花組

 


本科生との長い『お話し合い』を終え、重い身体を引きずって自室へ戻った私と同室の同期は布団の上へばたりと倒れ込んだ。

厳しい世界だということは知っていた。
特に予科生は、寝る暇もないほどに大変だということは同じ受験スクールに通っていた先輩からも耳にタコができるほどに言われていた。
だけど、でも。…これほど辛いものだなんて思ってもいなかった。

「どうしてそんなこともできないのよ!!」と、私たちを追い立てるかのような怒声。思い出すと背筋が凍るような気がして。
…こんなに怒られたことは音楽学校に入るまで一度もなかった。理不尽だと思っても、それを否定する言葉も吐いてはいけない。泣いてもいけない。ただ眉間にしわを寄せ、頭を90度に下げて「すみませんでした」と「はい」を言い続ける毎日。

幼い頃から夢見た舞台。
そこへ至るための道のりは長く、とても険しくて。
……あとどれほど、こんな生活を続ければいいのだろうか。

明日からも続く地獄のような日々を思うと、恐怖からか、耐えられない辛さからだか目尻にじんわりと涙が浮かんできた。家に帰りたい。パパとママに会いたい。もう逃げてしまいたい。
そんな思いを人目も憚らず吐き捨ててしまいたくなりながら、滲んだ涙をぐしぐしと拭っていると隣からぐす、という鼻を鳴らす音がした。
はっとしてそちらへと目を向ければ、私と同じように布団に倒れ込んでいた同期が顔を枕にうずめたまま、顔上げずにぎゅうと丸くなっていて。同期の末っ子のそんな姿を見た瞬間私の涙はひゅるっと引っ込んでしまった。

…そうだ。
私が泣いてる場合なんかじゃないでしょう。だって私はこの子よりお姉さんなんだから。

同期でも一番年下の女の子。
宝塚のファンだったというわけではないらしい彼女は音楽学校の事情にも疎く、そのせいで本科生に目をつけられ、よく怒られていた。人前では涙をいつもぐっとこらえて、でも部屋に戻ったらこうして何かに耐えるように声を忍び、泣いている。
その姿はいじらしくて、どうしようもなく可哀想だった。
守ってあげなければ、といつも思う。同室のお姉さんとして、同期として。



「…れいちゃん」

丸まった背中に手を当てて、ゆっくり摩る。
すると少しの沈黙の後、「なあに」と小さな声が返ってくる。
なんて声を掛けようか、少し考えて。それから私はそういえば彼女は今日は夕飯を食べれてなかったなと思い出す。寮での雑務と本科生からの指導で夕ご飯を逃すことはままあることだけれど、食べることが大好きな彼女にとって一食を抜かすのも辛いことに違いない。

「れいちゃん、お腹空いてない?」
「お腹?……すいてない」

今日のお話し合いでのお叱りにすっかり意気消沈してしまっている彼女。
食欲はないと言い張るけれど、身体は正直なもので。漫画のようにタイミングよく、その台詞を吐いた数秒後にお腹が盛大にぐうと鳴った。
それを聞いて笑いそうになったけど、それのせいでへそを曲げられても困るから口をぴっと結んで私は努めて冷静に「れいちゃん、実家から送ってもらったバームクーヘンあるの。美味しいから一緒に食べようよ」と誘いの言葉を口にする。
そうすればのそのそと彼女はダンゴムシ状態を解き、起き上がると充血した目で私を見て無言でこくりと頷いたのだった。

紅茶なんておしゃれなものは部屋にないから、ペットボトルの麦茶を紙コップに注ぎ分け、それからバームクーヘンの箱を二人の間に置いて向かい合う。

「好きなの、食べていいからね。全部食べてもいいよ」
「…全部食べたらなまえちゃんの分、なくなっちゃう」
「いいよ。私はお夕飯食べたから。れいちゃんはご飯食べれてないでしょう、好きなだけ食べて」
「…うん」

遠慮した風にバームクーヘンに手を伸ばしたれいちゃんだけど、その数十分後にはほとんどすべてを食べ尽くしてしまったのだから全く食欲には正直な子だと思う。
…だけどまあ、こういうところが可愛くもあるんだよなぁ。食べ終わった後に一応申し訳なさそうにこちらを見てくる姿もまたいじらしくてたまらない。

「美味しかった?」
「うん」
「そっか、よかった。…あ、口に食べかすついてる」

そう言って唇の横についたバームクーヘンの欠片を取ってあげる。それから「ちゃんと口の周り拭いておきなよ」といいながらウェットティッシュを渡す。あ、布団の上にちょっとバームクーヘンのカスおちちゃってる。寝る前に一回叩かなきゃだめだな、こりゃ。
そんなことを思いつつ周囲に気を配っているとくい、と服の裾を引っ張られる。

「なまえちゃん…」
「どうしたの、れいちゃん」
「ありがとう。おいしかった、バームクーヘン」
「どういたしまして」
「…あと、もうひとつ」
「うん?」
「…ごめんね、いつも私…なまえちゃんに頼ってばっかりだ」

神妙な顔でそう言うれいちゃんに一瞬呆気にとられる。
頼ってばっかり、なんて。
そんなの気にもしていないことだというのに。

「私…いつも迷惑ばっかりかけて。なまえちゃんだって委員さんで大変なの、わかってるのに…」

しょぼん、と見るからに肩を落とすれいちゃん。その姿を見て、私は慌てて言う。

「べつに気にしなくてもいいんだよ!そんなこと…私の方が年上なんだから、当たり前だよ」
「でもなまえちゃんは娘役さんで、私は男役だよ!…本当は頼ってもらえるようにならなきゃいけないのに…」
「そんなの…」

