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月組に行ってほしい、と。
呼び出されて早々告げられたその言葉の意味がしばらく理解できず、私はぽかんと口を開けてその場に立ち尽くした。
「急な話で悪いんだけど…月組のプロデューサーと協議して決まったことでね。次の東京公演が終わったら翌日付で組替えしてもらうことになりました」
「…はあ」
はきはきとした口調の星組のプロデューサーに対して私の口から出たのは何とも煮え切らない返答で、とてもじゃないが上司に向かって使って良い言葉遣いではなかったけど。…でも、だって。
だって、本当に衝撃的だったのだ。
まさか組替えなんて。
有望株の若手や番手がついているスターさんが組替えならまだわかる。だけど別格路線と言っても差し支えのない、滑り込み一回の新公主演をしただけの私が組替え?しかも縁もゆかりもないような月組に?
一体何がどうなってこうなっている。
困惑と不安が押し寄せて、なぜですかと問い詰めたい気持ちでいっぱいになる。だけどそんなことをいうわけにはいかない。なぜなら組替えはいうなれば会社の人事異動のようなものだから。人事にいちいち平社員が口出しできないとの同じで、組替えにただの組子である私は口出しできない。
私にできることといえば「わかりました」と頷くことだけ。
「…まあ、急なことで色々と飲み込めないことはあると思うけど」
「……」
「決して君にとって不利になるようなことにはならないから。それだけは安心してほしい」
「…はい」
「なんにせよまだ先の話だよ。今は次の公演に集中して、気張っていきましょう」
「はい」
気を遣ってくれたプロデューサーに結局私は「はい」以外の言葉を返せなかった。
申し訳なさを感じながら頭を下げ、部屋を出る。それからふらふらとした足取りで廊下を歩きながら先ほど言われた言葉を反芻した。
私にとって不利なことにはならない。そうはいってくれたけど、こんな時期での組替えなんて、そんなの…。
…頭の中には左遷という文字ばかり浮かんでくる。
専科に組替えとかだったら「これから別格路線として極めて生きなさいってことか」と前向きに考えられたのに。
しかも、よりにもよって月組。同期は別として、上級生も下級生も全く知り合いがいない組じゃないか。
…雪組には同じバレエ教室出身の子が数人いるし、花組にはかつての分担であり、下級生時代を共にした上級生のキキさんがいる。宙組には番組でご一緒して以来仲良くしていただいているまっぷーさんが。
だけど月組には誰もいない。
頼れるのはたった数人の同期たちだけ。
社交的に見えるらしいが実はかなり人見知りな私にとって、そういう環境に身を置くのはかなり辛いことだった。
先行きが見えない不安と知らない組へご厄介になることへの重圧から足取りは徐々に重くなっていく。星組が稽古をしている教室についても重い気持ちは変わることなく、私は扉の窓から熱心に自主稽古する組子たちを見て大きなため息を吐いた。
仕方がないことだとはわかっているけれど、でも。あまりにも突然すぎて…一体どんな顔をしたらいいのか…。
その場で私は立ち尽くしてしまった。
「なに、そのでっかいため息」
私へ向かってかけられたおっとしたした声。
ハッとして振り返ればそこにいたのはいつもと変わらぬ柔らかな笑みを浮かべた我らがトップスター、みちこさんだった。手には麦茶のペットボトルが握られている。きっと自販機に飲み物でも買いに行っていたのだろう。
…と、そこで私は自分が扉の前に突っ立っていることに気づき、あっとその場を飛び退いた。
「すみません!お邪魔しちゃいました」
「ああ、うん。…っていやいや、そんなの別にどうでもいいよ。…そんなことより、なまえがため息なんて珍しい。なんかあったの?」
