宙組

 

今でもよく覚えている。


組配属されてきたばかりの頃の彼女は大きな図体からは想像できないほどの人見知りで、いつも周囲の顔色ばかりを伺っているような子だった。
私と彼女は学年が4期も違っていたから、同じ男役とはいえ関わり合うことも少なくて。
だから、バレンタインのその日。彼女が耳を赤くしながらも私にそっとチョコレートを差し出してきたのは本当に、本当に…びっくりしたんだ。

「…もう、やめてくださいよ。その時の話は…恥ずかしいです」

照れたように頬を掻くゆりか。
あの時はまだまだペーペーの下級生だったのに今ではもう組を従えるトップなのだ。時の流れを否が応に感じながらも私はワインをごくりと飲み干す。

『一緒に飲みに行きませんか』

もう何年も動いていなかったラインに突然そんな一文が送られてきたとき、私は柄にもなく焦ったんだ。
…なんて返したらいいかわからなくて。でも既読をつけちゃったから早く返さなきゃいけなくて。
結局、『いいよ。いつにしようか』なんてなんでもないように返信した私を一体彼女はどう思ったのか。

「…もう、あの日から10年近く経つんですね」

しみじみとゆりかが呟く。
10年。そうか、もう10年になるのか。
私が男役に青春の全てをかけていた時代。めまぐるしい毎日に嫌気がさしたこともあった。泣きたいくらい辛いことも。でも、それでも必死で駆け抜けてきたあの日々。

「いろいろあったよね、あの頃は」
「…そう、ですね。いろいろありましたね、お互いに。…覚えてます?私と喧嘩したときのこと。新公で初主演をやらせていただいて…」
「ああ!そんなこともあったあった!」

ゆりかの初めての新人公演。それは安蘭さんの退団公演だった。誰よりも早い抜擢に一番驚き、不安に思っていたのは彼女自身で。
私の「大丈夫だよ、ゆりかなら」なんていう楽観的な言葉に「大丈夫じゃない!」と怒鳴ったゆりか。
…後にも先にも、ゆりかが私に怒ったのはその一回だけだった。

「喧嘩っていうほどのもんでもなかったけどね。私とさゆみの喧嘩の方がもっとひどいし」
「お二人はよく喧嘩してましたもんね」
「そう。しかもくっだらないことで。だいたい、ご飯のこと」

ふふふ、と互いに顔を見合わせて笑う。
さゆみと私の喧嘩は星組の同期会でも笑いの種になるようなくだらないものばかり。若い頃の私たちはあんな些細なことでいちいち怒れるほどの体力があったのだ。
いつもそうやって喧嘩をする私たちの仲裁にゆりかは入っていた。
…懐かしい。私たちはあの時、本当に仲良しだったんだ。

「…あ、ワイン、飲み切っちゃいましたね」

ボトルの中身を覗きながらゆりかが言う。
深緑のワインボトルが光を反射して、キラキラと輝く。その光をぼんやりと見つめて思う。
…彼女にとってはもう、その頃のことは過去のことなのだろうか。私たちの間にあったあのときめきも、今は昔のことなのだろうか。
いずれトップになるだろう彼女の枷にはなりたくなくて「私のことなんか忘れてほしい」と言ったのはほかでもない私自身なのだけど…、なぜだろう。彼女との間にあったあの感情を失くされることは、酷く虚しい。

私って結構、自分勝手なやつだ。
よく私のことを好きになったな、ゆりかも。

そうして視線をゆりかから外して、自分の手元へと向ける。指先のささくれに爪切りでカットしただけの、整えられていない爪。
…酷い落ちぶれようだ。昔は華やかな舞台の上で憧憬と羨望の視線だけを向けられて生きてきた人間の行きついた先は、日常の片隅だというのだから。

私は自分を恥じた。
同時にこうしてゆりかと一緒にいることが間違っていることのように思えてきてしまった。

「…ちょうどいいから、もうそろそろお開きにしよっか」

ワインを一口飲みこんで、彼女にかけた声は震えてはいなかったか。
…ゆりかの眠たげな瞳が私を見る。

「なまえさん…」
「時間だって遅いし。明日はお休みだとはいえ、明後日からはまたお稽古なんでしょ」

早く帰って、体を休めた方が良い。
言外にそう言い含んだ言葉にゆりかは俯いた。沈黙がその場を支配する。気まずい雰囲気の中で先に動いたのはゆりかだった。
ゆりかはパット顔を上げると少しまごつきながらも口を開く。

