角弓の節、某日。
 ステイシアは目覚めない。
 帝都で救出した大司教を連れ、セイロス騎士団の面々が一足先にガルグ=マクへ戻ることになった。セテス殿から申し出があり、ステイシアも、飛竜に乗せて修道院まで運んでもらうことにした。
 俺が頭を下げると、セテス殿は神妙な顔で頷いてみせた。荷馬車で揺られ続けるよりはいいだろう、と呟く彼の声や、自分がついているから、と微笑んで去って行くフレンの姿が印象に残った。
 帝国領での戦後処理を進めながら、ガルグ=マクを目指す。


 飛竜の節、某日。
 ステイシアは目覚めない。
 未だ、帝国領の戦後処理が続いていた。王国領西部では多数の貴族を処断し、領地の再編を進めている。想定より大人しくはあるが、それでも、多少の混乱や小競り合いは避けられない。旧同盟領の統治についても考えなければ……。
 各地への指示を飛ばすのに都合がいいから、と修道院に留まっているが、言い訳だとばれているだろう。


 赤狼の節、某日。
 来節、正式に新たな大司教猊下から戴冠をいただくことに決まった。一度、王都へ戻ったほうがいいと誰かが言った。拒否したつもりでいたが、気が付くと、いつの間にか帰ることになっていた。
 彼女は、まだ眠り続けている。
 フェリクスが、以前フラルダリウス家で保護していた時も、何日も眠り続けることがあった、と話してくれた。彼にしては、わかりやすい慰めだと思う。確かに再会したばかりの頃、ステイシアはずっと眠そうにしていて、暇があれば寝ていたように記憶している。しかし、それにしたって限度がある。
 こんなにも長期間、昏睡の底にいれば、衰弱して、いずれ死ぬだろう。
 毎日、今日なのではないか、と震えが止まらず、また日が明けて……。ひどく緩やかに流れる川のように、確実な死の気配を漂わせながら、それでもまだ、ステイシアは寝台の上に留まっている。
 何が起きているのか、よくわからない。
 彼女を押し留めているものは、一体、なんなのだろうか。考えても答えは見つからず、かわりに、じわじわと冷たい疑念が足元から這い上がってくる。
 もしかしたら、ステイシアは既に死んでいて、俺だけが、眠る彼女の幻覚を見ているのではないか。
 そんなはずはない、彼女はまだ生きている。そう思って、気弱な己自身に憤る日があった。一方で、俺が見ていると思うもの、その実在こそが、何よりも疑わしいじゃないか、と目を覆いたくなる日もある。
 同じものを見ているようで、己の中に結ばれる像は、いつも微妙に違っている。振り子にでも乗せられているようだった。毎日、似たような景色がゆらゆらと揺れて、だんだん、曖昧になってきた。
 しっかりしろ、と誰かが言った。誰だろう、先生だったか。おそらくそうだ。
 日が明けて、日が明けて……。
 明日、修道院を発つ。


