拒絶


鶴見中尉が手配した温泉宿は、本当に自分たちが泊まるのかと尋ねたくなるくらいには立派な佇まいだった。案内された部屋も、二人だけでは持て余すほど広い。
今回の温泉旅行が、ただ純粋に自分たちを楽しませるためだけの目的で計画されたものではないことを、鯉登少尉は勿論のこと、祐季も理解していた。
今夜行われるであろう行為のことを考えると、祐季は目の前で特別変わった様子もなくお茶を飲んでいる青年を、直視出来なかった。

会話もぎこちない夕食を終え、部屋に備え付けられている露天風呂にまず鯉登が入る。
襖の向こうに敷かれていた一組の布団を思い出しながら、いっそのこと先に寝てしまおうかと考え始めたその時に、露天風呂から鯉登が戻って来た。戻って来てしまった。
旅館が用意した寝巻きの合わせ目から覗く隆起した立派な胸板を見てしまって、思わず目を見開いたのが彼にバレていないだろうか、と心配した祐季だが、いつもの精悍な無表情のまま、

「お前も風呂に入って来い。」

と促されたので、胸の内で安堵した。はい、という返事が少し上擦ったような気がするが、何か言われる前に素早く風呂に向かった。










出来るだけゆっくり浸かって、少しでも"その時"を先延ばしにしようと祐季なりに頑張ったが、元々月島軍曹のような長風呂タイプではないためにすぐ湯船から上がり、時間をかける努力は徒労に終わった。
たとえ今夜をなしに出来ても、明日の夜も過ごすのだ。最初から無駄であった。

脱衣所に置かれた寝巻きに身を包み、諦めて部屋に戻ろうとしたら、脱衣所を出たところで突然横から何かに引っ張られ、悲鳴を上げる間もなくあたたかい何かに包まれた。
その"何か"が彼だと、自分を呼ぶ声がしたことで気づく。

「こいっ、鯉登さ、」
「音之進。」
「は、」
「今から先、私のことは家名ではなく、名を呼べ。」

祐季は小さな抵抗のつもりで身じろいだが、抱き締める力が強まり。
少しの間を置いて、観念したように小さめの声でその名を呼べば、鯉登の片手が背中から腰、腰から尻、と輪郭をなぞるように滑り、ひゃっ、と反射的に声を上げたのを、鯉登はどこか嬉しそうに見つめる。

「……いつかこうなれば良い、と私はずっと願っていた。」
「っ、んっ……。」
「祐季は賢く穏やかで度胸もあり、色が白く、美しいおなごだ。きっと健康な男児を産み、良き母になるだろう。」
「…………。」

良き母、という言葉を聞き、緩みかけていた祐季は再び緊張でかたくなる。
それにまだ気づいていない鯉登は、口づけようと祐季の両肩に手を添えるが、祐季が俯いたまま両手を突き出し拒絶したため、期待はしつつも、予想外の反応に戸惑いを見せた。

「祐季、一体どうしたというのだ。あ、恥ずかしいのか? 照れるお前もなかなか愛らし、」
「私は、鯉登さんと一緒にはなれません。」
「え。」

狼狽える鯉登から後退りした祐季の表情には、鯉登のとは違う戸惑いと、悲しさ、申し訳なさがぐちゃぐちゃに混ざって表れている。

「私はいいお母さんにはなれません。我が子を心から愛せる自信がないんです。」
「祐季……。」
「鯉登さんのことは……いい人ですし、嫌いじゃないんで、愛することは出来ると思います。けど子育てに関しては、不安しか……。…私は弱くて脆い人間です。私には、鯉登家に嫁ぐ資格がありません。」

すみません、と最後に謝罪して、鯉登の胸の位置にあった彼女の視線は完全に下を向いた。

「……そうか。わかった。」


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鯉登に布団を譲って自分は畳で寝るつもりの祐季だったが、あっさり却下されてしまったので、気は進まないが布団に潜るしかなかった。

うとうとしかけたところで急に背中がひんやりしたため、目が冴える。
掛け布団をめくり、鯉登が潜り込んで来たのだ。

「ええっ……!」
「一緒に寝るだけだ。手は出さんから安心しろ。」
「…………。」

そう言いながら祐季の背中にぴったりくっついているのだが、彼が言った通り、その晩に鯉登が手を出すことはなかった。