消え入りそうなごめんねを呟いた彼女は、部屋の中に入ると静かに襖を閉めた。
すぐに明かりが消えたからもう眠りに入ったのだろう。
何を思ってその謝罪の言葉を呟いたのか。ま、俺には甘えられねぇとかそんなとこだろう。
刻「まったく、クロちゃんは昔から変わらないんだからもぉ〜」
薬「刻燿…」
途中からずっと聞いていたらしい。大将も気配を感じていた筈だし何も言わなかったから俺も放っておいたが、今の台詞は少し引っ掛かった。
薬「″昔から″?」
どういう意味だ?とその読めない笑顔を見つめる。刻燿は大将がこの本丸に来たその日に政府から貰ったのだと言っていた。ならばそれより過去のことは刻燿も知らない筈。
だが今の口振りだともっと前から大将を知っていると言いたげだ。
睨むまではいかなくとも訝しげな顔をしたからだろう、刻燿はニィッと口角を上げるとヒラリと縁側から下り、数歩進んだところで俺に振り向いた。
…ついて来いということか。ここで話していたら大将を起こしちまうから。
チラッと離れの襖を見やってから、俺も刻燿の後ろを歩く。池にかかる橋の上までやってくると漸く刻燿が口を開いた。
刻「そぉんな怖い顔しないでってばぁ〜」
薬「させてんのはあんたなんだがな」
刻「ふふ〜ごめぇんね。でもでもぉ、クロちゃんのことむかぁしから知ってるのはホントだよぉ」
薬「何故だ?」
刻「それはまだひーみつ!」
薬「…………」
掴めねぇ!掴み所が無さすぎる!!
付喪神ってのは人の想いが物に宿って生み出された神だ。だから大抵は持ち主だった者の性格に似ることが多い。或いは刀工とか…。
…の、筈なんだが、刻燿の場合はどうなんだ?大将とはまったく別の性格だよな?前の持ち主の性格に似たってことか?なら政府で使われてた時の大将のことは知ってるってことに…?
そもそもいつの時代の刀なんだこいつはっ!!
……わからねぇ…頭痛くなってきた。
刻「ふふ〜悩んでるねぇ〜」
薬「悩ませてんのもあんただろうが」
刻「ごめぇんね!」
ニマニマ笑いながら欄干に身を預け、刻燿は池を覗き込む。深い闇一色に包まれたそこは、鯉がいる筈なのに生き物の気配を感じさせない。
薬「…はぁ、もういい」
刻「あは!…でもさぁ、いっこだけ信じてぇ」
薬「?」
刻「ボクねぇ、クロちゃんのこと守りたいのぉ。
だいだいだぁいすきなんだぁ〜」
薬「!」
刻「あ!恋情じゃないからねぇ〜」
くふふと笑う口許を長い袖で隠しながら、今度は空を見上げた。
刻「クロちゃんはねぇ、むかぁしからすっごくすっごぉく強い子だけどぉ、とぉ〜っても弱いんだぁ。意味わかるぅ?」
薬「…ああ」
大将は強い。ここにいる誰よりも心が強い。…強くあろうと何に対しても芯を曲げない負けず嫌い。
だが、大将だって人間だ。俺たちと違って手入れをしてすぐに傷が治るわけじゃねぇし、人間には病なんてものもある。
誰よりも強く、誰よりも弱い存在。
刻「そぉ。弱いのに強くいようって頑張るクロちゃんって凄いよねぇ。妹ちゃんの為にって欲望も願望もぜぇんぶ呑み込んで」
薬「…………」
刻「呑んで呑んで呑み尽くして…。でもそれを周りには悟られたくないからねぇ、別のことして忘れようとするの〜。クロちゃんは優しいからモノに当たることもしないしぃ。…全てを呑み込むとさぁ、人間ってどぉなると思う?」
欲望も願望も全てを…?
周りに知られたくないなら…顔に出さなければ良い?
