

おやすみなさい
泊まりがけで温泉旅行に行ったのに、鯉登少尉は祐季に手を出さなかった上に振られた……という噂が、第七師団内の一部で出回っている。
その噂を聞く度に、鯉登はわかりやすく不機嫌になり、祐季は表情こそ変わらないものの、それ以上触れて欲しくないとでも言いたげな雰囲気を纏う。
「月島、私はどうしても祐季でなければ嫌だ。しかし祐季は、自分は鯉登家の嫁にはなれないと言って拒絶した。……どうすれば良いのだ。」
苦悶で眉間のシワを深くさせながら落胆している若い上官を前に、月島はどういった言葉をかければ良いのかわからず、黙っていることしか出来ない。
「女は籍を入れ、子を成し、家庭に収まることが幸福ではないのか? 自分の子を愛することが出来るか自信がない、自分は良い母にはなれないと悲しげに言われた場合、どうすれば良い?」
「…………。」
物心つく頃には母親がおらず、ろくでなしの"クソ親父"の元で育った月島には、母がいる家庭の感覚はよくわからない。
《円満な家庭》というものは、自分には一生縁のない世界だと考えている。
けれど、もしも"あの子"とあのまま夫婦になっていれば、二人の間に子が生まれ、"あの子"はその子を育てて可愛がり、母親の顔を見せただろう。少なくとも、悪い母親にはならなかったはずだ。
「……恐らくですが、祐季さん自身に、良い母親に育ててもらった経験がないのでは?」
「虐待を受けて育ったというわけか。」
「それはわかりませんが……何分彼女は、あまり自分の過去、特に親や親族について、自分から話そうとはしませんから……。」
話そうとしないということは、何か話したくない事情があるのでしょう。
月島の言葉に、鯉登の表情は何か思い詰めるような厳しいものに変わる。
月島の言った通り、祐季は自分のことをあまり話さない。
聞かれれば話すが、相手の質問に直接関係のあることだけに留め、補足は一切ない。
未来で流行っていることや社会の仕組みなどについては、あれこれとわかりやすく説明してくれるのだが、彼女自身の話題については、【聞かれない部分については答えない】というスタンスを取っている。
鶴見の考える通り、他人との間に《警戒線》を張っており、壁を感じさせている。
鯉登は、彼女そのものをもっとよく知るべきだと考えた。
なんとしても、彼女を妻として迎えたい。そのためには、彼女自身の情報がまだまだ足りない。
そこで鯉登がとった行動は、祐季と同じ部屋で寝泊まりすることであった。
営外にある鯉登の自宅に祐季を泊まらせる手もあるが、今の関係で鯉登が「私の家で暮らせ」と言ったところで「嫌です」と拒否されるのは目に見えているので、その日の夜、鯉登は自分の荷物を抱えて祐季の部屋に押しかけた。
「帰ってくれませんか。」
「断る。」
「月島さんを呼びますよ。」
「別に構わんぞ。月島軍曹には私が後ほど、きっちり説明するつもりだ。」
鶴見中尉には言いにくい問題なので、未婚の男女が同室になることについて少しは苦言を呈してくれそうな月島軍曹を交渉のカードとして持ち出したものの、あっさり突破されてしまい、祐季は閉口した。
祐季が敷いた布団の隣に、自分の布団をぴったりくっつけて敷く鯉登を、呆れた顔で見つめる。
「……あの、今から寝間着に着替えるんで、外に出てくれませんか。」
「そう言って、どうせ私が出た途端に襖につっかえ棒でもして入れないようにするつもりだろう? その手には乗らんぞ!」
「はあ……。」
断固外には出ないという強い意思を感じ取ったので、「絶対にこちらを見ない」という約束をして、お互い寝間着に着替えることにした。
パサッ、シュルッ、という布の音だけが聞こえる中、お互い黙って着替える。
鯉登は約束を破り、着替えながらこっそり器用に祐季を盗み見たのだが、白い背中にくびれた腰、脇から覗く乳房の一部を見てしまい、口から飛び出さんとする猿叫を必死に呑み込んだ。
嫌でも体が熱くなり、「こんなに興奮するのなら見なければ良かった」と少しだけ後悔した。
いつも以上の無表情で布団に潜り込む祐季であったが、
「……おやすみなさい。」
と挨拶はしてくれたので、とりあえず今日はこれでいいか、と鯉登は目蓋を閉じた。