「…なまえさん、私…。…私…は…」

…一体、ゆりかが何を言おうとしていたのかはわからない。わからないけど、その瞳の奥にかつてと変わらない燃え滾る何かを見つけてしまったら、もうたまらなかった。
私は反射的に「だめだよ」と彼女の声に言葉をかぶせていた。

「だめだよ、ゆりか。…それは、言っちゃだめだよ」
「…なんでですか…」
「…だって、…だってさ、今の私じゃ…あんまりにも」

あんまりにも。
あんまりにも、今のゆりかには相応しくない。

華やかなトップスターとかつてそこに存在しただけの凡人。
一体その関係を、誰が祝福するだろう。


「…とにかく。ゆりか、私たち、もう終わったんだよ。もう…とっくの昔に」

10年前、私が退団を決意したその時に。
何も言わないゆりかを尻目に、私はここから早々に去る決意を固めた。これ以上ここにいてはいけないと、私の中の何かが警告している。荷物をまとめてバッグにしまう。それから財布を取り出し、適当な数のお札をテーブルの隅に置いた。
あとはコートを着て、店を出ればもうおしまい。私とゆりかのこの関係も、今日で全ておしまい。
胸の奥の痛みに気づかないふりをした。

「…じゃあね、ゆりか」

立ち上がろうとしたその時、「待って!」と悲鳴じみた甲高い声に呼び止められる。

「待って、待ってよ!なまえさん!」

ゆりかの声だ。
それに胸を締め付けられたのは、こうして呼び止められるのが二度目だったから。
…一度目は退団を彼女に告げ、別れを切り出した時だった。懐かしさと痛みに気を取られているうちに、いつのまにか私の手首はゆりかにがっしりと掴まれていた。
ゆりかの真剣な瞳が、私をまっすぐに見据える。

「…こんなの、酷い。私のことなんてお構いなしに、いつも全部なまえさんが決めちゃうなんて」
「ゆりか…」
「昔からずっと…退団するときだって…」

腕を引かれて、強く抱きしめられる。
ふわりと香った華やかな匂いは何の香水なのか。
ここが個室のレストランで良かったとぼんやり思う私はどこか夢心地だった。

「いかないでよ、どうしていつも置いてくの」
「…置いていってるつもりなんてないよ。私は…ただ…。…ゆりかに、迷惑をかけたくないだけで」
「迷惑なんて、考えたこともない!傍にいてくれさえすれば、それでいいのに。どうしてそんなこともわかってくれないの」

ともすればそれは、子供の癇癪のようでもあった。いつも穏やかで…こと私に対しては決して感情を荒立たせず、いつも頷いているような子が、数年ぶりに発露した強い感情。
それを見てしまったら…ああ、もう。
何も言えないじゃないか。

「私、私…本当に、まだなまえさんのことが好きなの。ただ、それだけなの…」

肩口に顔をうずめたゆりか。

「…そばにいてくれれば、それでいい。それだけでいいんだよ…私…」
「……」
「トップになったら、…一番になったら、なまえさんが戻ってきてくれるって…ずっとそう思ってた。だから私…辛い時だって、苦しい時だって…」

ああ、もう。
口から出たのは小さな溜め息。それが何に対するものなのかはわからない。ただ一つ、わかるのは今、この瞬間、この子を抱きしめてあげなきゃ私はきっとこの先後悔し続けるだろうということだけ。

「…仕方のない子ね、あんたは昔から」

尊敬できる舞台人で、可愛い下級生。
彼女の前だけでは、ずっと尊敬できる上級生でいたかった。
だからきっと、私は彼女から離れたんだ。苦しくて、辛かったけど、でも彼女のことを思えばそれが正しいと、あの時は本当に信じていた。

苦しくて、辛くて、…それでも。
相手のことを思っての行動であれば、それはどれだけ独善的だろうが愛には違いない。

そう、私はゆりかを愛している。
今も、昔も変わらずに。

「…もう、離してあげられないからね、私」
「…離さないでください、もう、一生」

その言葉を最後に、私は彼女の体を抱きしめていた。
先のことはなに一つとして見えないけれど、きっと彼女と一緒なら何も怖くないと、思いながら。


  
男役88期
元星組所属。現在は丸の内OL。
紅さんとは喧嘩するほど仲がいいの関係
退団するときに重荷になりたくないと別れていたが、10年を経て再会し、付き合い始める。