呑み込む…我慢……感情を……?
薬「!おい、まさか…」
刻「さぁね〜」
薬「は?」
刻「こっから先はボクも憶測だからさぁ」
薬「おい!」
刻「怒んないでってぇ。でもね、十中八九キミが思ったことで合ってる筈だよぉ」
薬「…っ」
ハッキリしない会話に舌打ちしたい衝動にかられた。結局刻燿は何を言いたいんだ?俺にこんなことを話してどうすると?
顔を歪めた俺にクスッと笑うと刻燿は足元に転がった小石を一つ掴み、池に落とした。
ぽちゃん…と音を立てた水面に波紋が広がっていくのが月明かりでわかり、それに満足げな笑みを浮かべると刻燿はまた語り出す。
刻「大切な人を守ろうって頑張るのって凄いよねぇ。それはその人本人のことでもあり、想いもそぉ」
薬「想い?」
刻「そ!大切な人が残した、大事な想い。クロちゃんはそれをぜぇんぶ守ろうと頑張ってるのぉ」
だけどねぇ…と、刻燿は今までより低い声で池を見下ろした。もう波紋は無くなっていて、静かな暗闇だけがぽっかりと口を開けている。
刻「大事なものを守ることにばかり一生懸命でさぁ、自分のことは二の次…というかたぶん五の次くらいになっちゃってるんだよねぇ〜困ったことにぃ〜」
薬「それは同感だな」
刻「だよねだよねぇ!いくら刀剣男士いないからってさぁ、自分で出陣しちゃうなんておかしいよねぇ!」
だったらさくぅっとボクのこと顕現させてくれればよかったのにぃと腕を振り回す刻燿に苦笑した。図体でかいくせにまるで子供だ。背は高いのにひょろっと細くて身軽で…、なのに大太刀だというのだから侮れない。
…大好きだと言っていた。刻燿の言うそれは恋愛という意味でなく、持ち主(…飼い主と言う方が合ってるか)という意味で好きなのだろう。
確かに人間は感情的になるとモノに当たることがある。前任だってそうだったしな。だが大将にはそんな素振りは無い。そもそもそんな感情的になる大将はまだ見たこと無いからわからねぇが、昔から知っているらしい刻燿が言うならそうなのだろう。
大事にされるというのは俺たちみたいなモノにとっては甘美な麻薬だ。一度それに侵されれば後戻りは出来ない。加州や刻燿がその良い例だと思う。
刻「そんなわけでぇ!」
薬「!」
ぐいっと手を引かれ、何かと思えば俺の手に小石が置かれた。どういうことかと刻燿を見上げればまた考えの掴めない笑顔になり、欄干へ向くように背を押してくる。
刻「ボクはねぇ、だぁいすきなクロちゃんを守るって決めたんだぁ。クロちゃんがもう傷つかないようにぃ〜。クロちゃんに与えられた未来への筋書きなんてボクがぜぇんぶ斬り裂いてぇ、でもでもクロちゃんの守ってるモノはぜぇんぶ守り抜いてぇ、幸せな幸せな物語にしてあげるのぉ〜。それがボクの夢なんだぁ〜」
薬「…でかい夢だな。簡単にはいかねぇぞ?その夢」
刻「うん!でも何もしないより良いでしょぉ?静かすぎる水面にぃ、たったいっこだけ小石を投げるだけでも波紋が出来るんだよぉ?」
薬「…………」
手に乗った小石を見つめる。これを投げ入れれば波紋が出来る。投げてもまた静かになってしまうかもしれないけれど、変わることもあるかもしれない。
可能性というものは、いつでもどんな時でも存在する。
薬「……そうだな」
刻燿について。大将について。
疑問が増えたが悪い時間じゃなかった。
大将を守る。それはただ身体に傷をつけないだけでなく、心も守れなきゃ意味がないんだ。
ぐっと握った小石を投げると綺麗な波紋が広がり、鯉が一匹水面を跳ねた。