娘役、とか。男役、とか。
そんなこと気にしたこともなかった。だってれいちゃんは私にとって年下の可愛い妹分だから。…でも、そうか。この子は男役を目指しているんだ。本人にとってこれは結構重要な問題なのかもしれない。
そう思うとうかつなことは言えない。
とはいえこれを機に「もう頼らないようにする」とか言って一人でトイレで泣かせるようなことがあれば…私は他の同期たちに末っ子になにしたって責められる羽目になるのだろう。
…どうするべきか。
少し考えてから私は口火を切る。

「…れいちゃん、今は私たちは予科生だし、私とれいちゃんは歳も離れているんだからしょうがないよ」
「でも…」
「だけどね、れいちゃんが一人前の男役さんになったら、その時はれいちゃんのこと頼らせてね。それまで待ってるから」

彼女の目がきらきらと輝いていくのがわかる。

「一人前の男役…」
「うん。だから、それまでは私に頼ってよ。ね?」
「…うん、そうする!」

そう言って、彼女はぎゅうと身軽に私の腰に抱き着いてくる。
わっと驚きながらも、そんな行動の一つすら可愛くて、私は「一人前の男役への道は遠そうだ」なんて思いながら、普段はリーゼントで固めている短い髪をわしゃわしゃと撫でつけたのだった。







「…なんてこともあったよね」
「懐かしいねぇ」

あの頃のれいはかっこいいという言葉とは無縁な可愛い女の子だった。男役の「お」の字もないような立ち居振る舞い。ただ、重力を感じさせない身軽なダンスやそこにいるだけで目を惹く美貌は将来の有望さを物語っていたようにも思える。

「あの時の子が、こんなにおっきく育っちゃうなんて」

そう言って彼女を見れば苦笑いが返ってくる。

「あの時はご迷惑をおかけしました…」
「本当だよ!…って言いたいところだけど、私もあの時はれいが可愛くて仕方なかったから。言わなかったけどね、本当はれいに頼ってもらえて嬉しかったんだよ」

一人っ子で兄弟姉妹のいない私からしたら年下で慕ってくれるれいが可愛かったのも当然だ。本科生になり、それぞれ部屋を別にして、別の組に配属されてからはあの時ほど頻繁に顔を合わせることも、話し合うこともなかったけれど。

「でも今こうして同じ舞台に立っているって考えるとなんだか感慨深いというかなんというか…」

音楽学校入学前に目指していたトップ娘役にはなれなかったけど、大好きなお芝居を追及して、それを認められ、脇の役者として活動できている今は充実に満ち満ちている。
研究科10年目を目前として、宙組から花組へ組替えとなった時はどうなることやらと思ったけれど。

「れいとお芝居できて楽しいよ、今は。それに同期のトップと二番手を後ろから見ることができるなんて、ほんと贅沢なことだし」

あ、ただ宙組に一人残してきたずんちゃんのことは心配だけど。
なんて茶化しつつ言えばへへ、と頬を赤く染めて照れたように笑うれい。
可愛かった妹分は今や私の庇護のもとから飛び立って、大きな舞台の真ん中でスポットライトを浴びながら羽根を背負うトップスターだ。

「もうれいも、一人前の男役さんだ」

偉い人たちはどうやら若くしてトップになるれいの同期支えの役割を私に見出して花組へ送り込んだようだけれど。昔とは違うんだ、もう私なんかがいなくたってれいは一人で立ってられる。宝塚という看板と花組という誇りを背負って、それでもなお笑っていられるほどに今のれいは強く、美しい。

「もぉ、なまえちゃんは私のことを買いかぶりすぎ!真面目に褒められると恥ずかしいって」
「うふふ、本当のことしか言ってないもーん」

少し褒めれば恥ずかしそうにれいは顔を背けて、私の腕を軽くたたいた。
それに笑いながら、私は時計を見やる。
時刻はすでに夜の10時を回っている。久々に互いのオフが被ったからと言ってれいの自宅でくつろがせてもらっていたけれど、さすがにそろそろ帰らなくては。私はともかく、れいは多忙なトップスター。休めるときはたくさん休んだ方がいい。

「…じゃあ、れい。私はそろそろ帰るね」
「えっ!…も、もう?」
「もうもなにも。ちゃんと時計みなさい、もう10時だよ。れいも早く寝なきゃだめ。あなた、ただでさえ隈できやすいんだから」

そう言って立ち上がろうとする私にれいは目をぎょっと見開き、腕をぐいと引っ張った。日々娘役をリフトするその筋力は伊達ではなく、私の身体はいともたやすくソファへ逆戻りした。
人が気を遣ってるというのに一体なんだ。
咎めるような目でれいを見れば彼女はしどろもどろに視線を彷徨わせ、「あー」「うー」と意味もない声を漏らす。それから少しがっくり肩を落とすと「…まだ一緒にいたい」とまるで子供のようなことを言うもんだから、思わず私は噴き出した。

「わ、笑わないでよ!」
「だ、…だって!もうー、れいったらおこちゃまみたいなこと言って」 

95期娘役
宙組→花組で脇役路線の娘役として活躍中。
芝居に定評がある。同期の中ではお姉さん的立ち位置。予科生の頃柚香さんとは同室だった。