月に手を伸ばした



 ハッとして、飛び上がるように起き上がれば、隣に温度は残っておらず、部屋を見渡してもあの人は居ない。思わず私は胸を撫で下ろした。
 この部屋は私のものでは無い。今夜は満月のようで、普段は闇夜に包まれている部屋の中もよく見える。
 脱ぎ捨てられた服。散らばった一昔前の紙幣。くしゃくしゃに丸められた紙屑は、中を開いて見てもなんと書いてあるのか分からない。だがそれよりも、この部屋の中で一際存在感を放っているものは、すぐ側に落ちている鋭利なナイフ。手に取ることですら恐ろしく感じるそれは、氷のように冷たく感じた。
 何度震えながらそのナイフを手に取っただろう。そして何度そのナイフを手放しただろう。弱い私はそのあと何もすることが出来なくて、手に取ったのと同じ数だけ手放している。
 たかが数日。されど数日。非現実的な現実を目の前に突きつけられた私は気が狂いそうだった。
 早く戻りたい、逃げたい。そんな思いが襲ってきても、もう私は恐怖で思うように動くこともままならない。
 何度も試したんだ。あの人がいないうちに、部屋から逃げようと。
 恐怖に包まれた暗い部屋から、特徴的な笑い声から、金糸のような煌びやかな髪の隙間から覗く瞳から。けれど、何度試したって、駄目だったんだ。

「ひっ……」

 ほらまた今日も、勇気を振り絞り、足を踏み出してドアノブに手をかけても、私の肌を切り裂くようにして体中に痛みが走り、気がついたら赤色が零れている。

「諦めろって」

 触れていたドアノブが傾いたかと思えば、目の前の扉が開き、あの人の声が響く。瞬間、あの氷のように冷たいナイフが滑り落ちるように私に向かってくると、数秒遅れてから痛みが襲ってきた。

「しししっ、運命の赤い糸ってやつ?」

 私とあの人を繋ぐ糸は、誰もが憧れる御伽噺のような美しいものなんかじゃあない。体を切り裂くワイヤーに伝った、私から零れた赤いしずく。こんなもの、運命の赤い糸だなんて呼ばせない。
 心は叫びたいほど否定している筈なのに、喉はからからに乾いてしまって、思うように声が出せない。言葉にならない声を上げれば、あの人はゆっくりと口角を上げた。

 王子様のあの人は、悪魔のような人でした。また今夜も、繋がる糸から逃れられることができない。


2020.11.04

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瑞花 - zuika -