筆を執る前に始まる物語

 私はまだ何も知らなかった。いや、忘れてしまっていたという方が正しいだろうか。燃え上がるようなあの赤い宝石も、大切だった思い出も、辛い過去も、全て。
 しかし心の奥底に閉じ込めて、誰にも触れられぬように氷に覆われたそれは、ゆっくりとだが確かに解け始めていた。




 凍て解けて




 夏も終わりかけ、季節は秋へと移ろうとしている中、その事件は起きた。
 弟──綱吉が慌てて家を出ていったかと思えば、ボロボロになって帰ってきたのだ。明らかに何か危ないことに巻き込まれたであろうその姿に、わたしは弟の隣にいるボルサリーノを被った小さな赤ん坊──リボーンを見遣った。きっと、件の原因は彼にある。
 赤ん坊に何が出来るのかだとか、巻き込まれたのでは無く、危ないことに手を出しているのは弟本人なのではないかと思う人はいるだろう。それでも、わたしはどこか確信めいたものがあった。
 例えば、リボーンは普通の赤ん坊ではないこと。そしてリボーンが来てからの我が家と綱吉の変化。
 母は喧嘩に巻き込まれたのかと心配していたようだったが、きっとそんな生易しいものではない。リボーンは確実に綱吉をどこか違う道へと導こうとしている。

「何があったの……?」

「えっ、いや……本当に何も無いよ!」

 理由を尋ねてみても、綱吉は視線を逸らして誤魔化すばかり。そのままリボーンに視線を向けてみるが、相変わらず彼は何を考えているのか検討もつかない。だがわたしを見つめ返すその視線は、やはり赤ん坊のそれではなかった。

「そう……。でも、無理はしないでね」

「うん、分かってる」

 何も教えてくれないことに寂しさはある。けれど何度問い質してもきっと彼等は答えないと分かっているので、わたしはそれ以上深く聞くことが出来なかった。







 賑やかな食卓の風景。それは一年前とはまるで違った。
 まだ幼く小さい牛柄の服を着たランボや、彼と同い年の中国語を話すイーピン。その二人よりも少しだけ年上のフゥ太。そして、綱吉の家庭教師のリボーンと、彼の愛人のビアンキ。
 居候として我が家にやってきた彼等のお陰で、我が家には毎日明るい空気が流れている。時々五月蝿く感じる時もあるけれど、賑やかであればあるほど母は喜ぶので彼等には感謝している。わたし達に見せることはないが、父が殆ど帰って来れないことを、母はきっと寂しく思っている筈だから。

「ガハハハ!これはオレっちのだもんね!」

「あ!駄目だよランボ!それはイーピンのだよ!」

 しかし幼い彼等や愛人と名乗るビアンキが、どのような経緯でこんな所まで居候としてやってきたのか、私は詳しい理由を知らない。
 母にはそれらしい理由を付けて説明したようだが、リボーンの件や先日の件も含めて疑ってしまうのは仕方の無いことだろう。家庭教師としてリボーンがやって来てから、兎に角おかしなことばかりなのだから。

「なまえのも食べちゃうもんねー!」

「こらランボ!なまえ姉のも取っちゃ駄目だよ」

「わたしのはあげるから、イーピンの分は返すのよ」

 見た目で判断してはいけないと、以前リボーンから言われたことがある。まさか疑っている本人から言われるとは思わなかったが、そのお陰で自分が抱いていた疑心は間違っていないのだと確信することが出来た。
 目の前にいる小さな子供達も、普段共に生活している分にはただの子供に見えよう。しかしきっと、彼等もリボーンと同じようにただの子供ではないのだ。

「ご馳走様。お母さん、洗い物はわたしがやるから」

「あら、ありがとう」

「私もやるわ」

「ビアンキちゃんもありがとう」

 いつか、知ることになるのだろうか。綱吉が何をしているのかや、彼等が本当は何者なのかを。
 わたしに教えないということは、きっと知られてはならないことなのだろう。けれど、気付いているのに何も知らないまま生活するのは案外苦痛なものだ。元々それほど何かに執着するような性格では無いけれど、一度気になってしまえば知りたいと思うのは当然であろう。

「あらなまえ、考え事?」

「ちょっとね」

「何かあったらすぐ言うのよ」

「うん、ありがとう」

 隣で一緒に洗い物をしていたビアンキに声を掛けられる。
 悪い人じゃあ、無いんだけどな。
 疑っているとしても、もう既に彼等のことを好きになり始めている自分もいる。もしかすると、わたしが見ている彼等は偽りなのかもしれないと思うと、少しだけ胸が苦しくなるが、それでも、本当の彼等のことを知りたいと思ってしまうのだ。

 そんな私が全てを知るまでそう遅くはなかった。



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瑞花 - zuika -