レインマン
伊智子は厨房を後にし、1階へと降りてきていた。

夏候覇の手伝いも無事終わった。手伝ってすぐはどうなることかと思ったけれど…趙雲のおかげでずっと早く終わったみたいだ。夏候覇もひどく感動していた。
そのおかげで、まだ外来受付時間にはもうすこし余裕がある。部屋に戻ってゆっくりしようかな…?

「うーん…肩痛い」

ずっと同じ体勢だったから少しからだが固まっている。
ぐっと伸びをしながら玄関のほうへ歩いていると、エントランスの大きな1枚ガラスに大粒の雨が叩きつけていた。
そこから見える街の様子も薄暗く、街路樹が強い風にあおられて青々とした葉をたくさん散らしていた。


「わ…すごい雨。受付にタオル多めに用意して…ホールと「波」のお部屋に軽く暖房つけてもらわなきゃ…ん?」


そんなことを思っていると、視界に見知ったなにかを見つけた。
ざあざあと降り注ぐ雨の中、ちらちら見える金色のあれは――髪の毛?
そっとしておくべき赤の他人だと思っていた。が、目をこらして見ると、その認識は残念だが完璧に外れてしまった。


「!?ちょ、ちょっと…!なんで雨の中傘も差さずに…!!」


なんであんなところに……!!!
伊智子は慌てて置き傘を片手に外に飛び出した。ああ、自動ドアの時間差が今はもどかしい。
ドアに軽く肩をぶつけながら外に出ると、雨の中服を着たまま空を見つめてびしょ濡れになっている青年に向けて声を張り上げる。



「か…風邪!風邪ひいてしまいますよ!関興さん!!」



雨の音に負けないように声を張り上げると、名前を呼ばれた青年――関興は、ゆっくり、本当にゆっくりと視線を伊智子のほうに向けた。

「……あ。伊智子。おはよう」
「おはようございます関興さん雨の中立っていたら体が冷えて風邪をひいてしまいますよ!!」

天候を無視したぼんやり顔の関興とは打って変わって、焦りと動揺から若干早口になる伊智子。

「午前から雲行きが怪しかったから…いつ雨が降るのかなって思って…外で待ってた…」


なんだそれは!?雨が降るのを調べるんだったらビルの中でもできるのに…。
普段はぼんやりおっとりな関興だだ、たまにこのような突拍子も無いことをしだす。その度に回りの人間が東奔西走する羽目になっているのだ。

謎の検証をしていたという関興に、伊智子はぐったりと脱力する。


「そ、そうなんですか……とりあえず雨と風がひどいので中に入りませんか…?」

「あ、うん…」

よかった。とりあえず中に入ってはくれそうだ。そう安心したのもつかの間。
その時一層大きな風が吹き、伊智子の持っていたビニール傘を吹っ飛ばした。

「ああああああ、傘が!!」

「いけない、取りに行こかなければ」

「えっちょっ待って待って」

吹っ飛んでいった傘はもはやどこに行ったのかわからない。ていうか、遠くでバキバキに壊れたようにも見える。
それなのに関興はこの雨の中傘を取りにいくと言う。
伊智子はギョッとして、思わず関興の腕に追いすがる。筋肉のついた腕をがしっと捕まえた。


「いっいい!いいです大丈夫です!置き傘のビニ傘なんで大丈夫です!雨が上がったら、きちんと回収しに行きますから。だから早く中に入りましょう!お願いです」


このままでは二人揃って風邪を引いてしまいます、と涙なのか雨なのかよくわからない液体に濡れた顔で言うと、関興は5秒くらい黙ったあと、「…分かった」とようやくクリニックに向かって歩き出してくれた。


関興は大学2年生の医師アルバイトだ。
クールな見た目と相反して少々ぽんやりした気性らしく、不思議な言動でいつも回りを癒し、時には振り回している。

同い年の張苞と仲が良いらしく、たまに廊下で見かけると二人で仲良さそうにお話している姿を見ることができる。というか、会話の割合は8:2くらいで張苞がしゃべっているのだが。一見対照的に見える二人はなかなか気が合っているようだ。

また、関興には兄が一人、そして弟が一人いる。
その兄弟たちもまた当クリニックでアルバイトとして働いているのだ。


ようやく二人揃って屋内に戻れた時はすでに関興のみならず、伊智子も見事に濡れネズミとなっていた。
服だけでなく髪の毛からも、締め忘れた蛇口のように水がしとしとと零れ落ちている。

ど〜しようこれ……。と途方にくれていると、バタバタと慌てたような足音がこちらに近づいてきた。


「関興!お前というやつは…どこに行ったかと思ったら…なぜこの雨の中外にいたんだ」

「兄上!びしょ濡れではないですか。それに伊智子まで…ひどい格好だ。ほら、これで体を拭きなさい」


こちらにやって来たのは関興の兄弟、関平、関索の二人だった。どうやら二人ともシフトが入っていたらしい。
関平は黒服、関興と関索は医師のアルバイトをしている3兄弟だ。(うわさでは、とても可愛い末妹がいるらしい)

二人とも大きなバスタオルを抱えていて、関平は関興に、関索は伊智子にそれぞれタオルを手渡す。
ああ、ふかふかでやわらかくて、いい匂い……。

わしわしと顔を拭いていると、関索がもう1枚持っていたタオルで伊智子の頭を優しく拭いてくれた。


「伊智子。君は女の子なんだから、いくら兄上がいたからって雨の中飛び出してはいけないよ」


関索は整った眉を困ったように下げてそう言った。

「女の子」と言うが、タオルでわしわしされている今の気分はさながらシャンプー後の犬だ。じゃあ、メスの犬ということかな…。

伊智子が素直に「はい、ごめんなさい…」と言うと、関索は女性顔負けの美しい笑顔を浮かべた


「いい子だ。まだ時間に余裕があるようなら、湯に浸かってきたほうがいい」

「…そうします」

タオルごしに顔を包まれ、濡れておでこに張り付いた前髪をよけられる。
目と目をじっと見つめながらそういわれると素直に頷いてしまう。

すると、隣から怒声が聞こえてきてそちらへ目を向ける。


「全く!なぜ雨の中外にいたんだ。しかも自分だけではなく伊智子も巻き込むとは…風邪をひいたらどうする。仕事にならないだろう」

「……雨が、いつ降るのかと思いまして」

「な…ん………雨………そうか………。
 ………次からは、外に出ず、部屋の中で済ませるんだ…いいな…」

無駄に雨に打たれた弟を叱る関平だったが、関興のななめ上の発言に怒る気力もなくしたようだ。
びしょぬれの関興の上着を片手に、手際よく体を拭く姿はなんだか慣れている。
関興も大人しく関平に世話を焼かれているし、昔からこのようなことが多かったのだろうか。


どちらかというと、関興のほうが犬っぽい。それも、毛並みの綺麗な大型犬。
関索に優しく頭を拭かれながら、伊智子はぼんやりそう思った。


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