「え…あ…。…いや、何かあったというか…はい…まあ、あったといえば…あったんですけど」
月組に行ってほしい、と。
呼び出されて早々告げられた私はしばらくその言葉の意味を理解できずにいた。ぽかんと口を開いて動きを静止させた私の姿はさぞ滑稽なものだっただろう。
「急な話で悪いんだけど…月組のプロデューサーさんと協議してやっと決まったことでね。次の東京公演が終わった翌日付で組替えしてもらうことになりました」
「…はあ」
私の口から漏れたのはなんとも煮え切らない返事で。
…だって、それほど衝撃的だったのだ。まさか組替え、なんて。有望株の若手スターや番手がついている子たちが組替えならまだわかる。だけど別格路線と言っても差し支えのない、新人公演で一度しか主演をしたことがない私が組替え?しかも縁もゆかりもないような月組に?…一体何がどうなって、こうなっている。
なぜですか、と問い詰めたい気持ちも確かにあるのだがそれを言うことはできなかった。
当然だ。だって組替えは言うなれば会社における人事異動だ。人事にいちいち平社員が口出しできないのと同じで、組替えにただの組子である私は口出しできない。
私にできることといえば「わかりました」と頷くことだけだ。
「…まあ、急なことでいろいろと飲み込めないことはあると思うけど」
「……」
「決して君にとって不利になるようなことにはならないから。それだけは安心してほしい」
「…はい」
「何にせよまだ先の話だから、今は次の公演に集中して、気張って行きましょう」
「はい」
気を使ってくれたプロデューサーに結局私は「はい」以外の言葉を返すことはできなかった。ふらふらとした足取りで廊下を歩きながら一人思う。
私にとって不利なことにはならない。
そう言ってはくれたけど、こんな時期での組替えなんて、いいことは何一つ思い浮かばない。頭の中には左遷という文字ばかりが浮かんでくる。専科に組替え、とかだったら「ああ、これから別格路線として極めて行きなさいってことか」って前向きに考えられたのに。
…よりにもよって月組。
正直言って5組の中で一番知り合いが少ない組だ。雪組なら同じバレエ教室出身のなおぽんがいる。花組には分担だった上級生のキキさんがいて、宙組には番組でご一緒して以来仲良くなったまっぷーさんが。
だけど月組には誰もいない。
同期は別として、他の学年の誰も知らないのだ。
社交的に見えて実は人見知りな私にとって、そういう環境に身を置くのはかなり辛いことだ。
先行きが見えない不安と知らない組へご厄介になることへの重圧から足取りは徐々に重くなっていく。星組が稽古している教室についても重い気持ちは変わることなく、私は教室の中で熱心な自主稽古をする組子の様子を見て、大きなため息を吐いた。
と、そんな私の後ろからおっとりとした声が。
ハッとして振り返れば、そこには次の公演のためと髪を黒く染めた我らがトップスター、みちこさんが穏和な笑みを浮かべて立っていた。手には麦茶のペットボトルが握られている。
煮えきらない言葉で口をまごつかせる私にみちこさんは首を傾けた。
…組替えについては明後日の全員集まるタイミングで発表するつもりだからあまり口外しないでほしいとプロデューサーには言われている。ただ、絶対に言うなとも言われていないのでみちこさんに伝えようと思ったら伝えられる。みちこさんにはお世話になっているし、何より組のトップだ。言いたい、という気持ちが胸の中を跋扈する。
だけど、でも。
こんな、自分の中でもまだ考えがまとまっていない状況でみちこさんに言っていいものかどうか悩む。
顔を俯かせて何も言わなくなった私にみちこさんは優しく微笑んで、それから言った。
「…ね、今、自主稽古中だから暇でしょ。ちょっと私に付き合ってよ」
そう言って廊下にあるベンチを指差したみちこさんに私は戸惑いながらも頷いた。そしてみちこさんに腕を掴まれ、ずるずると引きずられるようにしてベンチまで連れて行かれると隣に座るよう指示される。
