だ。
いや、いつもより幾分か緊張で硬くなっているが、それでもいつもの明るいなまえの声だ。ゆっくりと顔を上げて、横を向けばなまえが目尻を少し緩めて私を見ていた。
「ことさん、泣かないでくださいよぉ。お化粧、崩れちゃいますよ」
そう言いながらなまえはポケットからティッシュを取り出しそれで私の目からぼろぼろと流れる涙の粒を拭う。温かな指先が頬を掠める。
「あー、ほら。マスカラちょっと落ちてる!もー、このままじゃ滲んでパンダみたいになっちゃいますよ」
「もう、なんで今日に限ってウォータープルーフのマスカラじゃないんですか!」なんてことを言うなまえに思わずふっと笑いがこみあげる。そういうことを言う場面じゃないだろう、ここは。舞台だったらきっとすごくシリアスなシーンなはずなのに。
「なによそれ。上級生にパンダって…失礼じゃない?」
笑いながらそう言えばなまえは明らかに焦った様子で言う。
「あっ…それは…あれですよ!言葉の綾ってやつで。ことさんはマスカラ落ちて黒くなっててもかっこいいですから大丈夫です!」
「さすがに苦しいって、その言い訳!」
「ほ、ほんとですよ!ひっとんに聞いてみてください!ひっとんも『マスカラ落ちて目が黒くなってることさんも素敵です!』って言うはず…!」
「なこちゃん…はまあ、いいそうだけどさぁ…!」
不思議だと思う。
なまえと話しているとなんだか胸が軽くなる。
元気で明るくて、でもそれだけじゃない。誰よりも優しい子。だからきっとこの子の周りには人がいつだって溢れているんだろう。
「…ありがとうね、なまえ」
こうやってわざと茶化すのだって私を慮ってくれてのことだというのもよくわかっているから。
ぽつりと零したその言葉になまえは目を見開く。
「…もうどうしようもないことだってわかってるんだけど。…私って自分勝手な人間だよね」
だって相手は結婚する。結婚して、奥さんになって、幸せにその人と家庭を築いていくんだから。
そこに私の立ち入る隙なんて、ない。
相手の幸せを願うのなら、私は素直にその結婚を祝福すべきなのだ。なのにそれができない自分はきっとすごく嫌な奴なんだろう。
「そ、…そんなことないです!」
がたん、という音を立てて立ち上がったなまえ。その必死な形相に私は思わずぽかんと口を開ける。
「あの、ことさん!私は…その、恋愛には縁遠い人間なので!きちんとしたことは、言えないですけど…でも…」
「………」
「でも、ことさんの思いは当然のものだと、思います!」
言葉につっかえながらなまえはしどろもどろに言う。
「好きな人が結婚して、素直におめでとうって思えないのなんて当然じゃないですか!それだけことさんが本気でその人のことを好きだったってことでしょう!」
「……なまえ」
真剣な声と眼差し。
なまえの手がぐい、と私の肩を掴む。こんな時だって、なまえの触り方は優しいものだった。
「ことさんは自分勝手な人なんかじゃない。…ことさんは、すっごくいい人ですよ!私が保証します!…だからそんな悲しいこと、自分で言わないでくださいよ…」
その言葉に鼻の奥がつんとしたのは悲しかったからじゃない。
ただ、嬉しかったからだ。
同情でも哀れみでもなく必死に紡いでくれた言葉は優しくて、こんなにも温かい。私の恋心を肯定してくれた。悪いことではないと言ってくれた。
…そう、私は好きだった。誰にも言わずにいたけれど本当に、あの子のことが好きだったんだよ。それはもう、過去のことにしなければならないけれど。
ぐす、と鼻を鳴らした私に焦った顔をしたなまえ。
私は二度目の泣き顔を見せたくはなくて、彼女の顔を抱えるようにして思いきりその薄い身体を抱きしめる。うわぁ、と叫びながらも嫌がる素振りを見せず、ただそっと私の背に手を添えてくれるなまえは優しい。
大女2人が廊下で抱き合っている姿はさぞ滑稽だろう。でも、誰にどう思われたって構うものか。だって私にはこんなに私のことを慕って、想ってくれる可愛い後輩がいるんだから。
「…ありがとう、なまえ」
終わった初恋。
叶わなかった想い。
いずれこの想いを私はあんなこともあったな、と思える日がくるんだろうか。
…きっと来るはずだ。
恋に破れてもなお、私には大事なものがあるのだから。
98期男役
明るく天真爛漫。星組のムードメーカー。
下級生時代には礼さんのお手伝いをしており、組内で一番仲のいい先輩後輩の関係。