看板ワンちゃん
「それではこちらをお持ちになってお待ちください」
「どうもありがとう…ところで」
愛想笑いもだんだん板についてきた伊智子は、今日も慣れた手つきで受付を終えた女性にバインダーを渡す。
普段ならそこでやり取りが終了なのだが、今日はバインダーではなく服の上から手首をグッと掴んできた。
そのため、伊智子は手を引っ込めることができず、そのまま客と顔を突き合わせることになってしまった。
「え?えと…あの」
「あなたって、医師になる予定あるのかしら?」
え!?
美しい女性の美しい唇から飛び出してきたのは予想外の言葉だった。
「ここの男の人ってみんな素敵だけど、正直あなたみたいなタイプっていないじゃない」
伊智子の手首を掴んでいないほうの手を頬に当て、困ったようなポーズをした。
自分のようなタイプの医師がいたらおかしいのでは、と思ったがお客様相手に言えるはずもなく。
「だから、あなたが医師になってくれたら楽しいのになって思ってるのよ。ねえ私、あなたともっとたくさんお話がしたいわ」
赤い口紅のよく似合う女性はそう言った。
正直、伊智子が男であれば今この瞬間、この女性に惚れてしまうくらいの殺し文句だと思う。
しかし伊智子は女なので、この女性の希望どおり医師になることも、受付業務以外のことを話すこともできない。
どう返事をしようかと迷っていたところ、助け舟がやってきた。
「お待たせ致しました、お客様。凌統医師がお待ちです。ご案内いたします」
小十郎だ。完璧な所作で女性の後ろについて一礼し、手を差し出した。
黒服が来たことにほんの少し残念そうな顔をした女性はようやく伊智子の腕を開放してくれた。
「あら。邪魔が入っちゃったわ。じゃあね、ワンちゃん」
「わ!?!?」
ワ…ワンちゃん!?
仕事中ということを忘れるほどの衝撃が走り、思わず素に近い声が出てしまった。
驚いた伊智子を見た女性は、キョトンとした顔をした。
「…あら?知らないの?常連の間ではみんなあなたのことそう呼んでるわよ」
し、知らねぇ。ていうか、知りたくなかった。、
女性はもう一度、じゃあね、と上機嫌で手を振った。
その手を小十郎の手にのせると、二人は優雅に連れ立って歩いていく。
ーご無礼ながら…受付担当への不必要な接触はお控え下さいませー
ーわかってるわよ。もうしないって。…多分ー
二人からそんな会話が聞こえてきたが、今の伊智子には気にする余裕がなかった。
女性と小十郎の声が聞こえなくなり、姿も見えなくなっても、伊智子の心臓はしばらくバクバクとうるさかった。
悪いようには言われてないのは…わかる。多分。
医師としては絶対に無理だけど、お話したいと言われていやな気持ちはなかった。
だけど、だけど…ワンちゃんと呼ばれてるなんて知らなかった。
しかもあの女性だけでなく、常連の方々はみんなだという。
もしかして、初出勤の日、姜維を予約した女性もそう言っているのだろうか。
伊智子は自分の心が、色んな感情で複雑に混じりあってモヤモヤとするのを感じ、思わず心臓の部分をぎゅっと手で押さえた。
「……あれ?」
そうしてると、何故か女性を医師のところまで送り届けた小十郎が早々に受付まで戻ってきた。
…何しに戻って来たんだろう。大体、客が席についてすぐはドリンクの注文をうけるだろうから厨房にいかなくていいんだろうか。
心なしか、小十郎の顔が明るい気がする。いや、表情は相変わらず無だけど。
…なんか、すごくいやな予感がする…。
「…ワンちゃん様、ご気分が優れませんか?」
「言うと思った!!からかうのはやめてくださいっ」
伊智子の背後にそっと立ち、耳元でそっと呟く小十郎。無駄にいい声なのが頭にくる。
「これはこれは。ご無礼を申し上げました」
怒った伊智子に対し、小十郎は口だけの謝罪をくれた。
「先に食事休憩をとってください。その間は私が受付を担当致します」
「あ…ありがとうございます」
嬉しい申し出にちょっと機嫌が上向きになったのもつかの間。
くう……
伊智子の腹から小さい音がかすかに響き、しばしの静寂が二人を包む。
「…あ、「良し」と声をかけたほうが宜しいですか?」
「小十郎さん!!!!」
沈黙を破った小十郎の言葉と目線に耐えられなかった。なにが「良し」だ…!
小十郎に大いにからかわれた伊智子は、逃げるようにして赤い顔のまま休憩室に飛び込んだ。
後ろで小十郎が「…尻尾を巻いてお逃げになられましたね」と言ってるのが聞こえたが、ムカつくので無視した。
(しかし今後、小十郎と二人でいる時にたびたび「伊智子様…あ、失礼致しました。ワンちゃん様」「散歩にお連れ致しましょうか?」などとからかわれることになるとは、今の伊智子は知る由も無い)
- 51/111 -
看板ワンちゃん*前 次#
|
しおりを挟む
小説top
サイトtop