遠慮しながらもベンチの端に腰掛けると美智子さんはワハハ、と笑った。
「なに、遠慮してるの?もうなまえだって研10になる上級生なんだから、そんなことする必要ないって」
「いえ、そんな…失礼なこと。隣に座るのもおこがましいのに」
「おこがましいって。ほんと、礼儀正しい子なんだから」
いいからこっち、と引っ張られ、私はみちこさんの真横に座ってしまった。教室でのみちこさんの席の真横は大抵同じ学年の方々か、二番手のさゆみさん、相手役のふうちゃんだったからこうして隣に座るのは初めてだ。だからか、少しだけ気恥ずかしい。
そうして俯きながら頬を掻くとみちこさんは笑うと、それから目元に少しだけかかっている髪を手で払いながらその優しげな瞳を私へ向けた。
「それで?何か私に言いたいこと、あるんじゃない」
「…え?な、なんで」
私、何も言っていないのに。
そんな驚きを込めて瞬きをするとみちこさんは言った。
「わかるよ、そりゃ。何年一緒に毎日お稽古してきたと思ってんの。それに顔に思いっきり書いてあったし。『話したいんだけどなあ〜みちこさんに迷惑かけちゃうかも〜』…って」
面白そうに声真似まで織り交ぜてそういうみちこさん。だけどその瞳はやっぱり私を心配するように見ていて。
…彼女には本当に敵わないと思う。
「…みちこさん、凄すぎます」
「そりゃ、トップだもん。私」
「そうですね…みちこさん、トップですもんね」
言っても、いいかな。
迷惑、かけちゃうかもしれないけど。でも、やっぱりこの人には言いたいな。そんな思いが胸を駆け巡り、私はついに決意して、美智子さんの顔を見据えた。
声が震えないように、喉に力を入れて、一言。たった一言を必死で発する。
「…みちこさん、私」
「……」
「私、実は…組替え、することになったんです」
深刻な顔で、重苦しく呟かれた『組替え』の三文字。それに一体みちこさんがどんな反応をするのか、気になってじっと顔を見つめているとみちこさんは目を丸くした後に「ありゃ、そうなの」と拍子抜けしたように言っただけだった。
…あまりにも、軽い。
「な、なんですか!軽すぎませんか、それ!」
思わず立ち上がってツッコミを入れると、みちこさんは目を丸くしたまま「え、いや…だって」と声を詰まらせる。
「あんまりにも酷い顔してるから。ご家族が病気だとか、やむをえない事情で退団することになったとか、そういうことを考えていたから…」
「ち、違いますよ!組替え!組替えです!退団はしません!」
みちこさんの言葉を急いで訂正すれば、みちこさんは困ったように頬をぽりぽりと掻いてから言った。
「ああ…組替え…。そうかあ、ついになまえにもその時が来たか…って感じだね」
「…なんか、軽くありませんか。その反応」
私、結構決心して言ったんですけど。
「いや、だって、組替えって言ったって…ほら、私だって何回も組替えしてるし。直近で言えばくらっちだって組替えして星組に来たじゃない」
「……みちこさんやくらっちの組替えは納得できますよ。みちこさんはトップになったスターさんですし、くらっちだって次のトップ娘役を期待されている子ですもん。…でも、私は違う」
新人公演で主演をさせてもらった経験はあるけれど、お情けのような滑り込みの一回だけ。そのあとも抜擢があるかといえば、そんなこともなく。最近ではもっぱら老齢の男性だとかの別格路線に移りつつある私が、組替えなんて。
「…意味、わからないじゃないですか。しかも組替え先は月組ですよ」
「月組いいじゃん。私の古巣だよ」
「…月組の別格路線、別に人材不足とかじゃないじゃないですか。イケメン枠では紫門さんいるし…宇月さんいるし。その上には綾月さんに光月さんって…私なんか、必要ないでしょ…」
ポツリとこぼれた言葉は私の本音。