 今日も、まだ眠っている。
 ステイシアの眠る部屋の戸を開けると、いつもと変わらない光景が広がっていた。部屋の隅に机と、その上に幾らかの本が積んである。机の足元には空の屑籠。薄暗い部屋の中、寝台の上に、横になったままの彼女の姿。
 近くには窓があって、士官学校の生徒宿舎と違い、ガラスが嵌められている。波紋の広がる水面を、いくつも切り出し、繋ぎ合わせたような形状をしていた。外の風景を映し出すには些か歪みすぎている。波打った表面には、白み始めた空の仄かな色味だけが、ぼんやりと滲んでいた。
 彼女の体が医務室から自室に移されて、どのくらい経ったのだったか。この部屋で、幾つもの色を見た。朝日の白光。夕日の橙。滲む星の金。
 修道院で再会するまでの四年間、彼女もそれらを眺めていただろう。きっと、俺が目にしたよりも、遥かに多くの色を。彼女の目には、どう映っていたのか。美しい、と思っただろうか。そういう、たわいのない話をしたかった。
 本当に望んでいたのは、それだけだったように思う。
 他人とは、彼女の部屋の窓、その向こうに広がる景色に似ている。いくら目を凝らしても、はっきりとした像は結ばない。目を逸らせば見えなくなり、途端に何もわからなくなる。それが当たり前なのだろう。誰も彼も、俺ではないのだから、わからなくて当然だ。
 それでも、目を逸らしたくなかった。わからなくとも、見つめていたかった。滲み歪んでも、それが、何より美しいと思える瞬間がある。ほんの僅かでもいい、お前を知り、欠片だけでもいい、他人ではない何かになりたい。それが、共に生きるということではないか?違うだろうか。彼女は違うと言うかも知れない。どうだろう、わからない。
 寝台の脇に椅子が置いてあって、そこに座る。
 廊下の外でドゥドゥーが待っている。日が昇り切ったら、出発しなければならない。もう、あまり時間がない。
 ステイシアの寝顔を眺めると、薄く口が開いていた。繰り返される呼吸で、胸が小さく上下している。安穏とした顔に見えた。いったい、どんな夢を見ているだろう。それとも、夢など見ないほど、深く眠っているだろうか。
 おかしいとは思うのに、どうしたって、眠っている。横たわる体もまた虚な像のようで、一体何が、本当だろう。穿ってみても、やはり、見えるようにしか見ることが出来ない。
 白い敷き布の上に、左腕の空洞が転がっている。それに触れた。
 まだある、と唱えてみる。
 そうだな、と思った。
 何も嘘にはしない、とステイシアは言った。
 俺は信じなかった。しかし、彼女にとっては、どちらでも良かっただろう。なぜならこの人は、俺が音を上げるほど、諦めが悪いから。
 本当は、わかっていた。
 何かが押し留めているのではない。
 ステイシアが、俺の手を離さないままでいる。
 いつも、立ち止まってくれる。往々にして、俺の望む形ではなかったけれど、彼女にとっては、それが応えるということなのだろう。
 ステイシアは、本当はとても臆病で、だから、すぐ逃げていく。何も掴もうとしないし、掴まれるのも嫌う。風に飛ばされ、川に流され……そんなふうに軽くなって、ずっと遠くまで行こうとする。彼女の在り様が、それを望んでいるのだ、と延々訴えていた。
 それでも、会いに来てくれた。夜の森や、暗い牢の奥まで。修道院で別れた時、手紙の返事をくれた。橋を渡る時すら、おかしな約束を残した。
 あの時。
 俺はお前の鱗を飲んだ。お前は俺の鱗を飲んでくれた。それからずっと、俺を生かすために生きてくれた。今も。
 永遠に続く寝息が聞こえる。
 俺が一緒にいようと言ったから、どうにかしようとしているのだろう。律儀で、いつもどこかズレている。けれど、それが彼女らしいと言えば、そうかもしれない。
「……本当に、他人の世話ばかりだな」
 左袖を、額に押し当てた。
 息が詰まる。
 それでもまだ、生きていられると思った。
「……ねえ、また……泣いてる、の?」
 不意に、声が聞こえて、顔を上げる。
 薄く開いた彼女の目と、口元が見えた。
「困るよ、それ……ほんとに困る……」
 何が起きているのか、本当に、わからなかった。もしかしたら、夢を見ているかもしれない。視界が、全てが、滲んでいく。しかし、もう何でもいい。何もかも、どちらだって良かった。


 星辰の節、某日。
 大聖堂の脇、夜のテラスに彼女が立っていた。空を見上げている。おそらく、星。星を探しているのだと思う。
 俺も空を仰いだ。女神の星、あの青い星は既に見えない。次に空へ登るのは、半年程先になる。その時は、もしかしたらまた、彼女が踊るのかもしれない。
「ステイシア」
 名前を呼ぶと、振り返る。吐き出した息が白く染まって、その姿が一瞬、霞んだ。
「こんな場所にずっといると、風邪をひいてしまうぞ」
「平気だよ、これ着てるし」首を振るステイシアの肩に、分厚い外套が掛かっている。「王国よりずっと暖かいのに、みんな大袈裟すぎるんだ」
「少し前まで寝込んでいたやつに言われてもな……」
「ああ……まあ、それはそう。反省している。心配かけてごめんね?」
「もっと反省してくれてもいい」
 ステイシアは一瞬面食らったように目を見開いて、それから肩を揺らして笑った。弧を描く目元、その奥で、ちらちらと何かが瞬いている。
 その光を眺めていた。
「ディミトリ?どうしたの」
 彼女が訝しげに首を傾ける。
「いや……」
 逡巡があった。告げて良いものか、わからない。しかし、気持ちを偽ることもないのではないか、と思い直して、目を伏せた。
「お前は、その……星のようだなと思って」
 しばらく、静寂が続いた。恐る恐る視線を上げると、苦虫を噛みつぶしたような顔が見える。
「星じゃない、ここにいる」
 吐き捨てるような声色は、しかし、不思議といじけているようにも聞こえた。何を言えば怒るのか、何となくわかっているのに、つい踏み抜きたくなってしまうのは、どうしてなのか……。
 こちらを睨む視線は、真っ直ぐに俺の目を捉えていて、やはり何かが瞬いていた。その様を眺めていると、やがて瞼が揺れて、ステイシアは何か考え込むような素振りを見せる。
 再びの静寂の後、彼女が顔を上げた。そして、ゆっくりと、こちらに向かって歩いてくる。
 一歩、二歩、三歩。
「ほら」
 俺の前に立つ。手が差し出されている。
「君は知っているはず」
 その声を聞いて、目を閉じた。
 ああ、そうだ。そうだった。
 いつか、俺たちがまた何かを損なっても、それこそ、もう一つ目を失って、何も見えなくなったとしても、お前は俺の中にあり続けるだろう。姿が見えずとも、触れられずとも、延々と、予感を灯し続けるだろう。
 俺の中に落ちた美しい鱗。くるくる、ちらちら、瞬いている。
 お前が剥いで落としたそれは、やはり星のようだと思った。


 手を伸ばす。


(改訂:2025.09.20)
(投稿:2025.08.24)


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