星から月へと組替えしていった同期のわかばを見守るため、何度か公演は観に行っている。客席から見た月組はこれ以上ないほどに素晴らしい人材ばかりの組だ。若手も揃っているし、上も充実している。
そんな組に中途半端な抜擢をされ、特技は歌だけでダンスは微妙、容姿はそこそこな私が行ってどうなるのか。やはり左遷ではないのか、この人事。
そんな思いから吐露した言葉をみちこさんはただ、聞いていて。しばらくの沈黙の後、真面目な顔でゆっくりと口を開いた。
「…なまえの気持ちは、わからなくもないよ」
「え…」
「というか、うん。よくわかるかな、私はね」
ぶらりと足を投げ出して、みちこさんは楽な体勢をとると続けた。
「『もうこの組に自分はいらないのか』『専科に行くってことはもうスタートしての望みはないってことなの』『これから別格を目指せってこと?』『つまりそれって左遷じゃん』って。…私もね、最初専科に組替えした時、そう思ってた」
「まさか…」
思わず目を丸くする。
そんなこと、思ってたのか。こんなすごい人が。
「専科ってやっぱり『脇を固める役者』ってイメージが強いからね。組替えしてくださいって言われた時は、もうどうしたらいいかわからなかった。あ、私ってもうトップを目指せないんだって思ったんだ」
「…みちこさん」
「正直ね、専科に行ってから、他の組を見るのは辛かった。後輩が活躍してるのを見て素直に喜べないで嫉妬ばっかしちゃう自分が嫌だったよ」
「…もういいです、みちこさん。すみません、…私…こんな…」
言葉を遮るようにして謝罪を口にした。
何やってるんだろう、私。愚痴なんか口にして、みちこさんにこんなことまで言わせちゃって。自己嫌悪がぶわりと湧き上がってくる。そんな私の様子に気づいたのか、みちこさんは努めて明るく笑った。
「気にしなくていいよ、別にもう、昔のことだし」
「…でも」
「それにね、私だって専科に行っていつまでもそうやって思ってたわけじゃないのよ。専科の人たちはみんな優しかったし、特出でたくさんの舞台に出れた。新しい環境に慣れるのも大変でね、そうやって忙しく過ごしてるうちにそんなこと考えてる暇もなくなっちゃった」
「……」
「それで、舞台でお客さんから拍手をもらえた時に思ったの。左遷とか、先がないとか、居場所がないとか。そういうこと思ってたのって私だけだったんだなあって。ファンの方たちは私が専科に行っても変わらず応援してくれてて。…くすぶってる暇があるなら、舞台に精進して少しでもいいものを見せなきゃって思ったのよ」
「みちこさん…」
「居場所がないなら作ればいいし、左遷だと思うなら誰よりも努力して成果を出せばいい。結局はそういう、単純な話なわけ」
みちこさんのその言葉は私の心臓のど真ん中にぶつりと刺さった。
…ファンの方たちの顔と今までもらった手紙を思いだす。『応援しています』『この前の演技、あまりにも真に迫っていて私、泣いてしまいました』『エトワール、とてもよかったです』『ダンスがとてもうまくなっていて、感動してしまいました』…。
ファンの人数なんてみちこさんと比べたらたかが知れている。それでも私を応援してくれている人たちはいるんだ。ここで私が何を言ったって組替えという事実は変わらない。それだったら私がやるべきことはただ一つ。自分の今できる最大限の努力をもって、舞台を務めあげることだけ。
ぽろりと零れた一滴の涙は私のズボンに染みを作る。それに気づかないみちこさんではないはずなのに、あえて見ていないふりをしてくれたこの人はやはりどこまでも偉大だった。
立ち上がったみちこさんはまだ蓋を開けていない麦茶を私に渡しながら微笑んだ。
「さあ、じゃあ戻ろう。…私の退団公演なんだから、最後くらいしっかりしてよね」
「…はい、…はい!」
頑張ろう、今はただ。
月組のことはそのあとに考えればいいんだから。そう思いながら私はみちこさんから受け取ったペットボトルを抱え、教室へと急いだ。